白い刺客9

「趙雲殿に、嫁がれるおつもりですか?」
陸遜は神妙な声でそう訊いたのち、不快感を露わにした。
表情と似つかわしくない問いに、は真意を測りかねる。
「――どう言う意味?」
「…言葉通りの意味ですが」
まるで一人芝居のよう。
今度は意味深なため息を吐いた陸遜。
歳下な癖に、常に余裕綽々と上から物を言う彼にしては珍しい態で、
は見たこともない陸遜を前にどうしていいか分からないまま視線を泳がせた。

「そう言われても…」

嫁ぐ事に以前より抵抗が無くなっているのは事実だ。
けれど決意するには、目の前の男への不明慮な感情が邪魔をしている。
全て正直に口にするのもはばかられたが口籠っていると、
そんな彼女の様子を見ていた陸遜は眉を潜めた。

「出過ぎた事を聞きましたね」

幾分か低くなる陸遜の声音。
「わたしの気持ちがどうであれ、貴方が決めるべき事だと、分かってはいるのです」
ぽつりと呟いた彼の言葉に、
「陸遜の気持ち?」
はきょとんと瞬いたあと、首を傾げた。

どうしての結婚云々に陸遜の気持ちが関係してくるのか。
よくよく話が分からなくなってきた話にが首を捻っていると、陸遜はしばし押し黙ったのち、口を開いた。



「嫁がないでください」


真っ直ぐな陸遜の言葉に面をくらう。
たっぷりと時間をかけて瞬きを繰り返したあと、は間の抜けた声を上げた。
「へ?」
「蜀へなど、行かないで下さい」
「ちょ、待って陸遜」
「魏になどもっての他」
「ついていけてないんだけれど」

「呉に居て下さい」

ひゅ、との息が止まった。
唇を半開きのまま。
陸遜を凝視して動かない彼女を前に、彼は自嘲気味に微笑んだ。小さく息を吐く。

「と、このような事を、軍師であるわたしが言う事は本来許されません。
蜀と呉は大切な時。
何か一つの歯車で噛みあわなくなれば、戦は容易く起こります。
尚香様が嫁いでいらっしゃる以上、孫権さまもなるべくは戦を望んでいらっしゃらないでしょう」

つらつらと言い連ねながら、陸遜は瞳を伏せた。
「呉の軍師として、わたしは最善の道を選ばなければなりません」

最善の道とは、
が趙雲と結婚する事によって、呉と蜀の間柄を一層強くすると言う事なのだろう。

そう考えるの傍で、
ですが、と陸遜は開いた瞳を揺らしながら言葉を続けた。

「貴方がもしも、呉に残る事を選ぶのなら。
わたしは他の最善を探す事が出来ます。

そう考えていたからこそ…貴方に、選んで頂きたいと思っていたのに」

陸遜の声がだんだんと細くなっていく。
やがて彼は悔しげに、ぽつりと零すように呟いた。
「甘寧殿と凌統殿にまんまとしてやられましたね」



呟いたあと、に視線を戻した陸遜の表情は、瞬く間にいつもと変わらぬ彼へと戻っていた。
憂いの表情を一変。
強い眼差しでを射抜いた陸遜は、姿勢を正す。

「やはり、いらぬ事を言いました。申し訳ありません、殿」
「いや、いいけれど」
自己完結とはまさにこのこと。
どうやら整理がついたらしい陸遜に、 は気圧されて頷いた。
おずおずと首を縦に動かす彼女を瞳に映して、陸遜は困ったような笑みを向ける。

「今の話を無かった事になどと言うつもりはありません。
貴方の答えを待っているのが、趙雲殿だけではないと言う事――お伝えしておきます」


他人行儀に頭を下げた陸遜は、
が呼び止める隙も見せず、俊敏に踵を返した。そのまま立ち去って行く。
取り残されたは一人、
深く考え込むように下を向いたあと、重く言葉を紡いだ。
「わたしの気持ち、か」


