白い刺客7

陸遜が馬を走らせ辿り着いたのは、先日凌統と甘寧と共に夜酒を楽しんだ件の丘であった。
息を吸うと、冷たい空気が肺いっぱいに入って来る。
細く長く息を吐いて深呼吸したは、釈然としない面持ちで陸遜に首を巡らせた。

「さすが陸遜」
「何がです?」
「ここに来たかったの」
言うと、陸遜はいつになく穏やかな笑みを浮かべる。
「それは良かった」
「――むしろ、的確過ぎて歯がゆいけどね」
「あなたが分かりやす過ぎるんですよ」
付け加えると、毎度お馴染み皮肉たっぷりに返って来た言葉に、はベーッと舌を突き出した。


夜露に濡れた草原。
腰を下ろすと薄布がしっとりと水分を帯びる。
気にせず腰かけたは、うん、と背伸びをした。
「あー」
糸が切れた人形のように背中から倒れた
彼女を見ながら陸遜も腰を下ろすと、はげんなりした面で額を抑えた。
「疲れたー」
「お疲れ様です」
「針のむしろとはまさにこの事」
「貴方にしては、よく頑張りましたね」
「接待酒なんて金輪際ごめんだわ」
「まあ貴方は、わが軍が誇る体力馬鹿ですからね。今回みたいな事がないと、とても任せたりはしませんよ」
さらりと言った陸遜に、 癇に障ったは真顔で起き上がると、即座に言葉を返した。


「ちょっと待って。わたしが体力馬鹿なら、甘寧は?」
「まあ、そうですね……筋肉馬鹿と言った所ですか」
「じゃあ、黄蓋さんは!?」
「人の良い筋肉馬鹿ですかね」
「陸遜。それじゃあ甘寧の立つ瀬がないよ」
自分が体力馬鹿と名付けられたことを棚に上げて、
は甘寧を心底哀れむ表情で、静かに首を横に振る。
そんな彼女の表情に、陸遜は唇に薄らと弧を描くと、おまけのように付け足した。

「冗談ですよ」
「ホントかなあ。甘寧もああ見えて良い奴だよ。………ちょっと頭がチャラチャラ鳴ってるだけで」
「チャラチャラ鳴っているのは鈴ですよ」
「冗談だよ」
「本当ですか?」

くすくすと陸遜が笑う。
黙っていれば、好青年。
彼のこういう所作は、見た目が華やかなおかげで、女顔負けに美しいのだ。
眼福。
胸の内でそっと両手を合わせて拝みながら、
も声を上げて笑うと、酒瓶に手を伸ばした。

自棄酒も傷に染みて良いが、良い気分の時に飲む酒が一番美味い。

きゅっと飲むと、深い味わいが喉を通って行く。
喉を鳴らして二三口と飲むと、頬を朱に染めて、は満足気な声をあげた。
「ぷはあ」
「相変わらず良い飲みっぷりですね」
「窮屈な味がしない」
「それは良かった」
陸遜はの酒瓶に手を伸ばした。
了承を取るわけでもなく、いたく自然に口をつけた陸遜に、は目を見張る。
「マジか」
「どうかしましたか?」
「い、いや、何も…」
自分ひとりあたふたする方が恥ずかしい。
まるで何事も無かったかのように地面に視線を滑らせたに、陸遜は一瞬目を細め、ふと、声を上げた。
「――髪飾り」
「え!?」
「いえ、髪飾り。付けてくださってるのだな、と思いまして」
「あ、ああ。これね! うん。気に入ってるの。ありがとう。
趙雲殿に頂いた髪飾りは、どちらかと言うと見栄えもあって重たい感じだから、着飾る時は大活躍しそうなんだけれど、普段は、こっちの方が使いやすいかも」


何故だろう。
趙雲に貰った髪飾りをつけた事に後ろめたさを感じる。
は言い繕うように言葉を並べている自分を不思議に思いながらも、まくしたてた。
そんな彼女の傍らに座す陸遜は静かに笑うと、落とすように呟く。
「重さは――それほど変わらないと思いますよ」
「そうかな?」
「ええ」
「じゃあ、凝り易いわたしの肩に問題があるのか」
「そうでしょうね」
頷く陸遜。
やっぱりそうか、と、一人呟くは気恥ずかしさに邪魔されて、酒を取れない。
頭の片隅で酒に手を伸ばすか止めておくかを悩みながら、自身の肩こりについて必死に悩んでいる素振りをしていると、陸遜はそんな彼女を横目で見て、微笑を浮かべた。
「飲まないんですか?」
「ぅぇ」
バレてる。
虚を突かれた自分の声が途端に恥ずかしく思えてきて、は虚勢を張ると、威勢よく酒瓶を握った。
「飲むよ?」
「どうぞ」
「あ、ありがと」
平然を装って飲みながら、は思う。
なんだか今日の陸遜はおかしい。
もしかしたら、蜀との交流が思った以上に成果があって、気を良くしているのかもしれない。
そう思ったは、飲んだ酒瓶を置くと、伺うように陸遜に首を巡らせた。

「ねぇ、陸遜」
「なんです?」
「わ――」

わたしは、趙雲殿に嫁いだ方がいいと思う?


