「何をしてるんだい? 主」
「ああ、青江」

ひょぃと部屋を覗き込んだ青江。
いつになく真剣な様子で机に向き合っていた女審神者は顔を上げると、目があった青江ににんまりと微笑んだ。
「絵を描いてるの」
「絵を? へぇ、君にそんな高尚な趣味があったとはね」
感心するような息を吐いた彼に、女審神者は恥ずかしそうに後ろ頭をかく。

「高尚と言って貰えるような絵じゃないんだよ。自分でも嫌になるくらい下手だしね」

女審神者は小さな箱から色のついた棒を取り出し、
もう片方の手にカッターを握ると、細かく削り始めた。
「それは?」
「パステルって言うの」
「ぱすてる、か」
「そうそう。こうやって削っていってね。ほら、そしたら粉が出来るでしょう? その粉を、こうやって指の腹とか、布とか、ハケで伸ばしながら絵を描いていくんだけれど…」
喋りながら、女審神者は必死に手を動かしている。

眉間に縦皺を刻み、唇は一文字。緊張に頬を赤く染めながら、丁寧に指先を紙に滑らせていく。
遠目に観察している青江が、愉快気に目を細めていると、 あまり時を掛けずに、ううん、と唸った女審神者は小さく肩をすくめた。
「やっぱりダメだ。納得いかないー」
「見ても構わないかい?」
「全然いいよ。すっごく下手だけれどね」

許しを得て部屋に入ると、青江は机の傍らに腰かけた。
女審神者が熱く見下ろしている紙を、覗き込む。
「こういう具合か。そっちは?」
「ああ、こっちはね、他人が描いた絵なの。パステルでこういう具合の絵が描けるって言う参考に、横に並べてるんだけれど…」
女審神者の声が尻すぼみになる。
皆まで言わずともおおよその予想はつくもので、青江は唇に手を添えると、ふ、と声を上げて笑った。
「少なくとも、横には置かない方が良さそうだね」
「だよねぇ」
空気が抜けたように、女審神者は机に倒れ込んだ。

「昔は絵とか、よく描いてたんだけれどなあ。とは言っても、こういう絵じゃなくて、ほら、漫画みたいな絵とか」
「今はあまり見ないね」
「うん、もう書かなくなって……軽く十年は経つよね」
女審神者はぽつりと零すように言うと、
自分が言った言葉の重みに気付いたように身体を震わせた。
「十年って」
「十年だろう? 大げさだね、君は」
「そりゃぁ刀の君たちにしてみれば、思い返した十年なんてほんのひと時なんでしょうけれどもよ。人の十年っちゃあ、長いよ? 色々あるよ? 色々…」
言いながら、女審神者の瞳がすぅ、と細くなっていく。
「思い出したくない事、ばかりが」
「ばかりかい」
「ばかりだね。黒歴史だよ。黒歴史。忘れてる振りをしてるに限る事ばっかり」
振り払うように頭を振って、女審神者は宙を仰いだ。


「時折さぁ、こう…もう一度絵を描いてみよう、って想いに駆られる時がある訳ですよ。
そうやって筆を執ってみるのだけれど、いざ描いてみると、思っていたのと違うと言うか。昔はもうちょっと上手かったよなあ、とか思っちゃって」
「君お得意の思考の輪に入り込む訳だ」
「そうそう。
こう、ぐああ、と焦燥みたいなものが襲って来たりするの。
日常だけで生きてていいのか? 日常生活以外の何かで、今のわたしを表現する術を持たぬまま、歳を取って行っていいのか? と」
「難儀だねぇ」

のんびりとした青江の相槌に、女審神者は俯せたまま少し笑う。
「難儀だよねぇ」

ややあって、女審神者は気だるげに目線を持ち上げると、机の上に置かれた色鮮やかな絵を見た。


「皆さ、人生色々ある訳じゃん? 十人十色の幸せとか苦しみとか成功とか挫折とか。
そう言うのの中で、変わらず絵を描き続けると……こういう絵が描けるんだなあって思って。
好きで描きつづけている人がいて、
好きだけれど飽き性故に途中で止めたわたしがいて、
そうやって考えた時に、なんだかすごく損した気持ちになって、もう一度絵を描いてみようと思い筆を執り――」

「そうして最初に戻る訳だ。
すごいね、君の思考には本当に出口が見当たらない」
「青江、たぶんそれ褒めてない」
「ぼくもそう思うよ」

鈴が鳴るように青江は笑う。

「でもまあ、君が主って言う欲目はあるかもしれないけれど。
その上手な絵に見劣りするのは当然として、ぼくから見れば、君の絵もなかなかなものだと思うよ」
「ありがとー、青江は本当に優しいね。そうだ、青江も描いてみる?」

女審神者が尋ねると、青江は虚を突かれたように瞬いた。
ゆるりと首を横に振る。

「止めておこうかな」
「えー」
「ぼくは斬ることしか知らない刀だからね。刀が筆を執るなんて、随分と変な言葉になるじゃないか」
「歌仙に言ったら、顔顰められるよ、それ」
「確かに。そうやって考えると、彼は人の形を満喫しているね」
「本当だねぇ」
歌を詠み、字を嗜む。絵を描く所も時折見る。花を生けるのも好きだ。料理をするのも率先する歌仙が同時に脳裏に浮かび、
ぼんやりと思い返している女審神者の傍らで、青江は小さく笑った。
「これが君の言う、損だね」
「そうそう、ならない?」
「そう言われたら、そうなのかもしれないな、くらいには」
「でしょー?」


