風呂から上がると、
見上げた朧月に女審神者は白い息をほぅ、と吐いた。
「綺麗な月夜」
朝起きて寝るまで、内番や出陣、遠征をこなす刀剣男子達の疲れを落とすため、
大浴場は昼夜に渡って賑わっている。
大人数の男子たちに対して、女は審神者一人。
事務仕事の多い彼女は必然的に男子たちが眠りについた夜風呂に入るのが常なのだが、冬ともなると、温まった身体もすぐに冷えはじめる。
足先が冷たい。
ぶるりと身震いした彼女は、誰に言うでもなく、間の抜けた笑みを浮かべた。
「風呂上りに日本酒一杯…いいなあ」
月夜より、月見酒。
太郎と次郎の部屋に行ったら、まだ飲んでいるに違いない。
けれど、うっかり顔を出してしまおうものなら、
へべれけになるまで帰して貰えない事は今までの経験上分かっていて、
そうなると明日の仕事に差し支えると、女審神者は悔しさに下唇を噛みしめる。
「……あの二人、あれだけ呑んで次の日ケロリなんだもの」
特に太郎は強い。
どれだけでも酔って乱れるが花のごとしと言わんばかりの次郎の隣で、
常に静かに徳利を傾ける彼が、酒にのまれたり、二日酔いであったりするのを審神者は見た試がない。
ここの所酒が回るのを早く感じるようになった彼女は、あの二人の呑み方について行けないのが、悔しくてたまらないのである。
「しょうがない。大人しく寝るか」
溜息をついて歩き出した審神者の耳に、葉が擦れる音が聞こえて来た。
がさがさと鳴る方へ首を巡らせると、草場に小さな影が見える。
目を凝らすと、夜闇の中で狐がこちらを見ていた。
「あら、鳴狐の。一匹なの? 珍しい」
審神者が話しかけると、
いつもなら饒舌に言葉を返してくる彼は、ぷぃとそっぽを向く。
小さな足で歩き出す狐。
それを見守っていると、ちょっと歩いたのち、再び狐は審神者を振り返った。
「……もしかして、付いて来いって言ってる?」
狐は答えない。
それを是と取った女審神者は、湯冷めする身体を両手で抱いて、狐の後をついていく。
審神者の部屋とは別の方角、刀剣男子たちの部屋がある方だ。
やがて見えた軒先に、鳴狐が座っている。
狐はとたんに早足になると、ぴょんと飛び跳ね、鳴狐の太ももの上に納まった。
ほわ、とあくび一つで丸くなる。
お役御免らしい彼は、すぐさま寝息を立て始め、
狐の毛並を撫でる鳴狐は、女審神者に瞳を細めた。
「鳴狐」
「…こんばんは」
「こんばんは。良い月ね」
こくりと頷いた彼は、自分の隣をぽんぽんと弾く。
どうやら座れと言う事らしい。
審神者が素直に座ると、甘い匂いが漂ってきて、審神者はそわっと背筋を伸ばした。
「良い匂い」
「………稲荷。それと」
「お酒!」
「正解」
お面の奥の唇が、微かに持ち上がる。
女審神者が両手を挙げて喜ぶと、鳴狐は猪口を差し出した。
受け取った猪口になみなみ注がれる酒。
審神者も鳴狐の猪口に酒を注ぐと、こつりと猪口をぶつけた。
「乾杯」
「…かんぱい」
「んまっ。やっぱ風呂上りのポン酒は最高だね」
「うん」
「稲荷貰っていい?」
「どうぞ」
差し出された稲荷を口に入れると、いっぱいに広がる油揚げの香り。
「美味しい!」
「うん」
「鳴狐が作ったの?」
「そう」
「あいかわらず天才的だねぇ」
稲荷のあとの酒が染みる。
「稲荷と言えば、ほら、鳴狐が春先に作ってくれる山菜入りの奴。あれも好きだなぁ」
「主、すぐに全部食べるから」
「酒のアテが無くなってねぇ。最初の時は、清光がつまみ作ってくれたよね」
「……まだ、ぼく達しか居なかった」
「うん。三人で宴会だったよね」
今となっては、賑やかな本丸。
清光と鳴狐と三人であった頃が、随分と昔の事に思える。
「鳴狐、待っててくれたんでしょう? 今日、長谷部が居ないから」
こくりと、鳴狐が頷く。
一番刀を自負する長谷部は、近侍の際、女審神者が寝るまで世話を焼いてくれる。
風呂に入る間も直立不動で待つ彼が遠征に出かけると、
必ず清光か鳴狐が風呂上りに現れるのだが。
「鶴丸じゃないけれど、狐が来たから驚いちゃった」
「楽しかった?」
「うん」
「そう」
口数が少ない鳴狐が、こんなにも喋るのは、
こうして時折夜に呑む二人きりの時だけ。
狐の毛並を撫でながら、稲荷を頬張る鳴狐を横眼で見て、女審神者は猪口を傾けた。
「良い夜だね」
「うん」
返って来る、少し低めの声が心地よくて、つい、たわいもない事を話しかけてしまう。
「月が綺麗」
「そうだね」
「月見酒最高だね」
「……主が居るからね」
「何それ」
「加州清光の真似」
「言いそう」
女審神者が笑うと、鳴狐も首を少し傾いで笑った。
「たまには、三人で呑む?」
「住み分けだから、無理」
「住み分け?」
「そう、へし切長谷部が居ない時は…公平に、じゃんけん」
「じゃんけんなの?」
「そう。勝った方が、主のお迎え」
「知らなかったー」
「三人より、二人がいいから。お互い」
「難しいねぇ、男の子は」
「主が単純なの」
「えー」
鳴狐が注いでくれた酒をかざすと、朧月が映る。
キラキラと光る酒を呑むと、すぐさま稲荷を頬張って、女審神者は舌鼓を打った。
「うん、やっぱり最高」
「薬研には内緒ね」
「もちろん。また体重計とメジャーが引っ張り出てくるもの」
げんなりすると、鳴狐がぽつりと落とした。
「みんな、主が好きだから」
「わたしも皆が好きよ」
「…ぼく達、ね…」
鳴狐が少し黙り込む。
ちらりと見ると、こちらを見ている鳴狐と瞳があった。
「ぼく達じゃなくて、ぼくを見て欲しい」
「…へ?」
「って――思っている刀も多いと思うよ」
「……鳴狐まで」
「みんな主が大好きだからね」
「それはありがたいんだけれどねぇ…」
動揺した事を悟られぬよう、ははは、と渇いた笑みが零れる。
しかし鳴狐だからか、
長年共に居るからか、
鳴狐はそんな女審神者の動揺も見透かすような瞳を向けていた。
真っ直ぐと見据えて来る瞳に、女審神者は誤魔化すように酒を流し込む。
「あったかくなった」
「寝る?」
「うん」
「じゃあ、部屋に」
お供の狐を縁側に置いて、
鳴狐は女審神者の手を取ると、ゆるりと歩き出した。
「鳴狐、狐はいいの?」
「うん」
歩幅はゆっくり。
月夜を見ながら、鳴狐は歩いていく。
「三人より、二人がいいから」
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じゃんけん対決鳴狐ver