白い刺客11
「で、ほんわかしたまま帰ったって言うのかい。趙雲殿は」
酒に上気した頬で、凌統は猪口でを示すと、
口先を針で引っかけたように持ち上げて笑った。
「猛将で名高き趙子龍も、恋愛となっちゃあ随分と奥手なんだね」
約束の酒代二週間保障期間に入ってご満悦のだったが、
二人に突かれて話した事の次第を締めくくった凌統の言葉に、いささか不満気な面をする。
そんなが言葉を返すよりも先に、カラカラと声をあげて笑った甘寧は景気よく太ももを弾いた。
「ま、相手がコレじゃ、乳臭くもなるってもんだぜ」
「乳臭いって! 喧嘩売ってンの!?」
この世界に来て、特にこの二人とつるむようになって、確実には手が出るのが早くなった。
甘寧に掴みかかろうとしたの肩を押し戻した凌統は、笑いながらその背を叩く。
「まぁまぁ。言われてもしょうがないって。だってアンタ、趙雲殿を振ったくせして、象を見に行く約束を取り付けたんだろ?
象ってね。
この数日で、下手すりゃ一夜を共になんて事もあって良かったのに、全く健全過ぎるっての」
「…」
身の上話をした事を伏せて話をしたら、趙雲殿の告白を断って、象を観に行く約束をした話に直結した。
本当はこれから起こるであろう、蜀と呉の戦を憂いだ希望的約束だった訳なのだが、
皆まで言えない以上、ただの空気が読めない女のような話になるのは致し方ない。
仕方がないとは思いつつ、
は苦渋を誤魔化すように酒を舐めると、ちらりと男二人を横眼で見た。
「なんか今日、二人とも棘が多くない?」
その問いにピクリと眉根を浮かせた甘寧は笑みを消すと、不機嫌そうにチ、と舌打ちをする。
「ったりめぇだろうが。てめぇがどっちにも付かなかったせいで、賭けもナシだしよぉ」
「その金で、俺達の酒代二週間分を計画してたんだけれどね」
「元凶のてめぇだけ、酒代タダとか腑に落ちねェだろ!」
不服そうな甘寧を親指でさした凌統は、深く頷いた。
「俺はコイツの事は基本的に嫌いだけれど、今回は同意見だね」
「…完全にただの八つ当たりじゃん、それ…」
ぽつりと呟くと、凌統は垂れ目を細めて「そうとも言うね」と付け加える。
「まあでも、今回の一件で打っても響かない太鼓からは成長したみたいだし、進む可能性もあるんじゃないかい?」
「じゃあ賭けは持越しか」
「そう言う事だね」
途端に喜ぶ甘寧。
両手を叩く甘寧の傍らで、は奥歯に物が詰まったような顔をすると、唇をひん曲げた。
「――その前に、打っても響かない太鼓ってどういう意味?」
それは太鼓であるのかを問いたくなるな。
そう思った彼女は、凌統の言葉の真意にたどり着いた。
太鼓とオブラートに包まれたその言葉を、しなければいいのに素直に女と置き換えて、戦々恐々と背筋を震わせる。
そんな彼女を流し目で見た凌統は、にんまりと茶化すように唇に弧を描いた。
「太鼓になれるかねぇ」
「これから次第だな」
「それって遠回しだけれどすごく酷い事言ってるよ!?」
二人揃ってどこを見ているのか。一向に視線が絡まない。
「すでにわたしは立派な女ですよ! 聞いてる!? 聞いてよ!」
普段はがいなければめったにつるまない癖に、
こういう時だけ打ち合わせをしたような凌統と甘寧が腹立たしくてたまらない。
そんな彼女にからかうような視線を向けた甘寧は「ま」と瞳を伏せた。膝を立てて、酒に口をつけると、猪口の奥で薄らと笑う。
「鳴るか鳴らねぇかしらねェ太鼓だが。能天気に笑えてるなら、それに越した事はないか。仕方ねェから、次も賭けてやるよ」
「誰も賭けて欲しいなんて頼んでない」
「しょうがないね。賭けの事は責めないでやるよ」
「だから誰も賭けて欲しいなんて頼んで――って、ちょ、凌統、甘寧! それわたしの酒だから! 便乗禁止って、孫権様に言われたでしょう!?」
「いいじゃねぇか、わかりゃしないって」
「分かるよ! さすがのわたしもそこまで呑まないよ!!」
「おら、バ甘寧。他人の酒だから、機嫌よく注いでやるよ」
「ハ、てめぇに注いでもらった酒でも、美味しくのめりゃぁ」
「飲むなって言ってるでしょぉぉおお!!」
「おう、趙雲、戻ったか!」
「張飛殿」
趙雲の背後を覗き込んだ張飛は、
視線の先に誰も居ない事を知ると、「なんでぇ」と唇を裏返した。
「嫁さんいねぇじゃねぇか」
「ははは。面目ない」
「――と、言う割に、悔いは無い様子ですね」
「諸葛亮殿」
扇で仰ぎながら歩み寄って来た諸葛亮。
静かに微笑んだ彼に、趙雲もまた笑みを返した。
「頂いた機会。大切に使わせて頂いた。感謝しております、諸葛亮殿」
キッチリと腰を折って礼を述べる。