言いかけた言葉が詰まる。
趙雲殿を好きになれるかどうかだけを考えて。
尚香の言葉が胸を過ぎって、きっと陸遜なら正解を言うのだろうけれど、答えを求める事は失礼だと思いなおした。
開いたままの口からは、取り繕う言葉も出ない。



趙雲を好きになれるかどうか。



は口を噤んで、視線を落とした。

思い出したように重い空気を背負った
そんな彼女の一連を見ていた陸遜は、宙に視線を持ち上げると、おもむろに問うた。
「貴方は、趙雲殿をどう思われるのですか?」
訊かれて、は瞬く。
「どうって…思ったより、良い人だな、と…」
口に出してみると、趙雲と交わした数少ない会話が脳裏を過ぎった。
どれを取っても爽やかで、真摯な趙雲の態。
戦場で合間見えていても分からないもので、会って話すと、
耳に入って来る武勇に見合う人格の男だと思った。

「あと…夫人が居ないし」
「夫人?」
「第一夫人とか、第二夫人とか、作らない人に嫁げるものなら嫁ぎたいな、と…。まあ、いつまでも嫁に行かない立場で言える事じゃぁないんだけれどね」
言って、自嘲する。
「凌統にも馬鹿にされたしな」
この世界では当たり前。
そう思いつつ、やっぱり現代の日本で生きてきたには受け入れがたい風習で、添い遂げる相手を選ぶなら、どうしても心に引っかかってしまう。


長坂の戦いで見初めてから今まで、夫人も取らずに想い続けてくれた趙雲のこと。もしかして夫人になったとて、側室を作らずに添い遂げてくれるかもしれない。
そう考えた時に、ははたと瞬いた。
「あれ? もしかして趙雲殿を好きになれない要素って、無くない?」

むしろ、はい喜んでと嫁に行っても良い話。
尚香にとつとつと言われた言葉にようやく理解が追いついて来て、は駆け巡る思考に捕らわれる。

誰かを好きになってしまえば、確かに元の世界に戻り難くなるだろう。
けれど、来た時同様に、戻される時は否応なしに戻されるのだろうから、戻る時の事ばかり気にしていても生きてはいけない。
生きていく手段として、今まではエディットキャラクターの身体を借り、戦ってきた。
もし趙雲に嫁ぎ、嫁という形でこの世界に腰を落ち着けるのなら。
戦場に出らず、誰かを斬ることもなく、平穏に生きていけるのなら。
そっちの方が断然良いに決まっている。

こんな簡単な事にも気づかない程、
何に迷っていたと言うのだろう。

ふと、疑問に思ったとき、
尚香の言葉が思い返された。


  ――もしかしたら、好きな人でも居るの?


(ん?)


殿?」


(んんん??)


殿!」
「え?」

呼ばれて、我に返ったは陸遜を見た。
訝しげな瞳と視線が絡む。

顰めても美しい顔に、心臓がとくんと音をたてた。


いやいやいや、とはすぐさま内心で首を振る。

今のはあれだ。ちょっとしたファン心理から来るトキメキに違いない。不意を突かれただけだ。

じゃなきゃ、
爽やかな顔のくせして腹は真っ黒で、口を開けば嫌味しか出てこないこの男に、何をトキメク必要があるのか。
ストレスのはけ口にちょっと火をつけて眺めるのが趣味で、彼が登城してから燃えたり焦げたりした部屋は数知れず。
よりも随分と若くて、まだまだ野心も向上心もある。ガツガツと上を目指す彼からの風当たりの悪さで、幾度となくは泣かされてきた。

画面越しにファンをしている時には分からなかった辛辣な思い出が色々と、走馬灯のように駆け巡って、
冷静になるはずなのに、何故だか心臓は高鳴るばかり。

挙句。
まあそう、悪い事ばかりでもなかったしな。
ぽつりと思い出を締めくくった自分の胸中の言葉に、は背筋が寒くなるのを覚えた。
なんだこの、取り留めのない感情は。
随分昔に覚えがある。
その感覚の名前を思い出しかけたは思考を強制終了した。


「ぁ」
「――どうかなさいましたか?」
「い、嫌…えーっと…ちょっと、肌寒くなって来たような?」
「そうですか。戻ります?」
「そうする」

頷いて、はそそくさと立ち上がる。

今気付くのはマズイ。
歳を重ねると、自然と面の皮は分厚くなっていくもので、こう言う時には役に立つと、今は心底自分を褒めた。
と言うか、褒めて他を考えないよう努める。
平然と酒瓶を取ると、馬へと歩みを進めた。

その手を陸遜が取るまでは。

「な、なに?」
「先にわたしが乗りますよ」

そっか。
相乗りして来たんだった…。
これから城までの道すがら、果たして面の皮一つで乗り切れるかしらと不安に思うの傍で、陸遜はゆうゆうと馬に乗ると、右手を差し出した。

「ほら、早く裾をあげて下さい」
「分かってるって」

「本当にあなたは…。
置いてはいけないんですから、早く気付いて下さいね」


*+*+*+*
「そう言うとこ、軍師の悪い癖だねぇ」
「そう言うものですか」
「そう悠長な事してらんねぇだろうが、陸遜。趙雲に持って行かれたら、どうすんだよ」
「貴方たちが気にしているのは、賭け金でしょう。物事には段階と言うものがあるんです」
「なんだかんだ言って、そういう方面ではまだ子どもだねぇ、陸遜も。
そう言う意味で言うと、趙雲殿はもう段階を超えてるんだ。あのお天気女がうっかり嫁いじまう可能性もあるだろ」
「…ありますかね」
「あるかもな」
「お二方は、応援して下さっているのでは?」
「あたりめぇだろ。じゃなきゃ、こんな面子で酒なんて飲めねぇよ」
「それは俺の台詞だっての」
「あぁ? まあ、今はンな事どうでもいいんだよ。いいか、陸遜」


「「お前に賭けてんだから、死ぬ気で頑張れ」」


「……」