「おはよう、主」
「おはよー」
近侍の光忠が起こしに行くよりも先に女審神者が起きて来た。珍しい。
片手で口を押さえている。
こほ、と咳を零した女審神者に、光忠は眉間に皺を寄せた。
「大丈夫かい?」
「うん…。今日、寒いね」
「そうだね」
相槌を打ったものの、ここ数日に比べていくらか暖かい今日。
冷え性と運動不足ゆえに「寒い」が口癖の彼女であるが、それにしてもいつもと様子が違うように思える。
光忠が様子を伺っていると、何気なく顔を上げた彼女の面構えにぎょっと目を開いた。

「ちょっと主。頬が赤くないかい?」
「そう? 寒いくらいだけれど」
「もしかしてと思うけど、熱が…」

あるんじゃないかい、と尋ねようとした唇が開いたまま塞がらない。
突然目の前で女審神者の顔が歪んだかと思うと、ぐらりと前に傾いだのだ。
「ある…!」
蜂蜜色の瞳が驚愕に見開かれる。
伸ばした手が届かない。
まるでスローモーションのように倒れ行く彼女に手は届かぬまま、バターンと派手な音を立てて女審神者は縁側に倒れこんだ。




「風邪よ、風邪。どーりで最近咳が出ると思った」
すぐさま布団に連行された女審神者は、ごほごほと咳を繰り返す口をタオルで押さえている。
少しくぐもった声のまま、彼女は「ああ」と唸った。
「熱なんて初めて出た。こういう感じなのね、熱が出るって」
「何を悠長なことを…」
「大げさにしてごめんね、光忠」
彼女が倒れたあと、本丸はひっくり返る程の大騒ぎになった。
まず長谷部が転がるようにして駆けつけてくる。
次に清光と鳴狐。
駆けつけて来た秋田たちが気が動転して泣き始める中で、女審神者は微かに動くと、ごほっと呻いた。
「…風邪引いた」
止まっていた時間が一気に動き出す。
光忠が主を抱え、長谷部が機動をフルに生かして布団を敷き、清光が氷枕を準備に走る。鳴狐が手入れ部屋で作業をしていた薬研を呼びに駆けた。
あっという間に布団に縫い付けられて現在に至るわけだが、
彼女は用意された氷枕の冷たさに心地よさそうに瞳を細めると、いつもより低い声を上げた。

「光忠」
「なんだい? 何か食べたいもの?」
「…今はいらない」
「主に食欲が無いのがこんなに心配だとは思わなかったよ」
「喧嘩売ってんの?」
「心配してるんだよ」

真摯にそういわれると、素直に謝るしかない。
もう一度咳を零すと、喉が痛そうに咳払いを零した。

「そうじゃなくて、風邪が治る間、本丸の切り盛りお願いしていい?」
「もちろん」
「長谷部と清光に部隊編成と指揮を任せるから。遠征を主に資材集めをお願い。手入れが出来ない分、なるだけ安全な所を選んでね。出撃はしなくていいから」
「分かった」
「それから、鳴狐と薬研に内番の采配と指揮を任せて」
「うん」
「そういうことで皆に任せるから、わたしの部屋には入室禁止ね。用事があるとき、外からお願い」
「うん…って、何でだい!?」
頷きかけた顔をあげて光忠が尋ねると、その仕草が面白かったのか女審神者は微かに笑った。
「風邪移す訳には行かないでしょう。治るまで引きこもっとく」
「そういう訳には行かないよ。何のための近侍なのか…」
「ご飯とか、氷枕とか、準備して貰えるだけでも有り難いから。部屋で横になっとくだけなのに近侍はいらないわ。しばらく一人で大丈夫」
「でも、主」
「皆に周知をお願いね。もし背いて部屋に入ってくる刀がいれば…」

女審神者はそこで、一度言葉を区切った。


「三日間、口利かない」
「……子どもじゃないんだから」

しかしこの子ども染みた仕置きがこの本丸に置いてかなりの効力を発揮するのもまた事実で。


「何それ、主、本気なの?」
「何ゆえ主はそのようなことを…」
部屋を出ると、彼は行く先々で主の容態を尋ねられた。
主からの周知を告げるとそろって唇をへの字にひん曲げる。どうやら納得がいかないのは光忠だけではないらしい。
台所へと向かった光忠を待っていたのは、今日の食事当番である長谷部に安定、鳴狐だった。

