「主?」
控え目に叩いた襖の淵。
しばらく経っても返事がない事に、小首を傾げながら光忠は、静かに襖を開いた。
「そろそろ休憩にしてお茶でも……って、寝てるのかい?」

机に突っ伏した女審神者は、光忠の呼びかけにうんともすんとも答えない。
音を立てないように入室した彼は、畳を滑るようにして足を進めると、身体を曲げて覗き見た。
「これは…」
机の上に散らばっているのは、政府へ出す書類であろう。
その上に頬を載せて、よだれを垂らしている女審神者は、お世辞にも可愛らしい寝顔とは言えない。
すぴー、と、間抜けな寝息を立てる彼女に光忠は思わず笑った。

「今日が近侍で当たり、かな」

こんなにも無防備な寝顔は、なかなか見れるものじゃない。
加州あたりに話したら、歯ぎしりして羨ましがられそうだ。

しばらく寝顔を見ていた光忠は、ちょっとしたやましい気持ちがむくりと顔を出して、苦笑する。
「主ー?」
小さな声で呼んでみても、返事はない。

「主、起きないと…知らないよ?」

それでも持前の気弱さで、蚊が飛ぶほどの声しか出さない光忠の声に、
爆睡しているように見える主が目を覚ますはずもなく。

返事が返ってこないのをいいことに、光忠はそろりと手を伸ばした。

髪を撫ぜる。
一筋取ると、さらりと手に巻きついた髪に、どうしようもなく苦しくなった。

人の身、と言うのは、不思議なものである。
斬られてもないのに痛い。
病でもないのに苦しい。
この女審神者の元に顕現してからと言うもの、光忠は幾度となくその焦燥に胸を囚われて来た。

「やわらかい」

光忠が寄せる想いが好意と名がつくものと知ってから、
女審神者はガードが固く、何を取ってもツンケンと距離を取りたがる。
審神者だから。
刀だから。
猛進する勢いで、恋愛に対して罪悪感を抱いている彼女は、光忠の感情に、やたらと理由を付けたがる。
そうして、結局は好意に戻ってしまう光忠の感情に、女審神者はかえって墓穴を掘っている事に気づいていない。


何度も好きを重ねて――この感情は、いったいどこへ行きつくのであろうか。
刀でありながら、人と変わらぬ身を得、そうして人に恋した先。
人を傷つける事しか知らなかった刀が、愛おしいと思うなど。

つらつらと考えながら、審神者の髪を手遊んでいると、不意に彼女が身じろぎした。
驚いて手を放す間もなく、彼女がうっすらと瞳を開ける。

寝ぼけ眼の瞳は光忠をぼんやりと見つめて、
半開きの口が、
「みつただ?」
と、彼の名を呼んだ。


「主?」
「髪…なでるの、きもちぃから、誰かと思った」


いつもなら、弾ける勢いで距離を取る彼女が、ほわほわと瞳を細めて笑っている。
どうやら寝とぼけているらしい。
彼女は瞳を伏せると、口角に笑みを浮かべた。


「光忠の手は、優しいね」


そうして、吸い込まれるように再び寝息を立て始める。
ひとり取り残された光忠は――頬を朱に染めたまま、動きを止めていた。

人を傷つける事しか知らなかった刀に、優しいなどと。

「つくづく、酔狂だね。主は」


行き尽く先が、
愛でも恋でも。


その先を見てみたいと思わせる。


「いつもありがとう、主」


+*+*

「あーるーじぃ。お茶淹れたよー」
お盆を置いて、声を掛ける。
いつまで待っても返事が返って来ないことに、清光は襖をわずかに開くと、中を覗き見た。
「主? 寝てるの?」

