真っ黒で分厚い雲が空を覆っている。
月明かりを遮られた本丸の庭。
木々は茶を濃くし、陰を伸ばしていた。虫の音ひとつ聞こえない。

女審神者は灯りを手に暗い庭を見回し、陰鬱なため息を吐くと、一人呟いた。
「嫌な夜だなあ。トイレに行くの、止めようかなあ」
一度気になって起きてしまえば、なかなか寝付けない。
とは言えそのまま右に左にと丸太のように転がっているうちに目が覚めてしまえば、そのまま朝まで眠れなくなる可能性もあって、仕方なしに布団から出たのが数秒前。
女審神者は憂鬱な面のまま、廊下に足先を下ろした。
冷たい床に触れた足先が、氷のように芯から冷えていく。

「さっさと済ませて部屋に戻ろ――ん?」

女審神者は小首を傾げた。
先月顕現したばかりの刀、三日月宗近が縁側に座している。
彼は酒瓶を傍らに置き、猪口をゆっくりと傾けていた。
無駄に絵になるその様子に、女審神者は瞬くと、声を掛ける。
「三日月?」
「…」
「違った。三日月丸?」
「……主か」
絶対に聞こえていたはずなのに。
相変わらず「三日月丸」と呼ばないと返事をしてくれない一振りに、
女審神者は内心ぐぬぬ、と唸り声を上げた。
彼が顕現して、もう二週間ほど。
呼び間違えた事が気に食わないから、と根に持つレベルの話ではない。
そうなると、本当に気に入っているように思えてきた呼び名に首を巡らせた彼は、ふと零すように笑みを浮かべた。
「こんばんは、三日月丸」
「こんばんは。良い夜だな」
「そう? わたしはあんまり、好きじゃない」
「ほぉ」
「何?」
「嫌、案外鈍い訳でもないらしい」
「どういう意味?」
「今日の夜は――闇が近い」
「闇が、近い?」
「ここの本丸の刀たちは、よほど主が可愛いのだな。
くれぐれも言ってくれるなと、先ほど加州清光と乱藤四郎に釘を刺されたばかりであったよ」
思い出したようにそう言った三日月は、右手を左口端に添えると、唇をなぞるようにして右口端へ移動させた。

「お口チャック」
「何それ」
「乱の真似だな」
「…三日月は」
「……」
「三日月丸は…」
「何だ?」
「面倒見がいいんだね」

そう言った女審神者に、三日月は笑みを返した。
薄い唇が綺麗に両端を上げる様は、まるで本当に三日月のよう。
瞳を細くした彼は、「そうか」と相槌を打った。

「その心は?」
「へ?」
「続きを聞かせてくれるのではないのか?」

「ああ――嫌、えっと。深い意味はないというか、なんとなくそう思うだけなんだけれど。
皆が何か私の事を考えて、黙ってくれている事があって。三日月丸は、それに対してどうかと思ってるんだよね?
だから、伝えてくるけれど、皆の手前、わたしが気付いて訊くまでは言わないべきだと思ってて、
その話の流れで、誰がそうやって守ってくれてるのかって言うのを口に出すのも、全部故意だよね?」

「ふむ」
「あってる?」
「まあまあだな」
のんびりと言った三日月は、はっはっは、と声を上げて笑った。
女審神者を手招くと、懐から猪口を取り出す。

「呑むか?」
「い、頂きます」
「褒美だ」
「ありがたく」
徳利から、琥珀色の酒が流れてくる。
女審神者が頭を下げると、三日月は己の猪口を持ち上げた。
微かにあてて乾杯とする。

「それで? 訊くかな?」
「今の状況を?」
「ああ」
「……うぅん…」
唇をヘの字にひん曲げて、女審神者は肩をすくめた。
「どうしたもんかなぁ」
「悩むか」
「悩むね。皆が内緒にしてる事、訊く訳でしょう?」
「そうなるな」
「それってあれだよね? こう言う天気の日に、決まって皆が起きている事と関係あるんでしょう? よくトイレに行くと、出くわすから知ってる。大抵ここに居るのは、今まで青江だったんだけれど。今日は三日月丸なんだね」
「…」
「み、三日月丸なんだね」
「ああ。新参者だからな。酒の相手でもしてくれといわれたよ」
「そっか。ありがとう」
「ちと眠いがな」
「だよね。三日月丸、寝るの早いから」
「朝も早いぞ?」
「じじぃだから?」
「じじいだからな」
三日月がゆるりと笑う。

「――あのさ」
「なんだ?」
「皆がずっと内緒にしている事は、皆から聞くとして、この間三日月に訊かれた事の意味を知りたいんだけれど」
「ああ。この間のあれか」
「そう。永遠に満ちる事のない三日月を、満月にしようとするのは、おろかなこと。それと、神を名で縛るのも同じことって奴」
「よく憶えているな」
「話をするのは好きだから」
三日月は、酒に口を浸した。
宙を見上げる目はどこまでも穏やかで優しい。
「言葉のままよ」
「?」
「三日月を満たそうとするのはおろかなこと。神を名で縛るのも、おろかなこと。と、言う意味だな」
「ふぅん」
「どうかしたか?」
「嫌、やっぱり三日月丸と間違えた事は気に食わなかったんだな、と思って」
「そう思うか?」
「違うの?」
「まあまあだな」
三日月が笑う。
その笑顔を横目で見た女審神者は、ふふ、と口端を緩めるようにして笑った。

