白い刺客1
「絶対に嫌です!」
と言うの怒声は、
軍議終わりに退室しようとしていた個々の足を止めるに十分過ぎた。
孫権に呼び止められたが、
ものの数分もしないうちにあげた大声に食いつく勇気があるのは、
常日頃から行動を共にする上で、心臓に毛が生えている方、甘寧である。
「あぁ? 何だってんだ?」
「うるさい! 聞くな!」
完全に八つ当たりである。
噛みつくように言ったは、孫権へと向き直ると、唸るように声を低くした。
「…とにかく、姫様には丁重にお断りを申し上げて下さい」
「姫様って…尚香様の事かい?」
気だるげに口を挟む凌統を一睨みするも、彼はどこ吹く風で、
立ち去る処か、物見遊山と言わんばかりに踵を返して戻って来た。
それに釣られて、皆またぞろと所定の位置へと戻って来る。
は威嚇するように一同を睨み据えたが、強者の武将たちがこの程度の睨みでしっぽを巻いて退散するはずもなく。
声を上げてしまった自分が悪い、と肩を落としたは、開き直るように咳払いをひとつ零した。
「だが、尚香たっての願いであるし…」
「分かります。劉備様と尚香様がお訪ねに来られるとなれば、丁重におもてなしをされたい孫権様気持ちも分かります。
私だってそうです。でもそれとこれとは話が別と言うか、出来る事と出来ない事があるのです。
だいたい…! そんな…服が……っ、わたしに似合うとお思いですか!?」
が指差した先は、孫権の足元。
どうやらそこに服があるらしい、と、そろそろと忍び足でデバガメ隊が動き出す。
「ああ」
と、凌統。
「これは…」
と、太史慈。
「また姫様も、思い切った事を…」
と言う韓当の言葉には人差し指を三人に向けた。
「ホラ! ああ言われるのがオチです! そういう服は、練師様にお願いしてください!」
陸遜は、ここに来てようやくその服とやらが見えた。
なるほどいかにも練師が好みそうな、胸元と足元に大きくスリットが入っている服である。
戦装束となれば身軽さを重視している様子だが、
普段公務の際は、男のような恰好をして、平気で歩き回っているような女である。
そもそも足が出る服を見た覚えがないし、見るからに豪華絢爛な仕様。基本不精に見える彼女とはどう贔屓目に見ても縁遠い。
「だが、練師ではそもそもの意味がないのだ。分かるだろう」
「分かりますけど、私が巻き込まれる意味が分かりません! あの時、お断りを申し上げたはずです!」
「そこは分かる。確かに一度は断った。だが、どうしてももう一度と言う声に尚香が気をきかせてだなあ…」
「私に気をきかせて下さい!」
「とくかく、その話は一度置いておいてだな。迎える宴の日にこれに袖を通して貰えればいいのだ」
「いーやーでーす!」
「尚香と趙 子龍が共に選んだとなれば、無下に断る訳にはいかんのだ!」
「そもそも、なんで趙雲殿が私に服を贈って来るのですか! 婚姻の話は、丁重にお断りしたはずです!」
「それでも忘れれぬ気持ちがあるのだ! 私には分かる!」
「孫権様と練師様のなれそめはどうでもいいです!!」
君主とその配下がぎゃあぎゃあと揉めている。
その内容があまりにも突飛過ぎて、陸遜はしばしの間柄にもなく呆けていた。
「なんでぇ。またその話かよ」
「姫も諦めが悪いねぇ」
のんきに相槌を打った二人に、黄蓋が大きく頷く。
「まあ、もいつまでも嫁に行かぬ身。ならばと思う気持ちも分かるがのぉ…」
「それにしてもこの服…姫様がどちらかっていうと選んだ気がするけどね」
「こら! 凌統! いかにもな詮索をするでない!」
「いかにもってわかってるじゃないですか! 尚香様が絶対選んでますそれ!
