「まだ終わらないんですか?」
控え目に叩かれた障子が開いて、盆に茶を乗せた宗三が顔を覗かせる。
それと同時に背中へ投げつけられた辛辣な問いに、女審神者はう、と言葉を詰まらせた。
「面目ない」
「先ほどその言葉を聞いてから、かれこれ四時間は経ちましたか」
「本当にね」
「何をしてるんです?」
「書類だよ!」
いつもの憎まれ口ですら癪に障る程、今の女審神者には心に余裕がない。
キィ、と猿のような癇癪を起した女審神者は、机の上に山を作っている書類の束をドンと叩く。
途端にぐらぐらと右左に傾いだ山は、音を立てて雪崩を起こした。
畳に散らばった書類を悲痛な面持ちで見た女審神者は、現実から目を背けるように両手で顔を覆うと、呟く。
「もう嫌だ、大阪城の調査。報告書は終わらないし、手入れ部屋は連日連夜一杯だし、首が回らない」
「そうですね」
「もう一人わたしが欲しい」
「手が掛かるのが二人も、必要ありませんよ」
「にべもない」
静かに部屋へと入って来た宗三は、女審神者の前に茶を置くと、畳に散らばった書類を集め始めた。
「余裕が無いのなら、専念すれば良いものを」
「それはそうなんだけれど」
宗三は暗に、女審神者が合間もないのに刀達の元へ顔を出す事をさしているのだろう。
皆まで言わずとも理解した女審神者は、再び机の上に山を成していく書類を心底嫌そうに見ながら、茶に手を伸ばした。
「同じ屋敷に居るのに、なんだか寂しくて」
「同じ屋敷に居るのですから、寂しくもないでしょう」
「宗三が冷たい」
「書類が終われば、優しくしますよ」
「嘘だぁ」
心の籠ってない単調な宗三の言葉に、女審神者は胡散臭い目を向ける。
下唇を突き出して、女審神者は湯呑みを置いた。
「いいもーん、今日のノルマはあと少しなんだから」
「そうですか」
「あ、信じてないな。宗三」
「四時間前にも聞きましたからね、その台詞は」
「だって、内番の手が足りないって言うからさぁ」
「手を動かして、口はお茶を飲むだけにしたらどうです?」
無情にも切り捨てられた。
「…ですよね」
女審神者は筆を執る。
宗三がちらりと横眼で見ると、筆が当たる部分が赤く腫れているのが分かった。
冬は手が荒れると言いながらする内番や水仕事に加え、書類に油分を持っていかれた手はお世辞にも綺麗とは言えない。
そんな手をついと見つめる。
彼女の気が逸れぬうちに目線を戻した宗三は立ち上がると、部屋の奥へとさがった。
紙が擦れる音が、静かな室内にいやに大きく聞こえる。
筆をおいた彼女は、ペンだこが出来ている人差し指の腹を撫でながら、ああ、とか、うう、とか一人ごちると、肩を落とした。
「これが終わったら、一期一振に粟田口の短刀たちよろしく褒めて貰って…この冬最後のおでんパーティするんだ。
資源にも余裕出来たし、たまにはケーキとか買って、ああ、お肉もいいな」
「――全部食べ物ですか」
「うわ、宗三居たの」
「近侍ですからね。居ます」
「部屋戻ってていいのに。まだもう少し掛かるよ?」
「言われずとも知ってます」
女審神者は、障子の向こう側が真っ暗な事を確認すると、ちらりと宗三を伺い見る。
「だけれど小夜ちゃんが」
「小夜は兄上が見てますから」
「そっか」
「僕も見てるだけですが」
「……うん、そうだよね…」
宗三が手伝ってくれるなんて言う甘い期待はしていない。
いつもなら、近侍でなくとも、出陣であろうと、わが身を犠牲にする勢いで主を手伝ってくれる長谷部が居る手入れ部屋を思いながら、女審神者は唇を噛む。
「大丈夫。宗三が居てくれるだけで嬉しいよ」
「…………そうですか」
宗三の返事は気が無かったが、
事実、今にでも終わらせなければいけない報告書を前に、部屋を抜け出したのは女審神者だ。
本来なら、先に部屋で休んでもいいものを、