女審神者が声を上げて笑う。


青江はそんな彼女を見る瞳に弧を描くと、瞳を伏せた。
「今からでも遅くないんじゃないかい?」
「何が?」
「もちろん。絵を描く事だよ」
「えー。だって、今から描くんだよ? それまで描きつづけて来た人に追い付ける絵なんて、一体いつになったら描けるのやら」
「君の描きたい絵と言うのは、上手な絵ではないんだろう? 自分を表現する絵を描くのに、上手いや下手は二の次じゃないか」
「だってぇ、見たらギャッてなるんだよー。情けなくて目が潰れるんだよぉ。せめて見れる絵で描きたい」
「――そう言ってたら、十年後」
「同じ話を青江としている、と」
「そう言う事だね」
「なるほど。輪に戻る訳ですな」
女審神者が真剣な顔で頷く。
青江は首を少し横に傾ぐと、穏やかに微笑んだ。

「案ずるより産むがやすし、だね」
「青江が言うと、途端にありがたい言葉になる不思議」
「悩むのは君の趣味だからね。それを悪いと言うつもりもないけれど」
一端言葉を区切って、青江は女審神者を見据えた。
左目が悪戯に笑って細くなる。

「君の言う、随分前でまだ上手かった頃の君の絵と、
今こうして月日を重ねた君の、少し下手になった絵と、

どちらが見たいかと聞かれたら、
ぼくは今の君の絵を見たいと答えるね。

君が上手く表現しようとして必死な、その癖少し歪んだ――その海の絵を見ている方がよほど美しく感じると思うよ」


青江の言葉に、女審神者は目を見開いた。
サッと朱に染まるように耳たぶまで赤くすると、両手で顔を覆う。

「青江」
「なんだい?」
「これ、空」
「…」
「……空だったのかい?」
「うん」
「これは驚いたね」
「ごめん」

消え入りそうな声で女審神者が言うと、
青江は逃げるように視線を逸らせた。
ふ、と声を漏らして笑うと、身体を小刻みに揺らす青江に、女審神者は唸る。

「いっそ清々しく笑って!!」
「君の空は随分と青いね」
「雨の日だったの!」
「雨が降ってるのかい」
「ほらー! やっぱり下手じゃぁん!」
「まあ、いいじゃないか。空でも海でも」

宥めるような声音の青江に、女審神者は下唇を突き出したまま、拗ねた声をあげた。

「いいけどさー」

青江はしばしの間再び絵に視線を落とし、女審神者に戻す。

「主。白はあるかい?」
「あるよ?」
「このまま描いてもだいじょうぶなものかな?」
「パステルのままって事? 大丈夫だよ」
「なら――」

青江が白を走らせる。
その様子を見て、女審神者はぽんと手を叩いた。
「なるほど、雲ね! ほんとだー、空っぽい」
「主」
「何?」
「カモメだよ。雲がこんなに小さくて細い線な訳がないだろう?」
「……そっか。でも、雨の空にカモメ?」
「晴れてる空を目指してるのかもね」

青江の言葉に、女審神者は瞬いた。
「そっか。出口を探しているのか」
「見つかりそうかい?」
「まだ分かんないけどねー」
そう言いながら女審神者は、「貸して」と言って、青江から白のパステルを受け取る。
隣にもう一羽。
「じゃあ、これは青江ね。どうせなら――皆描くか」
「紙一杯になりそうだね」
「どこに飛んで行くのか分からないままの大所帯とか、不安要素しかないな」
「案外、楽しいんじゃないかい?」
「皆でにっかり笑ってね」
「そうだね」

代わる代わる手を行き来する白のパステルに比例して、
紙の中を飛ぶカモメが一羽づつ増えていく。
どんどん増殖するカモメが紙一杯に広がって、ようやく女審神者は満足したようにパステルを置いた。


「疲れたー」
「絵を描くと言うのは大変だね。ぼくはこれきりを希望するよ」
「またまたー、結構青江楽しそうだったじゃない?」

女審神者が訊くと、青江の静かな笑みが返って来た。


「さあ、どうだろうね。君はどうだい?」
「ん?」
「また絵を描く気になったかい? って事さ」

訊ねられて、女審神者は渋い顔をする。
「絵がうまくなりたいならともかく、
そうしょっちゅう自分を表現する為には描かなくても良いかも、と」

しみじみと言った女審神者の言葉に、青江は笑った。

あまりに綺麗な笑みは、妖しさを帯びる。
深緑の髪が一房、さらりと肩から滑り落ちるのすら、女審神者の瞳に焼き付くように映った。

「残念だね。君が納得いかずに描きつづける絵を、ぼくはとても美しいと思うだろうに」


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愛でかたはひとそれぞれ
あとにもさきにも、この一言に尽きる青江さん