趙雲様が選ぶような服じゃあありません!」
「おお! 好みを考えるとは、まんざらでもないのではないか!?」
「もうすでにゴリ押しじゃないですか、それ!」
「ひゅーひゅー」
「今言ったの誰だ! 無双乱舞食らわせてやる! 前へ出ろ!!」
地団駄を踏む。
それでも駄目かと唸った孫権は、ちらりと伺うようにを見ると、わざとらしく呟いた。
「確かに普段とは似つかぬ服だが……。似合わない事もないのではないか? なあ、陸遜」
「え、わ、わたしですか?」
まさか振られるとは思ってなかった。
あの陸遜が珍しく言葉に迷っている。
その微妙な心境を分かっているのは野次馬ばかりで、当の本人達は陸遜の気など知りもせず、再び口火を切った。
「ほら――! 皆までも言えないんですよ!? 言葉も出ない位ですよ!? もぉ、やめましょうよ〜」
「似合うよなあ!? 陸遜!?」
「まだ言いますか孫権様! 私はもう二度とその手の服は着ないんです! そんなの着たら、ほら、また言われる…!」
がくがくとは震えだす。
世紀末を前にしたような顔で、頭を抱えたは、蹲った。
「似合わない訳ではないけれど…。年甲斐もないとは、このことだねって…! あんにゃろう、笑って…っ!」
ふ、と顔まねよろしく、穏やかな表情を作ったあと、は怒りに震えた。
誰に言われたかはすぐに推察できる。
彼女が仕えていたと言う、魏の郭嘉の話であろう。
魏や郭嘉の話は酔い潰れた時に時折聞く程度なだけに、シラフの彼女の口から出るのは珍しい。
それだけ感情的になっているらしいは、顔を上げた時はちょっと涙目だった。
「絶対に着ません!!!」
「年甲斐もなくはないだろう。そんな事は絶対にない」
まだ諦めない男、孫権。
「孫権様が私の何を知ってるっていうんですか!」
ほぼ癇癪を起した子どものようなは、
「わ、わたしも覚えてないんですけれどね!」
と、慌てたように付け加える。
失言しかけて、ようやくちょっと冷静さを取り戻した。唇を抑える。
うっかり危ない橋を渡りそうになったが動揺している隙をついて、孫権は唱えた。
「この服を着て、趙 子龍を接待したなら、一週間酒代を払おう」
「…!?」
は、目を見開いた。
「趙 子龍は、蜀の要人。無碍にする事は出来ぬ。が耐えてくれたなら…一週間、いや、二週間は保障しよう」
「え? 殿本気ですか? こいつ、アホみたいに飲みますぜ」
「本気だ」
「よっしゃ。、受けろよ。ちょっとチャラチャラすればいいだけの話だろ?」
「チャラチャラ言うのは甘寧の鈴だけで十分だよ」
「あと頭な」
「うっせぇぞ、凌統!」
こちらはこちらで一種触発な雰囲気である。
はしばしの間押し黙ると、孫権を見据えた。
「着て接待するだけ。男に二言はありませんね? 孫権様」
「ああ」
「それ以上は絶対にありませんからね!! 部屋になんて行きませんし、結婚もしませんからね!!」
「生々しいなあ、おい」
「それは接待に含まれないと言う明確な境目をこの場でしとかなくちゃでしょ!!」
「あ、ああ。分かった」
「酒代二週間。手を打ちましょう」
しぶしぶと言った態で手を伸ばしたは、孫権の足元に置かれた箱を手に取った。
「…まじかよ…」
自分で言っておいて、即座に吐きそうな声を出す。
そんな彼女はすっかり意気消沈した様子で、孫権に挨拶もないまま、重い脚を踏み出した。
「やったなあ、!」
「何もやったじゃないよ…。甘寧変わってよ…酒代二週間分出すから」
「ぜってぇ無理だな」
「でしょう!?」
「そこはおめぇ…男と女の絶対的な壁ってもんがあるだろうよ」
「私と女にも絶対的な壁を設けて欲しい」
「言ってる事むちゃくちゃだね」
いつものように三人並んで歩いてはいるものの、真ん中のの足取りはおぼつかない。
「絶対似合わない。恐ろしい。怖い」
「そうでもねぇんじゃねぇかぁ?」
「馬子にも衣装位にはなるだろ」
「………ちがうんだよ。そういう話じゃないんだよ…。私だけど私じゃないんだよ…」
ぐすん、と鼻をすする音がする。
は重いため息を吐くと、顔をあげた。
「凌統の方が絶対似合うと思う!」
だけれどの視線は、凌統より先に居る陸遜を映した。
なんと形容していいのか、苦いものを噛み潰したような顔でを見ている陸遜に、
彼女は泡を食ったようにして首を巡らせる。
「孫権さま――! やっぱりこの話、無かった事に…っ」
「男に二言はない!」
「うわぁああぁああん、ブラック企業!」
「ぶらっく?」
「きぎょう?」
首を傾げる黄蓋と韓当の横を、一目さにが駆け抜けて行く。
「…陸遜が怒ってると思ったに、酒代一日」
「………陸遜に見られるのがつらいと、今更ながら自覚したに一日」
「「乗った」」
と、男二人は景気よく拳をぶつけた。
蜀が尋ねて来るまで、あと三日。