女審神者は、机に伏したまま身動き一つとらない。
襖を開けて中に入ると、ぐぅ、と言う低い寝息が聞こえて来て、清光は肩を持ち上げた。
「あーあ。寝ちゃってる」

政府に出す書類の提出期限が明日だった。
昨夜騒ぎ出した彼女は、睡眠時間を大幅に削って書類と戦闘を始めた。
が、一晩経っても終わる気配はまったく無く。
今日は一日缶詰だからと宣言して、部屋に籠ったはずなのに。
寝てしまったら意味がない。


清光は歩み寄ると、彼女の頬の下敷きになっている書類を覗き込んだ。
「…終わってンのかなぁ? これ」
長谷部辺りが見れば、検討も付きそうだが。
基本的に事務作業にかかわっていない清光が見ても、さっぱり分からない。

「起こした方がいいよなあ」

誰にと言うことなく呟いて、清光は女審神者を見た。
「気持ちよさそーに寝ちゃって」
不意に、好奇心が首をもたげて、
清光は人差し指を彼女の頬に寄せた。
机に圧迫されて突き出た頬の真ん中をつつくと、ふにふにと音がするように柔らかい。

「薬研に言うと怒られるだろうけど、俺は結構、丸っこい主も好きなんだよなあ。なんか、ころころしてて可愛いし」

初期刀として顕現された時。
初めて刀剣男子を見た女審神者が目をまるまるさせて驚いていた事は、記憶に新しい。
清光が来て、鳴狐が来て、
本丸にまだ数振りしかいなかった頃の審神者は、鬼気迫る勢いで毎日働いていた。
確かにその時は細くなったけれど、
清光としては今のように、少しまるっこくても、朗らかに笑って座って見守っていてくれる方が嬉しい。


「……まあ、薬研のあれは、構いたくてしょうがないんだろうけど」


構って欲しい清光と、構いたい薬研。
女審神者を取り巻く刀剣男子たちは、大概そのどちらかに分類され、
書類整理の合間を縫って、彼女はあれやこれやと顔を出したり、話をしたりと忙しい。

二人でいる時間も、大分少なくなった。

最近鳴狐とのじゃんけんタイムも、どちらともなく嫌に真剣なのは、
顕現する刀が増えるのに比例しているような気がする。


「ふぅ」
清光は溜息をひとつこぼすと、机に顎を載せた。
寝息がかかるほど近くによると、大きなネコ目を細めて見つめる。
「俺だけの主ってわけにはいかないもんね」
そうなればいいのに、と思っている自分がいないわけでもない。
変に聞き分けよく、しょうがないと思っている自分もいる。

そんな清光の悶々とした胸の内を知る由もない主は、
いつも日向のように笑っているけれど。

たまには。
そんな彼女を独り占めしたって悪い事は起きないはずだ。

清光は、赤く彩られた指先で、そっと彼女の鼻先をつついた。


「いつもお疲れ様、主」

*+*+*+*+*

「大将……とぉ…またこりゃ、随分な寝方だな」
襖を開けるなり、薬研は苦笑を零した。

今日はいい天気だから、絶好のお昼寝日和だね。
今朝方縁側で、茶を啜りながら言っていた女審神者だったが、ものの見事に有言実行した様子である。

おそらく政府に提出する書類でもまとめていたのだろう。
机の上に無造作に散らばった書類と、ペン。
机に突っ伏してでも寝ていたら、まだ可愛げもあると言うものだが、
彼女はご丁寧に箪笥から枕と掛布団を持ち出して、ばっちり昼寝する気満々だ。
ぐぅ、と寝息を立てた女審神者は、寝相が悪い。ちょっと芋ジャージが上にあがって、腹が出ていた。

薬研はおもむろに近づくと、そっと掛布団を持ち上げた。腹を隠してやる。

「大将、色気ねぇなぁ…」

言うと絶対怒られる。
寝ているからこそ、ぽつりと零れ出た本音に、薬研は自嘲した。
「ま、これで惚れてる俺っちが言う事でもないか」

本丸の主である女審神者は、色気も飾り気もへったくれもない。
刀剣男子たちの方がよほど整った顔立ちをしていると自負するだけあって、特別華やかな見目でもないと思う。
だか、この本丸に居を構える刀剣男子たちは、彼女を慕ってしょうがない。