そんな趙雲の様子は、出掛ける間際よりも凛々しくあって、張飛はニッと歯を出して笑った。
「その様子じゃあ、まだまだ諦めませんって面だな」
「お恥ずかしながら」
「なんの! 恥ずかしがる事はないぜ。お前のその心意気、俺達も応援してるからよ!」
「ありがとうございます、張飛殿」
頭を下げた趙雲が、では後程と、その場を後にする。
颯爽と歩く彼の後ろ背を見送りながら、張飛はにやにやと笑った。
ふふふ、と諸葛亮の密やかな笑い声が続く。
「賭けはお預けだな、諸葛亮」
「そうですね、張飛殿。皆に伝えて参りましょう」
「やぁ、郭嘉殿」
「やあ、賈ク殿」
ノックと共に部屋へと入って来た賈クは、
斜に射しこむ夕日を頼りに、ベッドで書を読む郭嘉へと片手を挙げた。
後ろ背に扉を閉めると、薄い唇に弧を描く。
「替え玉から、戻って来たと聞いてね」
「ああ。貴方が用意してくれた彼は、随分と役に立ってくれたみたいだね」
「まさか司馬懿殿が、郭嘉殿の私室に奇襲をかけるとはね。あの駄策を呉の若軍師に看破されたのがよほど悔しかったらしい。
アンタが知らせた訳じゃないと分かって、墓穴を掘ったように悔しがっていたのは一見の価値があったがね」
「それは残念だ」
穏やかに郭嘉は笑う。
「――私が居たら、ぜひとも見たかったものだ」
悪戯に付け足して、彼は長い指で書をめくった。
そんな悠々とした郭嘉を横眼に、賈クは手近な椅子を手繰り寄せると、腰を下ろす。
「とはいえ郭嘉殿。そう何度も替え玉は使えない。
いくらアンタが曹操殿のお気に入りだからと言って、司馬懿殿が布団を引っぺがして替え玉と目があった日には全部バレちまう」
「そうだね」
「それに、アンタのその頭。生かして使わないのは罰当たりだと俺は思うがね。いつまでも司馬懿殿の眼の上のたんこぶでいるには、あまりに惜しい」
「うん」
頷いた郭嘉は、窓の外を仰ぎ見た。
燃えるような夕日に瞳を細める。
「こう見えて、一度は死んだ身だからね」
「生きてる人間が言うには、贅沢過ぎる台詞だな」
「そうだね。……でも、それが事実だ」
「そう言って、このカビ臭い部屋で、アンタを生かそうとしたか殺そうとしたか知れない女を懸想し続ける気か? 俺には、変態の所業としか思えないね」
「賈ク殿は本当に口が悪い」
「アンタには十分協力している。それは、郭嘉殿の才に惚れてるからだ。これくらい言う権利はある」
「それもそうだね」
にっこりと微笑む彼は、本当にそう思っているのか思っていないのか。
初めて会った時は、どんな腹積りをしているか知れない男だと自分の事を棚に上げて思ったものだが、蓋を開けてみれば実に分かりやすかった。
自分の欲にどこまでも忠実。
酒が好きで、女が好きで、博打が好きで、戦の策を練る時に誰より楽しそうな面をしているこの男が、
こんなカビ臭い部屋で見えもしない鎖に繋がれているのが、賈クには何より腹立たしいのである。
そんな賈クの腹の中を知っているのか知らないのか、今日も悟らせずに笑う郭嘉は、宙を仰いだ。
「確かに。思わぬ伏兵も出て来たかな」
「伏兵?」
「うん。白い伏兵でね。邪魔をされてしまった。もう少しで手が届きそうだったんだけれど」
「おいおい郭嘉殿。まさかあの女を連れて帰って来るつもりだったとか言わないでくれよ。どうにも誤魔化しが付かなくなるのは分かってるだろう」
「わたしと賈ク殿の間に子を引き取って来たと言うのはどうだろう」
「冗談でもよしてくれ」
「冗談だったけれど、わたしもごめんかな」
自分で言っておきながら、あっさりと付け加えた郭嘉は瞳を伏せる。
その仕草を見ていた賈クは背筋を伸ばした。僅かに目を見開く。
郭嘉の唇が愉快気に持ち上がった。
久し振りに見る――彼の、何か策を練る時の横顔。
やがて瞼を開いた彼は、「そうだね」と落とすように呟いた。
「賭けをしようか」
「賭け?」
「うん。とても楽しい賭けになりそうだ」
郭嘉が笑う。
その仕草まで見届けた賈クは、ふと不安に駆られて視線を逸らした。
この男が楽しそうだと言う策は、
おおよそ周りにとっては楽しくないのが常なのである。
「こりゃ、司馬懿殿。
眼の上のたんこぶから頭痛の種になる日も近そうだな」
巻き込まれないよう、引っ込んでおくに限る。
巣を突いたくせにあっさりと傍観者に回った賈クは、実に楽しそうに笑う郭嘉に、小さく呟いた。
「お手並み拝見、かな」
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白い刺客以上です。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。