「へし切と呼ばず、長谷部と呼んで下さい」

へし切と言う名が嫌いな事は、
顕現されてすぐにも、彼の言葉の端々から察する事が出来た。

なんでも、膳棚の下に隠れた茶坊主を圧し切った事からついた名だと言う。
彼はこの天下人に最も近いといわれた男の逸話を、
酒の肴とは思えないほど、実に皮肉めいて語ってくれた事もあった。

「――主?」
「……ごめん、長谷部」
驚いた顔で女審神者を見下ろす長谷部に、
情けなさで消え入りそうな声を上げる女審神者。
恥ずかしさに真っ赤になった顔を両手で覆い隠した女審神者が「見ないで」とか細く言うと、長谷部は面を食らったような顔のまま、落とすように呟いた。
「見ないで、といわれましても」
「だよね」
「一体、どうしてそのような状況に?」
「それについては、山より低く海より浅い事情があるの」
「そう言いますと」
「……ハマッて動けない」
「簡潔ですね」
「加えて、裾が引っかかって取れない」
着替えを置く棚の下に女審神者。
すっぽりとハマっている彼女が身じろぎしても、たいして動くことも出来ない。
しゃがみこんだ長谷部はその様子を見て、「なるほど」と頷いた。ややあって、微かに笑う。

「そのような格好をなさるからでは?」
「返す言葉もない」
「まあ、作った俺が言うのもなんな話なのですが」
「不器用でごめんなさい」

年末から企画されていた新年会。
それに向けて、アッと驚く企画を用意しようぜと提案してきたのは、
我が本丸が誇るびっくり箱、その名も鶴丸で。
彼の提案に乗って、仮装の衣装を製作し始めたのが十一月頭。
不器用なことも計算に入れて、随分前に取り掛かかったのだが、
目標としていた年の瀬まで終わる気配を全く見せず、
結局長谷部に泣き付いて作って貰った衣装を披露したのが、三十分前の事である。

「上々な評判でしたね」
「正直、あんなにうけるとは思わなかったの」
「加州が、陸奥守にカメラを借りて居なかったことを歯軋りする勢いで後悔していましたよ」
「陸奥守がカメラを取りに走る前に、着替えに逃げたからね」
「なかなか戻ってこられませんので、心配しました」
「まさかハマッてるとは思わなかったでしょ?」
「ええ」
女審神者は肩を落とした。
「前髪を留めてたピンが奥に落ちてね。手を伸ばしたけれど届かないから、入り込んだら釘らしきものに裾が引っかかっちゃって。
こんなときだけ器用にハマッて動けなくなるし…見て、ほら、手が全然届かないの」
「袖が長いですからね」
「多分引っかかっているの腰の辺りだと思うんだけどな」
「呼び戻せませんか」
「時間は呼び戻せないね」

遠征呼び戻し鶴!
と、鶴丸と左右対称に鮮やかに両手を広げて背筋を弓なりにした、つい先ほどが思い返される。
女審神者はため息をつくと、薄く笑った。

「長谷部が来てくれてよかった。心細かったの。風呂場だし、鍵掛けちゃってたし」
「着替えられるにしては、遅いなと思いまして」
いつまで経っても戻って来ない主を怪訝に思い、
酒の席を立って風呂場へ来た長谷部は、鍵が閉まっている事を確認した。
すると中から「今そこ開けようとしたの誰!?」と言う女審神者の声が聞こえて来、
長谷部です、と答える間もなく、食いつくように言葉が続いた。

 ――助けて!!

