白い刺客10

「はあ」
謁見と言う名の事情聴取が終わったは、扉を閉めるなり腹の底からため息を吐いた。


自身の逃げ道なんて、自分で潰すものじゃない。


身に染みた所であとの祭り。
怒涛のような一日を思い返すと胃がシクシクと痛み出して、はそっと腹部に手を添える。
郭嘉は、
が城下町に降りた事で呉と蜀は生きながらえたと言っていたが、口止めされたその話を持ち出す事は最後まで出来なかった。
は呉の武将。
魏の司馬懿がたくらんでいる事を聞いた事、本来なら報告しなければならないのも頭では分かっていたはず。
言えないのか、言う気が起きないのか。
どちらともつかないまま言いだせなかった自分が何とも歯がゆくて、は背筋を丸めた。

どんどん気が塞ぎこんでくる。

郭嘉が呉に居た理由が、らしいと趙雲が進言してくれたおかげで、
立場的な状況説明を促されたあと、思っていたよりもあっさりと解放された。
何もないと信じてくれているのか。
はたまた、そう見せかけて泳がされているだけなのか。
疑心暗鬼がむくりと顔をもたげて、はぽつりと呟いた。
「後ろからこっそり見張られてたりしてね」
投げやりに後ろを振り返る。
きょろきょろと辺りを見回していると、
殿」
不意に声が掛かった。

びくりと身体を震わせたが首を巡らせれば、いつの間にやら陸遜。
傍から見れば、ものすごく怪しい行動をしていた自覚があるは、視線を左右に泳がせた。
「な、に」
「怪しいですよ」
「…ですよね」
皮肉めいた笑みを浮かべる
そんな彼女に歩み寄って来た陸遜は微笑んだ。

「そんな事をしなくとも、見張りなどつけてませんよ」
「え!?」
「――と、わたしが言うと返って怪しいですか?」
問われて、確かにと思ったはこわごわと頷く。
呉が誇る真っ黒軍師は、軽快に笑った。

「孫権様が心配なさってましたよ。見張りではなく、貴方を気に掛けて欲しいと言われました。甘寧殿と凌統殿にも声を掛けられていたようです」
「へ?」
「もっとも孫権様自体が、姫様と練師殿に釘を刺された様子でしたが」
「…釘って」
「それはもう、深く深く突き刺されたご様子でしたよ。くれぐれも貴方を追い詰める発言はしないように、と」
「尚香様と、練師様が…」
「まあ、孫権様は鈍いですからね。お二方の口添えは助かります」
さらりと言った陸遜。
はしばし押し黙ったのち、ゆっくりと息を吐いた。
「ホント、怖い物なしだよね。陸遜って」
「こう見えて素直なんてすよ、わたしは」
にこやかに笑う陸遜が見た目通りなら、いくら呉が乾燥地帯だとは言え、そう頻繁に城のいたるところから火の手が上がる事など無かったはず。
呉の武将によるバケツリレースキルが異様に上達する事も無かったのだ。
だとすると、素直の出し方がきっと間違ってるんだね、
等と言えるはずもないは、薄らと愛想笑いを返した。

「ああ、それから」

思い出したように手を叩いた陸遜に、は背筋を震わせる。
「次は何を言いだす気!?」
「――弓矢を用意していた魏の兵は、強制的にお引き取りをお願いしました」
「……は?」
まるで他愛ない話の続きのよう。
呆気に取られる所か耳を疑って、は怪訝な顔のまま問い返した。
「今、何て?」
「一番様子の良い馬を見繕うだけだと思いました?」
そう言われれば昨日の夜。
呉で何かあっては全面戦争になりかねない、
そう言った陸遜の険しい顔を思い出したは、瞳を見開いた。

「まさか」
「もちろん。城下町にも兵を降ろしてました。劉備殿が見て回られる道は決まってましたからね。
郭嘉殿に御心配など頂かなくとも良かったのです」
「…」
陸遜をぽかんとした顔で見上げたは、低く訊ねた。
「どこかで話しを聞いてたの?」
「いいえ。状況から推察しただけですが」

「…常々感じてはいたけれど、軍師って生き物が理解出来ない」
「お互い様です」
「この後に及んで傷口に塩塗りますか?」

真顔で問うと、陸遜は鳩が豆鉄砲をうたれたような顔をした。
首を少し横に傾げると、花がほころぶように笑う。

こういう笑顔を浮かべる時は、だいたい見目にそぐわない事を言いだす時で、が身構えると、陸遜は口を開いた。

「つまり言いたい事はこういう事です。
今回の司馬懿殿の策とも呼べない、子ども騙しとしか言いようのない稚拙な罠を阻止したのは、
郭嘉殿でもなく、貴方でもありません。

