ど、ど、ど、と
縁側を踏みしめるようにして歩く足音が響く。
その音が耳に入った薬研が首を巡らせるのとほぼ同時に、
彼の研究室としてあてがわれている一室の扉が、弾けるようにスライドして開いた。
「薬研!」
「おう、大将。元気になったみたいだな。思ったより早かったじゃねぇか」
「ええ! おかげさまでね!! ありがとう!」
「どーいたしまして」
律儀に腰を九十度に曲げた女審神者は、
バッと風を切るような音をさせて面を上げると、薬研を睨みすえた。
「ところで、すっごい不味かったんですけど、あの風邪薬!」
審神者の言葉に、薬研がふふん、と口角を持ち上げる。
「ほぉ。研究し甲斐があったな。どんな味だった?」
「言葉には言い尽くせない味でしたよ。もうなんか、くそ苦くて渋くて」
「りんご味の方が良かったか?」
「りんご味の方が良いよ! 何!? あったの、りんご味」
「ああ」
「なんでそれくれなかったの!」
「不味けりゃ、風邪引かないよう気をつけるだろ」
「不味くなくても気をつけるよ! そもそも、今回だって気をつけてたよ!」
「腹出して寝てた奴の台詞とは思えねぇな」
「え、いつの話!?」
「この間、昼寝中」
「薬研…もしかして、見た…?」
「見たも何も、なおしたのは俺っちだっての」
「マジか――!」
どうやら本当に回帰したらしい。
いつにも増して元気が有り余っているらしい女審神者は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「女としてヤバイかも」
「ヤバイな」
「そこはフォローをくれても良くない?」
「手の施しようがねぇ」
「マジで酷い薬研!」
ぴしゃりと雷に打たれたように、女審神者は言う。
ふらりと身体を揺らして、あからさまに肩を落としていた彼女だったが、不意に、
「ねぇ、薬研」
と、悪戯を思いついた子どものように猫なで声をあげた。
「…なんだ? 気持ちわりぃ」
「巷ではやりの、やせる薬、作って」
「はぁ?」
「これ飲めば、マイナス六キロ! とか」
「そんなん飲むなら、運動しろ」
「地道な運動が出来て痩せるなら、してると思うの」
「………真顔で開き直るなって」
至極呆れた目を向けられたが、女審神者はめげなかった。
「ねぇ! 薬研! 不味くても飲むから、文句も言わないから!」
「薬ねぇ」
薬研が宙を仰ぐ。
ややあって、一丁やってみか、と言う彼のたくましい言葉に、女審神者は瞳を輝かせた。
「楽しみにしてるね!」
「――って、言ったよねぇ? 薬研」
先日のご機嫌はどこへ行ったのやら、女審神者は大層不機嫌だ。
薬研はそんな女審神者を、満足気に見ている。
「そもそも食べても痩せるなんて、俺っちには、毒か何かとしか思えねぇしな」
「極論じゃない?」
「持論だ」
「だからって、頼んでもないことしないでよ…」
「似合ってるぜ、大将」
「似合ってないよ…全然」
頭を抱える審神者の頭上に、ぴょこりと生えた耳。
「どういう事をしたら猫の耳が生える薬が作れるのよ…」
「猫じゃねぇ、狐だ」
「狐?」
女審神者が怪訝な声をあげる。
しばしの間を置いて、彼女は畳を手ではじきながら声をあげた。
「……小狐丸か!」
「せーかい」
ニコニコと笑う薬研は、女審神者の頭に手を伸ばす。
ふにふにと触られても、不思議と感触はない。
「感触はねぇんだな」
「薬研は?」
「俺っちもないね。小狐丸が言うには、一種の幻術とか何とからしい」
「薬研、その何とかとかかんとかの幻術は、なおるのよねぇ…?」
「分からん」
「分からんって…」
「そろそろ小狐丸が来るはずだが…」
「ぬしさまぁああああ――!」
軽快な音を立てて開いた襖の奥には、瞳を爛々と輝かせる小狐丸。
彼は女審神者の頭に生えた獣耳を見るなり、「ぉぉおおおお!」と歓喜の声を上げて両手を瞼の上に置いた。そのまま、背中を仰け反らせる。
大げさなまでの身振り手振りを、女審神者は静かに見据えた。
「なんと、かわいらしい!」
「可愛くないよ。どこがだよ。痛すぎるよ」
「いたい、とな? どこかお怪我を?」
「そういう意味じゃないっての!」
女審神者は声を上げて突っ込みをいれると、立ち上がって歩み寄り、小狐丸の腹筋にストレートパンチを繰り出す。
ぽす、と空気が抜けるような音がした。