「何事かと思いました」
「長谷部だって知ってたら、もう少しライトに助けを求めたんだけれどね」

主何事ですかとドアを叩いたことで、探しに来たのが長谷部だと気が付いた女審神者は、
慌てて「たいした事じゃないから、合鍵持って来て」と声を上げた。
さもなくば今ごろ、風呂場の扉は蹴破られていたに違いない。
そうしてものの見事に棚の下にハマッている遠征呼び戻し鶴を見つけて、今現在にいたるのだが、ここに来て長谷部は首を傾げた。

「主。服を破る覚悟で引っ張ればよいのでは?」
「えー、やだよ」
「もう着ないでしょう」
「着なくてもヤダ」
「何故です」
「長谷部が夜なべして縫ってくれたものだから」
「たいした事じゃありませんよ」
「たいした事だよ。こんな、仮装ショーで着るような服をせっせと縫って作ってくれたんだもの」
「元々鶴丸に頼まれていたものを作っておりましたので、二度目ともなれば、たやすいものです」
「長谷部のそのハイスペックさには頭が上がらないね」
「はいすぺ、く? ですか?」
「あー…うぅん、万能さ、みたいな」
「万能、ですか」

長谷部の顔が心なしか明るくなる。
酔っているときの長谷部は、割りと感情が豊かになるので分かりやすい。
「どちらかと言うと長谷部は、何でも出来すぎるんだよ」
「そうでしょうか」
「うん。出陣、近侍、家事、事務仕事、傍から見てると、一体いつ息してるんだろうと思うよ」
「息はいつもしてますよ」
「ですよね」
女審神者はこくりと頷く。

どちらかと言うと、いつもは斜に構えている長谷部がこんなに笑うのも珍しい。
穏やかな長谷部の笑顔に、自然と心が和む。
否、こんな窮屈でなかったなら、和んでいたことだろう。
女審神者は、ぽつりと呟いた。

「長谷部。首が痛い」
「ですから、破けても構いません。引っ張ってみたらどうです?」
「絶対いや。これ主命」

主命といわれれば二の句が継げなくなる長谷部。
ぐ、と言葉に詰まった長谷部とは対照的に、女審神者は「あ」と、思いついたような声を上げた。

「何か案でも?」
「いや、長谷部には頼めないんだけれど。誰か呼んで来て、この棚切ってもらうって言うのはどう?」
「…何故俺には頼めないんです?」
「だって、長谷部斬りたくないでしょ? 棚」
「――膳棚ではないといえ、あまり気は乗りませんね」
「ほらー、じゃあ、光忠辺りにでもひとつ」
「…」
「長谷部?」
「………それしか方法がないなら、俺が切ります。主命とあらば」
「いやいや、別にそこは主命じゃなくていいよ。嫌なことまでさせたくないし」
「なぜ主命ではないのです?」

逆に聞かれた。
女審神者は長谷部を見据える。
いささか気分を害したようにも見える彼は、眉間に皺を寄せ、唇を曲げていた。
そんな長谷部に、女審神者はゆっくりと笑う。

「一度長谷部に言いたかったんだけどさ」
「……なんですか」
「長谷部はもう、誰かに振り下ろされるがままに切り落とす刀じゃないんだから。
斬るものも、したいことも、選んでいいんだよ?」
長谷部は何も言わない。
女審神者は身動き取れないなりに手を伸ばすと、長谷部の膝に手を乗せた。ぽんぽんと二回優しく上下させる。
「長谷部を見てて、ずっと引っかかってた事があるの。
長谷部の中で、主がわたしなのかな。わたしが主なのかな?」
「どういう意味です?」
「長谷部は、数多いるへし切長谷部の付喪神の一振りじゃないよ。
今わたしの目の前に居るのが、へし切長谷部なの。しかもそれは刀じゃない。
身体があって、口もあって、息もする」
女審神者は一呼吸置いて、言葉を続けた。
「そんな長谷部が仕えたいと思ってくれたら…わたしはとても、嬉しいなと思う」
「…」
「わたしに仕えているのが長谷部だというのと、少し意味が違うでしょう?」
「……はい」
「長谷部から見た時に、まず長谷部がここに居て、わたしがそこに居て、その先に色々あるの。
この順番、間違いやすくて、わたしも時折間違えちゃう事があるんだけれどね。でも、間違えちゃ駄目なんだよ。きっと。
だからこれから、主命は止めよう。わたしからはお願い。長谷部からは助けてもらう。
長谷部がしたいこともしたくないことも、主命なんて言葉で片付ける必要はないんだからさ」
言葉を締めくくる前に、女審神者はのんびりと続ける。