「どうかしたか?」
「嫌、小狐丸が食えない奴だと言っていた意味がよく分かるな、と思って。三日月丸は、相手に思うことを悟らせないね」
「歳の功という奴だ」
「そこはもう適わないからどうしようもないなぁ」
女審神者は猪口を傾ける。
喉を通るうまみに、ほぅ、と熱い息を吐いた。
「欲って」
「ん? なんだ?」
「この間聞いた、小狐丸の持論なんだけれど。人間だって、元は獣。欲に素直な生き方をした方が得な造りになっているはずだって」
「あやつらしいな。造りと来たか」

女審神者は腕を伸ばすと、真っ黒な水と化した池を指差した。
「わたしは、その水面に映った月みたいなものだと思うの」
「水面に映った月、か」
「そうそう。見てるだけなら、とても綺麗。
ましてやそれは本物じゃないから、手を伸ばして触れたら、たちまち掻き消えちゃう訳じゃん?」
「なるほど。小狐丸なら、池に落ちているな」
「ははは。本当だ。きっと落ちてるね」
初めて、三日月の声が抑揚したように思える。
彼の感情の端をようやく掴んだような気持ちになって、
女審神者は少し嬉しくなり、声を弾ませた。

「じゃあ三日月は――違った。三日月丸はね。
何もしないまま、ぼんやりと池に映った月を眺めるのと、手を伸ばして池に落ちるのと、
届きもしない本物の月を掴む算段を立てるのと、どれを選ぶって訊かれたら、どうこたえる?」
「どれも愚かだな、と」
「そうそう。だけれど、どれもそこにあるのは綺麗な月なんだよ」
のんびりと、女審神者は口を開いた。
足を前後に揺らしながら、宙を仰ぐ。

「水面に映る月を、はじめから欲望だと名づけてしまうのはもったいないってわたしは思う。
たどり着く先が愚か一途なことはどうしようもないとしても。
三日月丸が言った、その永遠に満ちる事のない三日月が、確かに満ちないのだとしても、最初から満ちる事のない月だと名づけてしまうのはもったいないんじゃないかな。
と言うのが、この間の問いに関する答えなんだけれど、いかがだろう?」
「…」
「……駄目だった?」
「……三日月丸、と言う名に通じるな」
「本当だねー。嫌、本当に申し訳ないくらい、ただのいい間違いだったんだけれど」
「付喪神とは言え、俺たちは神だからな。やすやすと名を付けるというのは、いささか軽率かと思う。名と言うものは、魂を縛るものだからな」
「うん。そうみたいだね。あのあと、次郎に習ったよ。全然知らなくて、この間一期一振にも愛称を付けてしまったの」
「本来なら、相応の対価を求められても仕方が無いものだからな」
「相応の対価って?」
「たとえば、お主の名…とかな」
三日月の言葉に、女審神者は固く頷いた。
「名前はマズイよね。最初に、政府にキツク言いつけられたもの。絶対に名前を晒してはいけないって」
「ようするに、主がした事がそう捉えられても仕方が無い事だという事は、分かったか?」
「うん。分かった」
「なら――もう、よかろう」

「気をつけます」
「よきかな、よきかな」
ゆっくりと頷く三日月。
その隣で、女審神者は尋ねた。
「でも、だとしたらどうして三日月…丸は、三日月丸と呼ばれたことを受け入れたの?
普通に拒否すればよかっただけなんじゃなくて? ただのいい間違いだったんだし」
「小狐丸にも言われたが、あまりよく考えてなくてな」

ただ、と、
三日月宗近は揺れる酒の水面に目を落とした。

「三日月丸という響きが、気に入ったのだ。単純にな」
「……そうなの?」
「いいじゃないか。三日月なのに丸。驚くほど愚かな名だが――嫌いではない。そう思ったのだよ」
「難しいね」
「だから言ったのだ。まあまあだ、とな」
「なるほど、三日月丸がわかり辛い性質だという訳ではなく」
「それもある。まあ許せ。なんせじじいだ。食えぬ性格になっていくのも仕方ない」
「そういうものか」
「そういうものだ。よろしく頼む」
「こちらこそ」
言って、女審神者はにんまりと笑った。うん、と頷く。

「いい夜だね」
「そうか?」
「話したらすっきりした」
「主の心持が良いのは良いことだな。防御が固くなる」
「そうなんだ。じゃあ、心持ついでにもう一杯貰ってもいい?」
「ああ」
「三日月もどうぞ」
「あい分かった」

酒を酌み交わし、空を仰ぐ。
鈍色の空は変わらずただ広がっているが、先ほどよりも軽く見える。
機嫌よく猪口を傾ける女審神者に、三日月はのんびりと微笑んだ。
「この本丸の刀たちは、主に心をもらっていると言うな」
「うん。よく言うね」
「なるほど確かに。満ちぬることない三日月と決め付けるのは勿体ないかも知れぬ」
「ん?」
「主が満たす俺がどういう俺か――楽しみだと思っただけだよ」
「…」
「…どうした主」
「じじぃと言う割りに、色気が半端じゃないと思って…」
「何、イケメンだからな」
「イケメン憶えたんですか」
「乱に習った。イケテルメンツだ。加えて、どちらかと言うと、すごくイケテルメンツだ」
「…よく憶えてますね。わたしが言ったこと」
聞いてるだけで恥ずかしくなる。
女審神者がまごついていると、三日月は緩やかに微笑んだ。

「俺も、話すのは好きだからな」
「なかなか気が合いますね」
「まあまあだ、な」


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日が良くないなら、結界を強めることを主に提案したらどうだと言った三日月。
怖がりな主はその手の知識から守られていることを知って驚いた彼が、
知識を与えることを再度提案すると、即座に却下。

挙句、青江さん
「なら、君が主の相手をするといいよ。
もっとも、気の持ちようだからね。
せいぜい落ち込ませないでくれよ。酒でも持っていけば上々さ」

だいたいいつも、青江さんの鶴の一声。