ですから、後ろめたさを感じる必要なんて何一つ無いですよ」

「――ッ」

サッと頬を朱に染めたは、下唇を噛みしめた。
嫌味な男だと思う。
全て知っている上で、欲しい言葉まで用意して。

は陸遜を睨み据えた。

腹を立てているはずなのに、無性に目頭が熱くなってくる。鼻がツンと痛くて、はますます唇を噛む力を強めた。

「軍師って…ホント嫌味な生き物」


の憎まれ口もどこ吹く風。
穏やかな態でそれを聞いた陸遜は、悪戯を思いついたように瞳を細めた。

「まあ、今は軍師だからという事にしときましょうか」











陸遜と別れたのち、は劉備と趙雲が滞在している屋敷へと足を運んだ。
見張りの蜀兵に申し出ると、奥から趙雲が出て来る。
キリリとした切れ目が真っ直ぐにを見つめ、凛々しげな体躯を折るように挨拶をした趙雲に、も頭を下げた。

連れたって歩きながら、は口を開く。
「先ほどは、ご迷惑をお掛けしました」
「お気になさらず」
「どうしてわたしを追いかけて来られたのですか?」

画面越しとはいえ趙雲と言う男を少なからず見て来たは、彼がいかに劉備を重んじているのかを知っている。
あのような状況で、劉備を凌統と甘寧に預けて追って来るとは想像もしていなくて、
訊ねたに、趙雲は苦笑を返した。

「殿に言われたのです」
「劉備殿に?」
「何を守りたくて、槍を取るのか――と」

きょとんと瞬いたは、首を傾げる。

「さすが劉備殿。お言葉が深い。しかしその問いの答えは、言わずもがな劉備殿と蜀の為ですよね」
「ああ。…わたしも、そう申し上げた。すると殿に笑われました。
そのように迷った槍で守られる程、わたしも民も弱くはない、と」
思わず、ひゅぅと口笛を吹いた
これははしたないか、と慌てて両手で唇を覆うと、趙雲は笑った。

「本当に、ひゅぅ、だな」
「なんだか趙雲殿が言うと、様になるようなならないような」
「甘寧殿と凌統殿にも背中を押して頂いた。友の為にも、殿は必ず城へと送り届けると」
「そうでしたか」
凌統と甘寧は、城に戻った後も姿を見せない。
それは彼らなりの優しさだろう。
今は、目の前の事に集中しなければいけない。趙雲の事、郭嘉の事、それから、陸遜の事。
事の次第が済めば、酒の肴として話す事になるのだろうし、今は胸の内で感謝を述べて、は趙雲を見上げた。
奮い立たせて口を開く。
「趙雲殿に、謝らなくてはいけません」
「わたしに…ですか?」
「はい。趙雲殿が真摯に向き合って下さるのに――ちゃんと、全てをお話ししなかった事」

言って、は口を噤んだ。
押し黙ったあと、おずおずと唇をほどく。


「わたしは………記憶が無い訳ではないのです」


「…それは、一体…」
「この事は、魏の郭嘉殿以外誰も知りません。もちろん、呉の方々も」

立ち止まったは、趙雲を見上げた。
随分と背が高い彼は、精悍な顔を顰めてを見下ろしている。

「わたしの生まれは、ここから随分と離れた場所で、今よりずっと、時も進んでおります」
「時?」
「はい。この地が平定されてずっと後の事。皆さまの武勇伝が語り継がれる世から、気が付いたら、ここに居ました」
「そんな――」
「馬鹿な話を、と思われますよね。ある時気が付いたら河辺に居て、自分の姿形が変わっておりました。
右も左もわからなくて、自分がどうなったのかも分からなくて途方に暮れていると、放浪している郭嘉に会ったんです」
言葉が詰まる。
次の言葉を探して、は視線を泳がせた。
決意はしたつもりだが、言葉にしてみると何とも頼りない。
伝わる自信もないまま、必死に言葉を手繰り寄せる。

「わたしを見て、郭嘉は、面白い瞳をしているねと言いました。
ああいう性格の人ですから。
地面に座ったかと思いきや、持ってた酒を真ん中に置いて、話をしようと。
今となっては、あの人らしいと思いますが、
あの時のわたしは藁にもすがる思いだったんです。
どうやって生きて行けばいいのかもわからないわたしは――洗いざらい、知っている事を全て話しました。
わたしが随分と先の世から来た事、信じて貰わなければいけないと、その一心で」

趙雲の眉間に、皺が深くなる。
震える身体に喝を入れ、は瞳を揺らした。

「だけれどわたしは…郭嘉が短命である事、伝える事が出来ませんでした。
拾って貰い、世話をしてもらい、郭嘉のつてで武を磨く間も。
魏に郭嘉が登城する折、彼の口添えで共に入城し、副将として仕える間も。
わたしは、あの人がいつ病で死ぬかも知っていながら、黙って居たんです。

空いた時間で医者を探し、
なるだけ食事と睡眠を取らせる。

それがわたしに出来る恩返しだと思い、
最後まで言いだせないまま――わたしは、遠征に出れば命を縮める事になると、わが身の勝手で郭嘉を斬った。

わたしは自分が、何故この地に居るかもわからないのです。
どうして違うはずの言葉をしゃべれるのか。ならばどうして字は書けないのか。
元の世でわたしと言う存在はどうなっているのか。


