白い刺客8

「げ」
兵たちとの鍛錬も終わり、執務室に戻ろうと渡り廊下を歩いていたは、
少し先で女官達に囲まれ談笑している陸遜の姿を見つけて、足を止めた。
進むや否や。
一瞬迷った足先で、くるりと踵を返す。

あの中を突っ切って進む度胸はにない。
ましてや、陸遜に対する感情が一つではないのかも知れないと気付いた今、不要な接触はなるべく避けたかった。
小走りでその場をあとにしようとしただったが、すぐ後ろに趙雲が立っていた事に驚き、わ、と声を上げると、両手で口を押える。
「趙雲殿」
「申し訳ござらん。驚かしたな」
「あ、いえ、大きな声を出してすいません」
殿の姿を見つけたので、声を掛けようとしていたのだが――どうかされたか?」
「どうか、って」
趙雲も趙雲で、いきなり振り返ったに驚いたに違いない。
謝りつつ、は中途半端に開いた口のまま、そろりと後ろを振り返った。

陸遜と目が合う。

「やっぱり声が大きかったか…」
ぽそりと呟いたに、趙雲が首を傾げた。
慌てて「何でもないです」と取り繕ったは、趙雲に向き直ると、頭を下げる。
「昨日はお疲れ様でした、趙雲殿。今日は、劉備様と一緒に街に行かれるんでしたよね?」
「昼からを。その前に殿のお顔を拝見したいと思い伺った所、この時間は兵の鍛錬に付き合っている、と聞いて探しておりました」
「そうだったんですか。この時間は、確かにだいたい鍛錬しております。恥ずかしながら、事務仕事がどうにも苦手なんですよ。つい鍛錬ばかりに熱を入れてしまって…」
苦笑を浮かべる
そんな彼女を見つめる趙雲は、しばしの間言い淀み、口を開いた。
「その」
「はい?」
「聞きかじった話しで申し訳ないのだが――殿には、ある時から以前の記憶が無い、と」
「ああ。尚香様に伺われたのですか?」
「いかにも。本人が居らぬ所で不躾な話しをしてしまい、申し訳ない」
「ああいえ、お気になさらず」
直角に腰を曲げる趙雲に、はわたわたと声を上げる。
「顔を上げて下さい趙雲殿」
面を上げた趙雲の、まるで他人事ではない真摯な表情。
少なからず驚いたであったが、緩く息を吐くと、笑った。

「確かにわたしは、魏の郭嘉殿に拾われる以前の記憶はないです」
「郭嘉の副将をされていたな」
「ええ。拾って頂いた当初郭嘉殿は根無し草だったのですが、その後魏への登城が決まって、わたしも共に。
趙雲殿がわたしを見初めて下さった長坂の戦いも、郭嘉殿の副将で出兵しておりました」
言って、は宙を見上げる。
言うか言わないかを少し迷ったあと、言葉を続けた。
「あの戦いはその……先日は言わなかったのですが…わたしにしてみると、なかなか耳に痛い話でして…」
「耳に痛い?」
「趙雲殿の名前をお借りして、味方の武将を昏倒させた事。
他の誰も信じて疑わなかったのに、郭嘉殿にだけは悟られてしまって、その…」
「なんと」
「問題にされたとか、そういうのは無かったのですが…二三時間程、正座で説教を受けまして、あまりいい思い出ではないのです」

恥ずかしい。
ごにょごにょと語尾を濁して身体を小さくしていると、趙雲はふ、と声を上げて笑った。
唇を片手で覆う。
大きな身体を揺らして笑う趙雲に、は火を噴くようにますます赤くなった。


「そうでござったか。そうとは知らず、武勇伝のように語ってしまい、申し訳ない」
「武勇伝で済めば良かったのにと、わたしが一番思います」
「では執務が不得意と言うのは…」
「字を読むのが少し苦手で。魏に居た頃は郭嘉殿が書類をほとんど一人で片付けていたので、覚える機会もあまりなく。呉に来てから勉強を始めたんです」
「それは苦労されただろう」
目を剥いた趙雲の言葉に、は小さく頷いた。
「それなりには」
どっかの軍師がチクチクと重箱の隅をつつくように嫌味を言っていたのを思い出す。
あの頃は胃が痛かった。
思わずそっと胃の辺りに手を添えたに、趙雲は微かな笑みを向ける。

「話して下さり、感謝する」
「そんな、御礼を言われる程たいした話しじゃないんです。
昨日、酒の肴にでも話しておけばよかった位の話で…もっとも昨日は、慣れない席に、酒の味も良く分からなかったんですが…」
「わたしもです。飲んだのか飲んでないのか…」
「一緒ですね」

は笑った。
からころと声を上げていると、趙雲が面を食らったような顔になる。
じわじわと頬が朱に染まる趙雲に、は瞬いた。

「あの」
「す、すまない。そのような笑顔を向けられるとは思わなかったので、その」

途端にも朱に染まる。
二人して湯気をたてながら見合っていると、

殿」

後ろから静かに声がかかった。


恥ずかしさで頭がいっぱいだったが思わず振り返る。
立って居たのは満面の笑みの陸遜。

そう言えば後ろに居たんだったと、今更ながら思い出した彼女は小さく呟いた。
「…げげ」
「人の顔を見るたび、お決まりの台詞みたいに言うのは止めて頂けますか?」
「女中さんたちは?」
「お二人の熱い雰囲気に当てられて、仕事に戻られましたよ」
にこにこと。
こういう無害な笑みを浮かべている時こそ、この男は恐ろしいのである。
は色を無くすと、趙雲に首を巡らせた。
「ちょ、趙雲殿。そろそろ劉備様の元へ」
「そうであったな。つい時間を忘れていた」
「わたしもです。喋りすぎてしまいました」

ふふ、と笑っていると、後ろから咳払いが聞こえる。
びくりと身体を揺らしたは、陸遜を見た。笑ってる、怖い。

が怯えている等とは夢にも思わないのだろう。
趙雲は陸遜に「失礼する」と律儀に頭を下げ、には穏やかな笑みを向けた。
「では後程」
「は、はい」
出来る事なら趙雲と共に立ち去りたい。
だけれど呼び止められた手前、この場を跡にする訳にもいかず、
取り残されたは恐る恐ると陸遜を見た。

「何か用?」
「いえ、随分と楽しそうにお話しされてましたので、混ぜて頂こうかと思いまして」
「そっちこそ、女中さんたちと楽しそうだったじゃない」
「貴方も混ざれば良かったのですよ。見なかった振りなどせずに」

気付かれてた。
あまりの目ざとさに、はきゅ、と唇を一文字に結ぶ。
陸遜の事を意識しているのを目の当りにしたくなくて逃げた、なんて事までは知られていないだろうが、
頭の良い軍師様の事。
上手い事話を持って行って、ぽろりと口を滑らせられたらたまらない。
早い事退散しようと、「それじゃあ」と言いかけたは、偉く難しい顔をしている陸遜に呼び止められた。



「何?」
こうして、ちょくちょくとを呼び捨てにする陸遜の真意も見えないまま。
いちいち動揺するのも情けなくて、はさして気にも留めていない風を装う。

陸遜は眉間に皺を寄せたまま、僅かに口を開いた。
そうして、思いとどまったように唇を結ぶ。
「いえ、何でも」
「そう? じゃあ、行くね」
ひらりと手を振ったを、もう一度陸遜は呼び止めた。
だから何、と言おうとした彼女を遮って、陸遜は言葉を続ける。


「趙雲殿に、嫁がれるおつもりですか?」