なんやかんやと憎まれ口を並べながら付き添ってくれるのが、この宗三と言う一振りの優しさだと言う事を良くよく知っている女審神者は、
気合いを入れなおす為に両手で頬を叩くと、再び筆を執った。
もう随分と前に途切れてしまったなけなしの集中力を総動員させる。
小一時間後。
鬼気迫る勢いで筆を走らせた女審神者は、力を入れ過ぎて痺れた手をゆっくりと解くと、筆を置いた。
終わらせた報告書を山の一番上へ。
積み重なった報告書に瞳を細めると、糸が切れたように頭を垂れた。
額が机にぶつかって、ごん、と音が鳴る。
「終わった…」
「終わりましたか」
「とりあえず、今日までの報告書はまとめた」
「溜まってましたからね」
「一端リセット…。明日からの事は、明日考えよう…」
「その日に終わらせると言う考えはないのですね」
「むしろもうしばらく筆は握りたくないよ」
手が痛い。
力が抜けると、途端に睡魔が襲ってきて、
女審神者は重くなった瞼に半目となった。
「主」
「うん」
「寝るなら布団を敷きましょう」
「うん、ちょっとこのまま休む。起きて敷くから、宗三ももう下がっていいよ」
身体が鉛の様だ。
海に沈んでいくように意識が細くなっていくのを感じる。
不意に、女審神者の髪を何かが撫ぜた。気持ちがいい。
気だるげに視線を向けると、目の前で揺れる桃色の袖。
桃色の、袖。
ゆっくりと動くそれが宗三の手である事に気付いた彼女は、驚きのあまり意識が覚醒すると、身を起こした。
「何事!?」
いつの間に傍へ来ていたのか。
跳び起きた女審神者に虚を突かれた様子の宗三が、物珍しく目を見開いている。
手を引いて、袖口を抑えている宗三は、女審神者とかち合った視線から逃げるように瞳を逸らした。
陶器のような白い肌が、湯にあてられたようにほんのりと朱に染まっている。
「お小夜にしているようにと…思ったのですが…」
「小夜ちゃんに?」
瞬いて、首を傾げた女審神者は先ほど自身が口走った言葉を思い出して「あ」と口を開いた。
一期一振に粟田口の短刀たちよろしく褒めて貰って。
宗三なりに、褒めてくれようとしたのだろうか。
女審神者は過剰に距離を取った自分を気恥ずかしく思えて来て、宗三を見上げる。
「えっと」
どう動くのが正解か分からぬまま、燃えるように熱くなった頬と耳を持て余していると、
宗三はふと、息をつくように笑った。
「貴方と言う人は…見ていて飽きませんね」
「――褒めてる?」
「報告書が終われば、優しくすると言う約束でしたから」
つまりは褒めているという事なのか。
先ほどの不意を突かれた宗三はどこへやら。
あっと言う間にいつもの態へと戻った彼は、目尻を下げるようにして笑った。
しなやかな腕をついと伸ばす。
宙で止まった手を見つめていると、彼は緩やかに唇に弧を描いた。
「な、に」
「さぁ、なんでしょうか」
白々と宗三が笑う。
そんな宗三と彼の手を恐々とみていた女審神者は、ゆっくりと動いた。その手の下に、頭を置いてみる。
すると、手は待っていたかのように彼女の頭を撫ぜた。
「小夜ちゃんにも、撫でて欲しけりゃ自分で来いって言うの?」
「まさか。貴方にだけですよ」
「そうですか」
「ですから」
宗三の手は最後に女審神者の頭をぽんぽんと二度跳ねた。
ぐしゃぐしゃになった髪で顔を上げた女審神者は、少し寂しげに肩を落とす宗三と視線が絡む。
「居てくれるだけで嬉しいなどと言うのは、止めて下さい。貴方の口からは、あまり聞きたくありません」
「宗三」
飾られ続けた刀。
自らを籠の中の鳥のようだと言う刀には、不躾な言葉だったか。
女審神者が口を噤むと、宗三は微かに笑った。
彼女の胸中などお見通しと言わんばかりに、優しく目を細める。
そんな一挙一動がどこまでも美しい刀は、女審神者の髪を梳くようにもう一度撫ぜると、付け加えた。
「傍に来たら褒める位には…貴方の事を気に入っていると言う事かもしれませんね」