いつ元の世に戻るのか。


自分の事すらわからないわたしが、本来なら死ぬ定めであった郭嘉を生きながらえさせました。
そして、斬ったまま逃げ延び、今こうして呉でのうのうと存在している」

途切れた言葉が続かない。
ああ、とは瞳を伏せた。

呉の居心地があまりに良くて、奥へ奥へと隠して蓋をし続けた罪悪感。
時折顔を覗かせては、見なかった振りをし続けてきた自分が何とも浅ましく思えて仕方がない。

「自分の思いで一度定めを変えておきながら、
わたしは先を知っている事を友には隠してここに居ます。

嫁に行く資格等、本来無いのです。
わたしはこの世界には存在しない者。
明日居なくなるかも知れない。
その癖自分の事しか考えきれない浅はかな女です。

趙雲殿には、もっと立派な方がおられるはず」


ありがとうございました
そう言おうとは思った。

の存在を目に止めてくれた事。
好意を寄せてくれた事。
嫁に来ぬかと、居場所をくれようとした事。
真っ直ぐと、に向き合ってくれた事。

どれを取っても身に余る光栄だった。
そう言おうと口を開きかけた時、覆いかぶさるようにして趙雲が尋ねて来た。


「もっと立派な方とは?」
「え?」
「どのような方の事を言われると、殿は仰るのですか」
「それは――明日、消えたりする心配もない…」
「それはわたしも同じ事。戦場に立つ以上、明日は死ぬやもしれません」
「未来など、知らない…」
「未来など、あっても無くても同じ事」
「人を勝手に助けて――」
「蜀の民は、今も貴方に助けて貰ったと話しております」

「…趙雲殿」
「もうここは、貴方の知っている世ではないはず。
あなたが助けた者たちが生き、
あなたが呉を守る為に武器を振るう。

例え負け戦だと分かっていたとして、自分が死ぬかもしれぬ戦として、貴方は武器を取りませぬか?」

問われて、は瞳を見開いた。
首を振る。
振って、振って、疲れて止まると、肩が震えた。

「取ります。戦います――ここが、皆が、好きだから。死んで欲しくない」
「わたしも同じ事。わたしも殿も、何も違いなどござらん」
「わたしは…」
「ここは、貴方の生きている世界です。それ以上でも、それ以下でもない」

ぼろりと、涙が零れた。
あとを追うように流れる涙が頬を濡らし、は唇を噛む。

「ありがとう、ございます」
「本当は」

趙雲は言うと、苦笑を浮かべた。

「本当は、最初から答え等分かっておりました」
「――え?」
「長坂の戦いの折、貴方は蜀の民を守る為、自らの仲間を殴った。
呉に降られて、赤壁の戦いでご一緒した際の貴方は、別人のようでござった。
兵を励まし、味方武将を援護し、武器を振るう。
それを見た時わたしは思ったのです。
良い場所を見つけられたようだと。勝手ながら安心いたしました」

趙雲の手が伸びて来る。
無骨な指先が、濡れた目元にぎこちなく触れた。

「そう思いながらもわたしは、どうしても貴方に槍を向けたくなかった。
わたしの我がままを、迷いを、劉備様は拾って下さいました。

分かっている答えを貴方の口から聞く事になろうと、もう一度問いたく」

「ちょ、ううんどの」
「わたしと共に、蜀に来て欲しい」

「……ぁ…」

言葉が出ない。
呼吸が出来なくなって、は思わず喉を抑えた。

「わた…し、は…」


胸が苦しい。
ついていくと、言ってしまえと叫ぶ声が聞こえた。

全てを聞いてくれる人を受け入れて、
嘘ばかりで塗り固められたを愛してくれる呉を出る。

その一言を言うのが、こんなに重く苦しいとは。

やっと出たのは、掠れて途切れ途切れな声だった。
言おうとしている事と、真逆の言葉。

「呉が、すき…です」
「…」
「嘘ばっかりな、わたしなのに、あいして…くれる…呉に…いたい…」


焦燥に胸をかきむしりたくなって、は大粒の涙を落とした。

殿」
趙雲の優しい声に、は子どものようにこくりと頷く。
「はぃ」
「呉と蜀で戦が起きた時。わたしは殿と蜀を守る為、殿に槍を向ける事となる。
答えを受け止めた、迷い無い槍を、貴方に向けるであろう」
「………はい」
「だが、忘れないで頂きたい」

趙雲の両手が、の頬に添えられた。
顔を上に向けられると、
そこには強い意志を称えた双眼が真っ直ぐとを見据えている。


「趙子龍と言う男は、貴方の味方だ」
「…」
「助けが居る時は、いつでも馳せ参じよう」
「………趙雲殿」
「どうか忘れて下さるな」


言葉の一つ一つが強くて優しい。
まるで陽だまりのようだと思い、は涙目のまま、ほころぶように笑った。

「ありがとうございます、趙雲殿」