さすが小狐丸。隠すことなく胸元の筋肉を晒しているだけある。
審神者のパンチなど、蚊が刺したようなものだった様子で、
彼ははた、と瞬くと、首を傾げた。
「お姫様だっこを、して欲しいと?」
「言ってないよ!」
「むしろして差し上げます、ぬしさま。さあ。さあ」
「さぁじゃないよ! 重いから止めてッ」
「重いなどととんでもない。羽のように軽いはずでございます」
「どんな女だわたしは!」
振り下ろされた両手を、女審神者はかろうじて避けた。
すると、少し後ろでそれを見ていた薬研が口を挟む。
「なあ、主」
「……何よ」
「すげぇな。尻尾まであるぜ」
「小狐丸ぅぅううううぅう!」
「はい! ぬしさま!」
「返事いらないから! もぅ、どうしてくれんの、これ! 治るんでしょうね!?」
「治りますとも」
「じゃあ、今すぐ…」
「ぬしさま。呪いというものの解き方をご存知でいらっしゃいますかな?」
突然、真面目な声音になった小狐丸に、女審神者は訝しげな視線を向けた。
「…呪い?」
「そう。ぬしさまは、幻術と言う名の呪いをかけられた…言うなれば、そう、おひめさま」
話が良く分からない方向へ向かってきた。
ちらりと薬研を見ると、彼は肩をすくめてみせる。
皆目検討もつかないらしい。
小狐丸は意気込むと、畳に片膝をついた。そうして、うやうやしく手を伸ばす。
「おひめさまの呪いを解くには、おうじさましかおりませぬ」
なんか、嫌な予感がしてきた。
女審神者の脳裏に、数日前、至極熱心に「白雪姫」の絵本を読んでいた小狐丸の姿が浮かんだ。
常日頃から、ぬしさまぬしさま毛並みを整えてくださいませと、
大きな図体で子どものように甘えてくる小狐丸だが、
彼は稲荷神社の加護を受けて生まれて来た太刀。
その恩恵で授かった力で、ちょこちょこ騒ぎを起こす事は稀にあった。
とはいえ正直ここまでの事が出来るなどとは思ってもみなかった女審神者は、無邪気な笑顔にゾッと背筋を震わせる。
女審神者が「…まさか…」と低く呟くと、小狐丸は満面の笑みを浮かべた。
「おうじさまの役目、是非この小狐丸に」
「ちょ、ま…! 正気!? 薬研、なんでこんな話に手を貸したの!?」
「嫌、俺っちは安易に痩せたいって言う大将にお灸を据えようと思っただけだが…」
「とんだお灸だよ! もう二度といわないよ!」
そういう間にも、女審神者は一歩二歩と後退さる。
薬研は嬉々としている小狐丸と、対照的に氷でもかぶったかのように真っ青な女審神者をかわるがわるに見て、「つまり」と手を打った。
「その呪いを解くには、王子様のキスが必要って話か」
「そうです」
「それで? その王子様と言うのは、大将が選べるって話なんだな?」
「この小狐丸だけに出来れば良かったのですが…口惜しい」
「出来なくて良い! 金輪際禁止!」
「ぬしさまがそういうのは承知しておりましたゆえ、ここは公平に――皆の多数決で」
「皆って!? まさか…!」
「もうすでに取りましたところ、半数以上の可決を頂きました」
「すでに取ったの!? 何そのわたしの意見がまったく尊重されない感じ!」
「大賛成が半数」
「大賛成って何!?」
「猫耳や犬耳と言う意見も多くはございましたが。まずは独断と偏見により、おそろいを! この小狐丸とおそろいを!」
「薬研――!」
「すまん、大将。お灸どころじゃねぇな」
「もぉおおお!」
地団駄を踏む女審神者を、小狐丸のうっとりとした瞳が映す。
「ぬしさま、あまりの可愛さに、小狐丸は…油揚げを前にした気分でございます」
「なんか嫌な響き!」
「食う気満々だな」
「なんか怖い意味に聞こえるんだけどッ! そもそも可愛いくないっ」
「ぬしさまの可愛さは、小狐丸が十分知っております」
「その点には賛成だな。自分の価値を勝手に決めるもんじゃないぜ、大将」
「素直に受け取れないのは、この耳と尻尾のせいじゃないかと思うんだけど」
「それについても賛成だ」
「だよねぇ、薬研!」
「芋ジャージでも可愛さ余るぬしさまは、もはや罪! さあ、ぬしさま。この小狐丸をぜひおうじに任命していただきたく」
「小狐丸。なんか、目が怖い」
「獣の目だな」
「身の危険を感じるのはわたしだけ?」
「大将一直線だな」
おもむろに立ち上がった小狐丸に、女審神者はビクリと身体を震わせた。
「では失礼して」
いただきます、といわんばかりに両手をあわせる小狐丸。