嫁がないでくださいと、
真っ直ぐな瞳を向けて来た陸遜。

嫁に来て欲しいと、
の記憶が無い事を、まるで自分の事のように受け止めようとした趙雲の姿が代わる代わるに過って、
「あー」
情けない声を上げながら、はしゃがみこんだ。
両手で顔を覆うと、弱弱しく声を上げる。
「このままじゃあ、ダメだなぁ」

は、どんな顔をしているのだろうか。
答えを出さなきゃと言いながら状況に振り回されてばかりで、さぞ情けない面をしているに違いない。
少なくとも趙雲には、しっかりと向き合える顔をしてなければならないのだ。
それ位大切な決め事の中には居る。



「よし」
立ち上がったは、馬小屋へ向かった。
自らの馬の手綱を取ると、颯爽と跨る。目指すは城下町。趙雲と劉備が居る所。
「行くか」
馬に鞭打つと、は趙雲を真似て、真っ直ぐと背を伸ばした。
陸遜みたく、瞳の焦点は前から離さない。
まず恰好から入るのは悪い癖だと自負しているが、真似てみると、少し気持ちにも泊がついた。

思いついたが吉日。
再び決意が鈍らぬうちに、自身の逃げ道は塞いでおくに限る。

城下町に着くと、劉備と趙雲はすぐに見つかった。
護衛として来たのだろう、甘寧と凌統の姿もある。
馬を連れて歩いている彼らは市中でかなり目立っていたが、
そんな彼らに小走りで駆け寄ったもまた、馬を引いていたので大層目立って、
凌統がまずに気が付くと、驚いた声をあげた。


「――何してんだい。こんな所で」
「趙雲殿に、ちょっと」
「わざわざ市中に降りてまでか? 何かあったのか?」
甘寧の顔が険しくなる。
対するは慌てて首を横に振って、付け加えた。
「今晩お話しできますか、って訊こうかと思ったの」
ますます訝しげな顔をした甘寧は、そんな事でこんな所までと言いたいのが顔に出ている。
「ふぅん」
一方の凌統は、何かを察したのか、はたまた深くは問いまいと思ったのか、興味が無くなったような相槌を打つと、
劉備の傍らにぴったりとくっ付いて歩いている趙雲に声を掛けた。

「趙雲殿」
「――はい。…殿」
呼ばれて、振り返った趙雲の瞳が僅かに開く。

「お、お勤め中にすみません」
「いえ。何用でしょうか」
「今晩、少しお時間ありますか? お話ししたい事があって」
「わたしは構いませんが」
趙雲がちらりと劉備を見る。
劉備はに瞳を向け微笑みかけると、趙雲についと視線を戻した。
「構わん。わたしは尚香と居る事にしよう」
「申し訳ございません、殿」
「申し訳ありません」
「気になさるな」
も頭を下げると、穏やかな声が返って来る。
更に腰を深く曲げて挨拶した彼女は、「じゃあ城に戻ります」と声を上げた。


「せっかく来たんだ。共に街を見ぬか」
「お言葉嬉しく思います、劉備殿。しかし勤めがありますので」
「そうか。それでは」
「はい。ではこれで」
馬を引いたまま、踵を返した
ふと彼女が動きを止める。
一秒、二秒。
彼女が一歩も動き出さない事を不審に思った甘寧は、「どうした」と声をあげた。





「――郭嘉」
「え?」
「何だって?」
「分からない。見間違いかもしれない、でも――あれは――」
口火を切った彼女はあきらかに動揺している。
は自らの馬の手綱を半ば押し付けるように甘寧へ渡すと、足を踏み出した。
咄嗟にだろう。甘寧が掴んだ手を、力任せに振りほどく。

「馬はどこかに繋いでおいて」
「どこかって」
「何処でもいい! あとで自分で探すから、あと、劉備殿を城へ!」
「まさか、アンタ一人で追う気じゃ…」
「よろしく!」
凌統の声を右から左に聞き流して、は一気に駆けだした。
人ごみをかき分けて進む。
眼があったのは、確かに郭嘉だった。

