白い刺客2


劉備の気遣いで、尚香だけが一日早く呉に戻って来た。
その話を聞いたは、書簡も、兵たちの鍛錬に付き合う約束も、全て放り出して尚香の私室へと駆けこんだ。
「尚香様!! これは一体どう言う事ですかッ」
「あら、じゃない。久しぶりね」
「久しぶりね、じゃないですよ! 帰って来る間際にとんだ火矢打ち込んで来たくせして、何を白々しい!」
嫁いでも変わらぬ美しさを誇る末姫は、あ、と声を上げると、侍女に小箱を持ってこさせた。
「趙雲殿から預かって来たの。これ、この間のお洋服に合わせる髪飾りね」
そして、相変わらずまったく悪びれもなかった。

「その話です! 趙雲殿との結婚の話は、丁重にお断りさせていただいたはず! 今更何を…」
「結婚が成立しなかったからって、贈り物をしちゃダメなんて決まりはないでしょう?」
「嫌、まあ、それはそうですけれど…」
「趙雲殿が、に会えるから贈り物を考えてるって噂を聞いたから、
じゃあ、洋服なんてどう? って声を掛けたの。
せっかくだから、趙雲殿に見て貰えるよう、宴の服なんていいんじゃないかしらと思って」

さすが呉の姫。
火の無い所にしか煙が立たないなら、火を付ければいいと思っている。

「やっぱり尚香様から動いてた!! 絶対そんな事だろうと思った!!」
「いいじゃない。どっちでも。気持ちは同じでしょう?」
「断り辛いラインをわざわざ突いてくる辺りに計算しか感じません!」
「もういいじゃない。趙雲殿と結婚して、蜀に来れば」

あっけらかんと、尚香は言った。
は眉間に皺を寄せると、唸るように低い声を上げる。

この姫。練師を兄である孫権に譲って呉を出たが、
その変わりにを連れて行く手立てはないものかと未だに画策している。
脱力するように肩を落としたは、重いため息と共に言った。

「…ですから、それは何度もお断りしたはずです」
「だからこうして、もう一度来たんじゃない」
「何度来ても同じですって…」
「え〜」
「え〜、じゃないです。だいたい、わたしが蜀に嫁ごうものなら、魏、呉、蜀と三国跨ぐ事になるんですよ?」
「パンクじゃない」
「何もパンクじゃないです! めちゃくちゃ尻軽じゃないですか! 何かあったら真っ先に疑われますって」
某CMか! と、ツッコミを入れたくなるのを抑えて、は冷静さを取り戻そうと一度呼吸を整えた。
感情に呑まれては姫の思うツボだ。今までの経験上、勢いで何を約束されるか分かったものじゃあない。

「…殿や姫がご心配下さる気持ちだけで十分です」

「いつまでも甘寧や凌統とつるんでるつもり?
居心地が良いのは分かるし、あの二人が今こうしてるのは貴方のおかげでもあるけれど、
武将とはいえ女の子だもの。好いてくれる殿方が居るなら、腰を据えるのもいいと思うわ」

「たとえば趙雲殿とか?」
「そうそう。分かってるじゃない」

にっこりと尚香は笑う。
この姫の強引な手立てになかなか強気で返す事が出来ないのは、
を蜀に連れて行きたい気持ちもあり、趙雲を応援しているのもあり、女武将であるからでもあり、
最後に、の身の上も案じてくれているから、かも知れない。

家族がない。
記憶もない。
大勢の家族に囲まれて育った尚香や孫権は、ことのほかを気にかけてくれる。
このご時世、そういった話はよく聞く方ではあるけれど、家族の記憶もないと言うのが、二人のネックにあるらしい。

それがどことなく――の罪悪感を生んでいる事を、二人は知る由もないのだけれど、
彼らが口を揃えて言うのは、女武将を嫁に貰うとなればそれ相応の手練れでなくてはならない、と言う事。


そんな時に棚から趙雲。


を嫁に貰いたいと申し出て来たのは、赤壁の前だったか。
まだ魏に居る時、長坂の戦いには参戦した。
その折、なるだけ蜀兵や民を討たぬよう、こっそりと逃がしていたのをどうやらどこかから目撃されたらしい。
それ以来気にかけていたが、何せ魏の将。嫁に貰うなどは難しい。
そこでが引き抜かれ呉に来たと聞きつけた折、ぜひともと、劉備を通して文を贈って来た。

これが断りにくいの何の。

やっとの事断ったと思ったら、蜀との関係が危うくなった事で、尚香が蜀の劉備へと嫁いだ。
以来、緊迫感を持ちつつではあるが表面上は上手く保っているこの関係。
そんなデリケートな問題を抱えていると言うのに、こうしてちょこちょこ、尚香は趙雲を焚きつけて来る。