審神者の悲鳴が響き渡る前に、薬研は彼女の腕を取った。
「薬研!」
「とりあえず、逃げるぜ。大将」
「賛成!」
嫌に長く手を合わせている小狐丸の横をすり抜けて、
薬研と女審神者は部屋を飛び出した。
小狐丸が勢い良く首を巡らせる。
「ぬしさま!」
「気付かれた!」
「そりゃ気付くだろうよ。大将、今日は足攣るなよ!」
「準備運動してないし」
「逃走本能呼び覚ませッ!」
「ってか、なんで、こんなことに…っ」
縁側を二人で駆け抜ける。
後ろから追いかけてくる足音が聞こえて、女審神者は弱音を吐いた。
「有り得なくない!?」
「いやあ。うっかり耳付き大将の誘惑に負けちまってな」
「薬研が乗せられちゃ仕舞いでしょうに!」
「似合ってるのは似合ってるんだがなあ。小狐丸と口付けってのはいただけねぇな」
「解除薬とかないの?」
「小狐丸じゃねぇと、なんとも。ほとんどがあいつの幻術だからな。俺は飲みやすいりんご味にしたくらいで」
「飲みやすさ求めたの!?」
「りんご味を希望したのは大将だろう」
「毒は毒みたいな味にするべきだよ! この間の薬みたいな味!」
薬研がどれほど機動に特化しているとは言え、
連れて走っているのが、運動不足の主では、機動の遅い小狐丸でも追いつけるというもの。
「ぬしさまー!」
と言う声に、女審神者はぎゃあ、と悲鳴をあげた。
「薬研、声が近づいてるんだけど!!」
「大将の足遅いからなぁ」
「どーすんのよ!」
「しかたねぇ。逃げろ、大将。ここは俺っちが引き受ける」
「……薬研!」
「間違っても唇取られたりすんなよッ! 小狐巻いたら、そっちは俺っちが引き受けてやる!」
薬研に突き飛ばされて、女審神者はよたよたと倒れ掛かった。
寸前でそれを持ち直すと、彼女は薬研に首を巡らせる。
「健闘を祈る!!」
女審神者は一目散に逃げた。
薬研と小狐丸がぎゃあぎゃあと騒ぐ声を後ろに、わき目も振らずに駆け抜ける。
「主さま?」
「主?」
すれ違う刀が、こぞって死に物狂いで逃げる女審神者を振り返る。
そうして、その頭に生えた耳と、ふさふさの尻尾を見ると、歓声をあげた。
「すごいです。小狐丸さん。本当に主さまに耳と尻尾が…」
「耳と尻尾……生えても、別に…」
「お小夜。あとで触らせてもらいに行きましょうね」
「あとではないって!」
宗三の言葉に噛み付くように返して、
女審神者は角を曲がった。
「わ! 廊下を走るな…と、あ、主?」
「長谷部、ごめん!」
ぶつかりかけた長谷部に謝って、女審神者は更に逃げる。
光忠と清光が遠征に出ていたのが唯一の救いだった。
あの二人が居れば、この騒ぎに参戦していても不思議ではない。
(とにかく、呪いを解除しない事にはどうにも…!
こうなったら、次に見つけた短刀の唇を…奪う!)
それしかない、と審神者は心に決めた。
すると、少し先に見えた姿に、ハッと目を開く。
「鳴狐―――!」
「おや? 主殿の声ですぞ、鳴狐!」
くるりと踵を返した一人と一匹の目に、いつになく必死な顔の女審神者が映った。
「鳴狐! お供の狐の性別は!?」
「わ、わたくしめでございますか? オスでございますが。それにしても主殿、その頭に生えている耳は…?」
「……どうしたの、主?」
小首を傾げる鳴狐の肩に乗っているお供の狐。
女審神者は駆け寄るなり、その狐の顔を両手で掴むと、問答無用で口付けた。
「……主、どうしたの?」
「こ、これで…」
ぽん、と煙があがる音がする。
「鳴狐、耳、消えた?」
「うん」
「尻尾は!?」
「ない」
「よ、良かった……短刀相手にセクハラ起こさずに済んだ…!」
「な、鳴狐! 今のは不可抗力ですからな!」
「ごめんね、お供の狐さん! あとでとっておきの油揚げあげるから!」
「鳴狐! 気にしてはなりませぬぞ! 接吻のうちには入りませぬ!」
「……うん…」
「助かったぁぁあああああああぁ!」
力尽きた女審神者の後ろから、追いついてきた小狐丸がショックに打ち震え、
薬研が安心したような残念なようなため息をつくなか、
鳴狐はお供の狐の口を、じぃっと見つめていたのであった。
*+*+*+*+*+*
鳴狐のその後の行動は、ご想像にお任せして。
ちょっとオマケの、小狐丸ver
そしてオマケの、薬研ver
久し振りに、甘いのを書いた気がします。ひえー