「やあやあ、主殿らしいと言えばらしいですなぁ〜」
のんびりと言ったお供の狐に、安定は「そうなの?」と首を巡らせる。

「……主は、弱った所見られるの、好きじゃない」
鳴狐の言葉に、光忠も困ったように頷いた。
「妙なところで責任感が強いというか、頭が固いというか」
「この本丸の家長としての振る舞いを、随分気にしておられますゆえ」
「家族なのに?」
「家族なのにねぇ」
光忠が頷く。

長谷部は押し黙った素振りを見せていたが、重々しく口を開いた。
「しかし……、主であるのもまた事実だ。そういう意味では、尊厳と言うのも必要だと考えていらっしゃるのかも知れない」
「尊厳ねぇ」
「大和守殿、考えていることが顔に出ておられます」
と、お供の狐。
「鳴狐も思わない?」
是とも否とも言わず、鳴狐は少し笑う。
「…主らしい」
「頑固だからね」
「………まあ、主が言う事に従うしかない」
神妙な顔で長谷部が言うと、光忠は穏やかに相槌を打った。
「そうだね。とりあえず、ご飯の準備をしようか」
女審神者が食卓に居ないというのは、あまり無いことで、
いつもと同じ味なはずなのに、どこか味気ないです、と言う五虎退の言葉を聞けば泣いて喜んだだろうが。

光忠が部屋の外に食事を置いて、女審神者に声を掛ける。
顔をあわせると叱られそうなので、少し離れたところから様子を見ようとすると、
「加州くん」
「し――! 主にバレるだろ」
角に隠れていた先客、加州清光が、慌てたようすで光忠のジャージの裾を引っ張った。
二人して忍んでいると、僅かに開いた襖の隙間からだらりと手が伸びてくる。
手はお盆を持つと、持ち上げる気力もないような素振りで部屋の中へと引っ込んだ。
たいして時間もかからないうちにお盆は再び部屋の外へ。
あの様子ではほとんど手を付けてないに違いない。

「大丈夫かな、主」
すぐさまお盆をひけば、
様子を伺っていることがバレてしまう。
おそらく考えたことは同じで、そろりと声をあげた清光に光忠はううん、と唸った。
「今まで風邪を引いたことは?」
「初めて。あの人運動不足なわりに、身体丈夫だからなあ」
「熱を出したのも初めてだって言ってたしね」
「そういうときこそ近くに居たいものなんだけど…。三日間でしょー、長いじゃん? 俺、主に三日無視されるとか、呼吸困難になる自信あるし」
「風邪より大病だね、それは」
「だろー? 主もひどいこと思いつくよなあ…」
ぐぬぬ、と声をあげた清光がお盆を下げに行くと、「全部食べれなくてごめん」と書かれた紙が添えてあった。
食事当番でもない清光が大事に折りたたんで懐に直すのを見ながら、光忠はほとんど手の付けられていないうどんに視線を落とす。



そうこうしているうちに夜が来て、
主の居ない夕食を終えると、刀たちは早めに布団へと入った。
次郎太刀も酒瓶を出さないまま。
真っ暗になった本丸を光忠は足音をたてないように歩く。
水の入ったグラスと、薬研が作った風邪薬。氷枕の新しいのも用意した。

女審神者の部屋につくと、彼は「主」と声をあげる。
「ここに置いておくね」

返事は返ってこない。
置いて立ち去ろうとした光忠だが、ふと足を止めた。
首だけで部屋を仰ぎ見る。
しばらく考える素振り。
やがて彼は踵を返すと、襖のふちを叩いた。

「主、入るよ」

そっと襖を開く。
真っ暗かと思いきや、ホラーが苦手な女審神者は夜でも灯りを付けているようだった。
枕元を照らす灯りに、女審神者の赤い顔がぼんやりと映える。
「…主?」
「みつただ?」
目を開けた彼女が苦しそうに名前を呼んだ。
呼吸も荒い。
熱はまだ下がっていない様子で、彼女は眉間に皺を寄せると、ごほ、と咳をした。

「………下がりなさい。今ならまだ許すから」
女審神者の苦言に、光忠は笑う。

「ここまで来て、下がるくらいなら最初からあけないよ」
「主命よ」
「長谷部くんじゃなくて残念だったね、主」
もっとも主命とあらば長谷部は、そもそもが言いつけを破って襖を開いたりしないだろうが。

光忠は茶化すように言うと、右から左な様子で部屋へと入った。
そっと近くによると、女審神者は随分と汗ばんでいて目も充血している。これは横になっていたとはいえ、ほとんど寝れていないに違いない。


