「主さん」
「国広」
宵の月を見ながら、猪口を傾けていた女審神者は、
白いシーツを両手に抱えた堀川国広に呼ばれて、首を巡らせた。
堀川の姿を瞳に映した女審神者は、小首を傾げると、瞬く。
「――どうしたの、こんな時間に洗濯物なんて持って」
「この空を見てたら、明日は晴れるだろうし、なんだか洗濯しないともったいないような気持ちになっちゃって。主さんは? 一人酒?」
訊かれて、彼女はう、とくぐもった声を上げる。
雑務に追われて、ようやく風呂に入ったのがつい先ほど。
眼肩腰の疲れが溜まり、横になればすぐにでも寝つけるなと思いつつ、
あっと言う間に明日が来るのは、忙しい日常に追われて生きているだけのようで、不意にもったいなく思う気持ちに駆られてしまった。
人はこれを、魔がさすとも言う。
性懲りもなく持ち出した日本酒は、女審神者の罪悪感の塊で、
彼女は夜が更けてまで働いている刀を前に、居心地悪そうに尻をむずむずと動かした。

「国広がまだ働いてるとは知らず…申し訳ない…」

ごにょごにょと尻すぼみするように謝ると、
堀川は虚を突かれたような顔をして、笑う。
「謝らないで。ようやく終わって、一呼吸ついてるんでしょう? ぼくこそ、気を使わせてしまって。ごめんね、主さん」
「国広は謝る必要ないよ」
「それを言うなら主さんも、ね?」
にっこりと花が咲くような笑みを向けられて、女審神者は苦笑を零した。
猪口を置くと、膝に手を当てて立ち上がる。

「手伝うよ」
「少しだし、すぐに終わるから気にしないで」
「それでも手伝うの」
堀川の手に重ねられたシーツを半分持つ。
庭先にある物干し竿へゆっくりと足を向けると、
女審神者の隣に並んで歩き出した堀川国広は、ふと、思いついたような声を上げた。

「主さんは――」
「ん?」
「主さんは、ぼくの事を国広って呼ぶよね」
「うん。それがどうしたの?」
「嫌…。兄弟が先に顕現していたのに、どうしてかなって」
「ああ。山姥切ね」


女審神者はゆるりと笑う。
「山姥切はさ、顕現されてしばらくは無茶な戦いをして、怪我ばかり負って帰って来るのを繰り返しててね。
本丸に帰城するたび心配したり悲しくなったり怒ったりしてたら――すっかりタイミングを逃しちゃったの」
「そうだったんだ」
「そうこうしてたら国広が顕現して、気が付いたら国広を国広って呼んでたって感じかな。
まあほら、山姥切もああいう性格だから、先に顕現した自分を差し置いて、とか、俺を国広と呼んでくれ、とかは言わないでしょう」

からころと声をあげて女審神者が笑うと、
堀川も身体を揺らして笑った。

「確かに。そんな事を言う兄弟は想像がつかないや」

草履に履き替えて、庭に降りる。
夜露を帯びた草を踏むと、足元が少し濡れた。
女審神者が堀川に「寒くない?」と聞くと、彼は穏やかに頷く。
「うん。主さんは?」
「わたしは大丈夫。こう見えて、酔っぱらってるから」
「お酒が抜ける時は冷えるよ。寒くなったら温かくしないとね」
「了解――ああ、あとね」
女審神者は堀川から、宙に浮かぶ月に視線を持ち上げると、言葉を繋げた。


「国広は、国広って呼ぶのが一番カッコいいと思うんだよね。わたし的に。
山姥切とか、山伏とかって、それだけでなんかカッコいいじゃん?

加えて、初めて顕現した国広を見た時にね。
すごく可愛い子だなあ、って思ったの。
華奢だし、顔立ちも割と幼いし。物腰もやわらかいし。
一見したら、わたしよりも女の子みたいで。 そんな子を国広、って呼ぶんだよ? なんか、カッコいいなと思ったんだ。私的、ベスト・オブ・国広って奴やつかな」
「べすとぉぶ?」
「国広と呼ぶのが一番似合う刀って意味」
自分事でもないのに、胸を張ってふんぞり返った女審神者を見て、国広は瞳を細めた。