「長谷部のその生真面目すぎる所が、綺麗な所でもあるんだろうけれどね」

すると彼は、仏頂面のまま口を開いた。
「…綺麗は」
「ん?」
「綺麗という言葉はあまり好きではありません。俺は刀で、美術品ではありませんから」
「そっか」
女審神者がにんまりと笑う。
長谷部は逸らすように目線を下へ走らせた。
心もとなくさまよう視線が、床を滑ったあと、女審神者の首筋に戻る。

「主、首は」
「めっちゃ痛い」
「何故それを言わないんです!」
「だって今しか言えそうにないことを言ってたから…! そういう事ってあるよね!?」
「俺になど、いつでも話せるでしょう」
「こう言うのはタイミングが大事だからね。ちなみに、ここから抜け出る方法も途中で思いついたの」
「何故それを先に言わないんです…」
「だって今しか言えそうにないことを言ってた――」
「それはいいので、先に進んでください」
「そういう事ってあるよねって、もう一度言いたかったのに…」
「そこももう良いです。それで、どうするんです?」
「抜ける。長谷部、ちょっと手を伸ばしてこの袖の裾を持ってて」
「こうですか?」
「そう」
女審神者は袖から腕を抜くと、反対側の袖の裾を握ってもらった。
そうして両方の袖から腕を引き抜くと、首周りから頭を中に仕舞う。
服の中がもぞもぞと動き、
じょじょに足が伸びて来て、長谷部が慌てて退くと、時間をかけて服の中から出て来た女審神者は身を起こした。まず首を押さえる。

「下に服着てて良かった事よりも、首が痛い」
「…主…」
「長谷部、ただいま」
「おかえりなさいませ」

女審神者をしばらく見つめていた長谷部は、
ゆっくりと緩慢な動作で口元に手を当てた。
そのまま顔を逸らす。
「ふ」

「笑った…だと!? この大仕事を前にしてなんと言う無礼な…っ」
憤る女審神者に、いよいよ堪えきれなくなったらしい長谷部がついには腹を抱えて笑い出した。なかなか見ることのない爆笑に、女審神者は急に気恥ずかしくなっていく。
首から頭の天辺まで赤くする勢いで朱に染まった彼女に、長谷部は目元の涙を拭いながら口を開いた。

「俺、要りませんでしたね」
「そ、そんなことないよ。長谷部の応援があったからこそ、抜け出れたわけだし」
「抜け出る…!」
「もういいって!」
「すいません」
「いや、長谷部が笑うのは良いことなんだけれどさ」
ごにょごにょと言葉を濁す審神者。
そんな彼女に、長谷部は言葉を繋げた。

「俺は――貴方の、そういう人となりが好きですよ」
「へ?」
「感情など、所詮感情なのに。それを感情で済まさず、いつも頭を悩ませるでしょう?」
「…」
「そこに答えなどないのに」
「…長谷部、それ、褒めてる?」
「褒めてますよ。少なくとも、感情に任せて茶坊主を叩ききる男に仕えていた俺が見る限り、貴方のそれは美徳です」
「そこの領域広いなあ。たぶん、大多数の審神者入るよ」
「他の審神者など知りませんよ」

痛くて首を戻せない女審神者。
目線を合わせようとすると、必然的に小首を傾げることになる彼の、灰色の髪がさらさらと流れて、
穏やかに瞳を細めた長谷部は、唇に綺麗な弧を描いた。

「貴方に仕えているへし切長谷部は、俺だけですからね。俺が知っていれば済む話です」


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「長谷部の美人さが半端じゃない」
「…止めて下さい」
「いやいや、これは止められないよ!」
「服、縫い直しますから貸して下さい」
「ありがとう! 長谷部!!!」