「タオルは?」
「……襖の中」
「了解」
襖を開けると、タオルを取り出す。
顔を拭いて、首を拭くと、女審神者は悪態をついた。

「寝苦しいのは、気持ち悪いからか」
「代えのジャージは?」
「あっちの箪笥」
「僕は見ないようにしてるから、ほら着替えて」
「分かった」

ジャージを渡すと、光忠が目を閉じるよりも先に女審神者はジャージのチャックに手をかけた。慌てて逃げるように後ろを向くと、無愛想な声で「光忠」と呼ばれる。
「どうかしたのかい?」
「今のうちに氷袋に入れてきてくれない? 四つくらい」
「うん。分かったよ」
足早に出た光忠が台所から氷の袋を持って帰る頃には着替え終えていた。
タオルと脱いだ服が布団の隅に散らばっている。
拾い上げて畳んだ光忠は、お盆の上の氷を彼女に手渡した。


「主、氷だよ」
「ありがと。脇に入れるといいって、聞いたから」
「薬研の薬は? 昼間、ちゃんと飲んだのかい?」
「飲んだよ。まずかった」
「良薬は口に苦いものだからね」
「こんな書置きがあったの」
枕の下から女審神者が出した紙には、筆で一筆。


『とびきり不味く作っておいたぜ、大将。これに懲りたら、風邪ひかねぇようにな』


「鬼だと思わない?」
「薬研くんらしい」
「どうしてうちの本丸には可愛げのない奴ばかりなのかしら。主命無視する奴もいるし」
「ははは、三日間は口利いて貰えないね。僕は」
「当たり前でしょう。約束は約束だもん」
「――それでも、一緒に居てあげたいと思っちゃったんだ。仕方がないと思わないかい?」
「思わない」
「冷たいなあ、主は」
「余裕がないの、見せたくなかったのに」
「尊厳って奴かい?」
「そう、尊厳」
「大和守くんが、盛大に首を傾げていたよ」
「安定め…」
「あと、家族なのにって」
「ん?」
「皆まで言わずとも、分かるだろう? 僕たちに家族を教えたのは、他でもない主なんだからさ」
「かっこつけたいものなのよ」
「そもそもがかっこつかない事なのに?」
「光忠と一緒」
「…ほんと、かっこつかないよねぇ」
「お互いね」

そこで、女審神者は咳を零した。
ああ、と、光忠は薬研の薬を取り出す。

「げ」
「げ、じゃないよ。飲まなきゃ」
「いやだー、それほんっとに不味いんだよ?」
「まあその感じじゃ、薬研くんはとびきり不味く作ったみたいだしね」
「光忠代わりに飲んで」
「駄目に決まってるだろ」
女審神者が「ですよね」と言うと、光忠はお盆の上から皿を取り出した。
「代わりにと言ってはなんだけど、明日のおやつのゼリー。口直しにどうだい?」
「ゼリー?」
女審神者が動く。
涼やかに揺れているゼリーを食い入るように見た彼女は、ちょっと考える素振りを見せた。
「でも、明日の分でしょう?」
「そういうと思った。僕の分だよ、それ。主にあげる」
「で、でも…」
「その代わり、薬飲んで早く良くなってくれないと」
「努力します」

薬をぐぃっと飲み干す。
「うえー」
薬研の本気はよほどの不味さなのだろう。
舌を出した彼女はゼリーにスプーンを入れた。
一口含むと、へにゃりと笑う。

「美味しい」
「良かった」
「光忠」
「なんだい?」
「ありがとう。正直……一人じゃ色々億劫だったから。助かった」
「どういたしまして。ほら、寝るまで居るから。食べたら横にならなきゃね」
「……うん」

ゼリーを食べて、横になった彼女の額に氷枕をのせれば、目を細めた女審神者は、眠れそう、と小さく呟いた。

「おやすみ、光忠」
「おやすみ、主」

寸ともせぬ間に寝息を立て始める女審神者。
光忠は手を伸ばすと、汗に濡れた彼女の前髪を横に流した。

上気した頬に、薄く開いた唇。呼吸に合わせて上下する布団。
「……これで三日分なら、元は取れてるよね」
誰に言うでもなくぽつりと呟いたあと、

「余裕がないのは、僕の方だよ。主」
胸が狭くなる想いに苦笑を浮かべた。


女審神者が倒れたあの時、届かなかった己の手が脳裏に焼き付いて離れない。
たかが風邪。
何度自分に言い聞かせても、もしも、が頭をよぎる。

もしも、女審神者に何かが起きた時、伸ばしたこの手が届かなかったなら…。

それは何とも恐ろしい事だろう。


光忠は、布団の上にある女審神者の手をおそるおそると取った。
ぎゅっと握ると、温かい手を自分の額まで持ち上げる。

「頼むから。手が届く所に居て欲しいな。


…僕たちには……僕には、君しか居ないんだから…」