茶色の髪。
しなやかな立ち姿。
顔は遠目にしか見えなかったが、あの笑い方は、郭嘉としか思えない。

見間違いであって欲しいのか、
見間違いでなくあって欲しいのか、
分からないままは足を速めた。
やがて見えて来た藍色の背中に、は声を掛ける。

「郭嘉!」

振り返らない。
振り返らないけれど、後ろ姿は見れば見る程郭嘉だ。
走るに対して、ゆうゆうと歩いている男の後ろ姿の手を取る事は簡単だった。
腕を掴むと、男はゆっくりと振り返る。
そして、
「やあ、
郭嘉は緩やかに微笑んだ。


「なん、で…」
まるで幽霊を前にしたかのようだ。
血の気を失くしたの前で、郭嘉はのんびりと、先ほど彼女たちが立ち話していた方角へ首を巡らせる。
「司馬懿殿は、呉と蜀の関係に亀裂を入れたいらしい。ぶつけ合うつもりだね。
色々と策を講じていた折に、丁度劉備が呉へと赴く話を掴んだようだ」
言うと、郭嘉は指先を少し先へと向けた。
「この先へ進むと、町人に紛れた魏の兵が居るらしい。劉備を射ってしまえば、まあ、一番簡単に事は済むからね」
「そんな話がどこから」
「諜報は策の基本だよ」
眼を細めて笑う郭嘉。
その表情は、が刃を向けた時と何一つ変わらず、
もっと言うのであれば、長く共に過ごして来た時間と何も変わらず、 は唇を震わせた。
「郭嘉」
「せっかく君に会いに来たんだ。もし会う事が叶ったら――その時は、知らせてあげようと決めていた。呉も蜀も、今日の所はあなたに救われたね」


「どうして」
「あなたに会いに来たか、って?」
郭嘉の笑みが深くなる。

勝手に郭嘉を生きながらえさせた事。その為に迫られて斬った事。
その場の楽しみを何より生きがいとして来た郭嘉が、何年も床に伏せていた事。
どれを取っても、恨まれてしょうがない。

固唾を呑むに、郭嘉は「うん」と頷いた。

「恨まれた方が、あなたは楽だっただろうね」

言って、郭嘉はを覗き込んで来る。
動揺を隠しきれていないが両目に映り、伸びてきた手に、自分がどうしたいのかもわからぬまま。
茫然と見ていたの身体を、不意に誰かが強く後ろに退いた。
殿」
「ちょ、趙雲殿」
頭上から聞こえて来た声に、腰を引いたのが趙雲だと遅れて気付く。
我に返って見上げると、険しい顔の趙雲は郭嘉を射抜くように見据えていた。

「魏の…郭嘉だな」
「久しいね。戦場じゃない所であなたと会うのも、不思議な気分だ」
「わたしもだ。生きているとは思わなかった」
趙雲の言葉に、郭嘉は笑みを返した。

「今日の所は――これくらいで帰ろうかな。波風を立てるのはまだ早い」
「何用で参った」
くるりと踵を返した後ろ背に趙雲が問う。
郭嘉は首だけで振り返ると、を見て、そっと唇に人差し指をあてた。
司馬懿の策略を、口にするなと言う意味に違いあるまい。
そもそも魏に居る郭嘉が、司馬懿の企てをに話す事の方があってはならないはずで、
郭嘉の今の立場や、これからの事などが頭を駆け巡ったは彼を呼び止めた。

「待って! 郭嘉!」
「なぜ会いに来たのかと聞いたね」
彼女の言葉を遮るように、郭嘉は足を止める。
風が彼の髪を靡かせた。
それは戦に出る折見ていた後ろ姿を彷彿とさせて、は伸ばしかけた手のひらを、切なさにギュッと握り締める。


「最後に見たのが、あなたの泣き顔だった事を後悔していたからかな」

それとも、
郭嘉はゆっくりと言葉を紡いだ。


「単純に、ただ会いたかったからかもしれないね」