「そっか」
「そうなのよ」

「でも、華奢かぁ」

言って、瞳を伏せた堀川は、少し不満気にも伺える。
なかなか見ない堀川の姿に、傍らの女審神者はにんまりと笑った。
「不服?」
「まあ、兼さんに比べたら、かな」
「兼定は、細身に見えて、案外体格しっかりしてるもんね」
「うん。カッコよくて強い刀だからね、兼さんは」
相槌を打つ堀川の、花がほころぶような笑み。
ふうわりと笑った彼に、女審神者も釣られて口端を緩めた。

「国広は、兼定が好きだね」
「もちろん。相棒兼、助手だからね」
「お似合いだもんなあ」
「ありがとう」

兼定の話をするときの堀川は、どこまでも優しい。
大切に想っているのが、言葉だけじゃなくても伝わって来て、女審神者は思わず「いいなあ」と呟いた。
「いいって…ぼくと兼さん?」
「うん。なんか、相棒とか憧れる」
「欲しいの? 相棒」
「まあ、欲しいと思って出来るものじゃあないもんねぇ。国広と兼定見てたら、特に思うけど」
「主さんの相棒、かぁ」
ぼんやりと言いながら、堀川は足を止めた。
談笑しているうちに物干し竿へと辿りついていて、女審神者も遅れて足を止める。


堀川は女審神者に、持っていたシーツの束を預けると、上から一枚取って、勢いよく広げた。
パンッと景気の良い音が鳴る。
伸ばしたシーツを物干し竿にかけると、次の一枚に手を伸ばした。手際の良さから瞬く間に片付いていくシーツを見ながら、女審神者は思う。

どうやら本当に女審神者の手がなくとも、すぐに終わるようだった。
せめてシーツ置きに扮して身動きを取らないようにした女審神者は、
ふと、最後の一枚に伸ばしかけた手を止めて、国広がこちらを見ている事に気付いた。視線が合う。

「どうしたの? 国広?」
「うぅん。主さんの相棒にはなれないなあ、と思ってね」
「国広は兼定の相棒だもんね」
「うん。――でも」

堀川はそう言うと、先ほどとは違う手つきで、ふわりとシーツを広げた。
女審神者がきょとんと瞬く間に、頭にシーツが被せられる。

しっとりと濡れたシーツに包まれた女審神者。
彼女はどういう状況か分からないまま一呼吸置くと、神妙な声を上げた。

「これはもしかして――山姥切国広?」
真似の一つでもしてみせよう。
構えた女審神者に、堀川はやんわりと首を横に振る。
「違うよ、主さん」

女審神者よりも少し背が低い彼は、圧倒的に顔つきも可愛らしく、物腰も穏やかで。一見すると、女の子に見紛う程可愛らしい。
優しい笑みは、見るものの心を穏やかにする。
そんな笑みがずい、っと思ったよりも近くに来て、女審神者の心臓は静かに跳ねた。

「えっと、国広?」
堀川の淡い青の瞳に、挙動不審な女審神者が揺れている。
「ぼくは主さんの相棒にはなれないけれど」
そう前置きをした堀川は、ゆっくりと微笑んだ。


「王子様にはなれるからね。
知っておいて。

主さん兼――可愛い可愛い、お姫様?」



*+*+*+*+*+*
「堀川国広は、男の子である」
「そうだね。分かった? 主さん」
「さっきのは失言でした、ごめんなさい」

堀川国広は、怒らせると怖いのである。

「この間さー! 可愛いって言葉が国広を怒らせちゃったみたいでさー!
可愛い可愛いお姫様とか恥ずかしい嫌味を受けたんだけれど! あれって絶対あえての言葉選びだよね!!

兼定、国広怒らせたら怖いんだぜって前から言ってたでしょ!? 静かに怒るんだね!
初めて理解したんだけれどッ」

「へぇ」

堀川国広のそれは、たぶん嫌味ではなかった。

「――って事は、内緒にしとくか」
「なんか言った? 兼定」
「抜け駆けはあとが怖いってな」
「一人でなんの話してんの」
「一人で言うんじゃねぇよ。二人の話だっての。嫌、三人か…?」
「兼さーん」
「やっべ! 今俺が言った事、一文字たりとも国広に言うんじゃねぇぞ!」
「意味分かんないから、言わないよ」
「ぜってぇだからな! ぜってぇだぞ!」
「何それ前振り?」
「ちげぇっての! アンタ、ホンットに国広が怖ぇのしらねぇな!」
「知ってしまったって話だったのでは?」


違います。