「ねえ、
思い返していたは、不意に尚香の真剣な声音で呼び戻された。
「何ですか?」
「もしかしたら、好きな人でもいるの?」
「………へ?」

思わず、瞬いた。

好きな人と聞かれて、何故か浮かんだ赤い悪魔。
一瞬ヒヤッとしたあと、これはファン心理だと、は自分に言い聞かせる。

がぶるぶると首を横に振ると、尚香は疑うような眼差しをに向けて来た。

「本当?」
「何でそんな話になるんですか?」
が来る前、甘寧と凌統が来たのよ」

…それでか。
なんだか妙に嫌な予感がする。

「貴方、呂蒙の弟子の陸遜と、何やら怪しい関係らしいじゃない」
「あや…!?」
怪しい関係、とはまた人聞きの悪い。
「全然怪しくないです。あの二人と他何名かが、勝手に焚き付けて来るだけで…」
「その陸遜も来たわよ。と趙雲殿の結婚を、本当に姫は勧めていらっしゃるのですか、って」
「………マジですか…」
は先日の軍議終わりに見た陸遜の苦い顔を思い返す。

「で?」
「で? って…」
「どう思ってるの? 陸遜の事」

皆が皆、どうして同じ事を訊いて来るのか。

「別にどうも…」
「どうもって事はないんじゃない? 若いし、顔も良いし。言い寄られて何も思わないなんて事はないでしょう?」
「嫌、そもそも言い寄られた事はないです」
嫌味ならたくさん言われた事あるけど。
は内心呟く。

周りがやけに熱心に陸遜を押して来るだけで、陸遜からアプローチがあった事は一度もない。
時折、言葉の端々に匂わせるような事を言われたりした事はあるが、だからと言って返事を催促された事もない。
つまりの中では、
「若気の至りみたいな感じかと…」
「……どういう感じよ、それ…?」
「陸遜殿には当初、何かと言うと珍獣のような扱いを受けていたのですが、
最近ようやく人として認めて貰え始めたような感じで。
そのギャップから、本人も興味と好意が良く分からなくなってるんじゃないかと思ってるんですけれど。

…好奇心、みたいな?」

「…仮にも軍師なのよ、陸遜は」

バカにしてるの? と聞かれて、は真剣に首を横に振った。
「嫌々、じゃないとおかしいですよ。わたし、結構年も上だし。将来有望な軍師様が相手にする価値がありません」
「価値がないって…価値で恋はしないでしょう」
「それは一般的な話です。殊、陸遜殿に関しては腹ぐ…計算もたつ方ですから、そんな感情では動きませんよ」
ふぅん、と尚香。
彼女はしばらくを見据えていたが、
「まあいいわ。こうしましょう」
と、手を打った。


「真面目な話、呉と蜀の関係は非常に危ないわ」
「分かってるならどうして火種を…」
「だからよ! こうして趙雲殿との間を取り持てるのも、今回が最後かも知れないってことよ」

真剣に言われて、は出掛っていた文句を飲み込んだ。

「それは趙雲殿も分かっているわ。
これで最後――貴方を振り向かせることができなかったら、次は槍を向ける事になるかも、って」
「……尚香様…」
「これで最後だから、ちゃんと考えて。
三国を跨ぐとか、そういうのじゃなくて。
趙雲殿の気持ちと、貴方の気持ち。それだけを考えて答えを出して」

「…」
「本当を言うとね、あたしも怖いの。
呉の皆と――兄上や練師と戦う事になる日が来るかもって…。
その時にが居てくれたら…同じ痛みを覚えてくれる人が居たらって…思ってる節も、ほんのちょっとだけだけれど、あるわ。

でも、それだけじゃないの。
は恋愛して結婚が出来るんだもの。
どういう理由か知らないけれど…逃げないで、ちゃんと恋をして欲しい。結婚だって!

それが趙雲殿であってくれたらいいなって思うだけなのよ、あたし」


「姫様…」
「劉備様の事は好きよ? 好きで嫁いだあたしは幸せだなと思ってる。でも、皆が皆そうじゃない」

ね?
と、首を傾げられ、はそろりと頷いた。

「だから、お願い。もう一度考えてみて。
蜀に来るとか、そういう事はどけて。
が趙雲殿を好きになれるかなれないか、それだけを考えて」


改めて差し出された小箱を、は眺める。
やがてゆっくりと手を伸ばすと、受け取った。
「分かりました。…尚香様…」



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押してダメなら、引いてみろ。 by尚香