単純に気に入っている者。
人のように、好意を寄せている者。
それぞれだが、みな一様に、彼女をとても大切に思っているわけである。

さて、薬研と言えば、そんな刀剣男子の中でも後者――ようするに、彼女に好意を持つ刀の一振りであって、
今この状況を考えても、なぜだか試されている気がしてならない。

何を、と、言われると答えづらいのだが。

加州清光に燭台切。鳴狐に、おそらく無自覚であろうが、長谷部。
それが敬意なのか好意なのか怪しいが、宗三左文字。
薬研が気づいていないだけで、他にいても不思議じゃないし、

そうなってくると、次に顕現されるであろう刀も、当然可能性がないかと言えば十二分にあると思う。


「……いち兄」

今だ顕現しない兄。
彼の名前を呼ぶときは、どうしても逢いたくて、寂しい気持ちの時。
そうして、この女審神者を前にして兄を思う時は、薬研は複雑な胸中になる。

女審神者は、薬研をはじめとする粟田口の短刀たちの想いを組んで、
今現在、一期一振を顕現しようと必死である。
毎日鍛刀をし、その命を短刀に一任するのであるが、なかなか願いは届かず、彼は未だに姿を見せない。

もし、一期一振が顕現されたなら、薬研はとても嬉しいだろう。
嬉しくてたまらないに違いない。

だけれど、もしその彼が――この、無防備で温かい彼女に想いを見つけてしまったら――薬研は、勝てる気がしない。

今のところ、みな平和協定の上で成り立っているが、
これに一期一振が加入したら、うっかり状態がひっくり返って、
もしかしたら彼女が、誰かに好意を寄せてしまう日が来るかもしれない。
それくらいの威力が一期一振にはある。

兄が好き過ぎる故か。それだけ兄が出来過ぎるのか。

複雑な想いに、眉間に皺を寄せていると、
女審神者はむにゃむにゃと口を動かした。
「お帰りなさい。お疲れさま」

寝言だ。
尻すぼみになった彼女は、すぐさま寝息を立て始める。
そうして、ごろんと寝返りを打った。

薬研がせっかく隠した腹がちらりとのぞく。

そんな仕草に薬研は吹き出すようにして笑った。


「…不用心だなあ、大将は」

戦を知らない彼女。
刀を握ったこともない彼女。

そんな女の元に顕現した時、正直、薬研は不安だった。

使う人間が居てこその刀。持ち主が下手では、何一つ刀の良さは生きない。

だけれど彼女は、戦の勉強も熱心で、
さらには本丸が家である事にもこだわりを見せた。
食事ひとつ。生活ひとつ。ここは家で家族なのだと、彼女が何度も言い聞かせて来て今がある。

そんな彼女の温かさにほだされて、
不用心で無邪気な彼女の人間らしさがあって、この本丸は家になった。刀剣男子は家族になった。
刀の付喪神であるはずの彼らが、まるで人のように誰かを愛すなどと、
人間臭い彼女に染めらなければあり得なかった事だ。


薬研はしゃがみこむと、彼女の寝顔を覗き見た。
滑るように上から下までを見て、掛布団を掛けなおす。

「なあ、大将」

ぽつりとつぶやいて、薬研は瞳を揺らした。

「これからも、よろしくな」


たとえ、これからどんどん刀が顕現して、
彼女に想いを寄せる刀が一振り二振り増えたとしても。
その中に、一期一振がいたとしても。

薬研の想いが変わる事は絶対にない。

ずっと、ここで、この本丸で。
人間に染められたまま、刀として生きていくのだから。


「隙ばかり見せてると、いつか後悔させてやるかな」


今はもう少し、このままで。

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2016.11-2017.01 拍手頂きありがとうございました。