「君は本当に、怖いものが多いねぇ」
いつの間に入って来たのか、気が付いたら部屋に居た虫に騒いでいると、近くを通りかかった青江が顔を出した。
ティッシュで虫を摘んで外に出してくれた彼に「ありがとう」と言うと、
彼は女審神者に穏やかな瞳を向けて、こう言ったのである。

「怖いもの? 多いかなぁ?」
「虫だろう?」
「うん」
「幽霊だろう?」
「うん」
「それから、君に向ける男子たちの気持ちだろう。ほら、怖いものばかりじゃないか」

突然サボテンを投げつけられたような衝撃を受けて、
女審神者は目を皿のように開くと、固まった。ややって、ごにょごにょと言葉を濁しながら答える。
「まあ、それは、うん」
「ほらね」
遠慮なく図星を突いて、青江は満足気な風に見える。
女審神者は多少の悔しい気持ちに駆られて、横目で青江を見た。
「青江は?」
「ん?」
「怖いもの。ないの?」
訊くと、彼の前髪で隠れていない左の瞳が、僅かに細くなる。
「あるよ」
「あるんだ」
「人の感情…かな、君のとちょっと似てるね」
軽い口調でそう言った彼は、女審神者の部屋のゴミ箱に丸めたティッシュを捨てた。
そんな彼の動作を目で追いながら、彼女は少し笑う。
「似てるかな? 青江の言葉選びは綺麗だから、不思議と全然違うものに聞こえるね」
「そうかい?
ぼくは似てると思うよ。衝動的で、押さえも利かない感情こそ――この世で一番理解しえなく、おそろしい」

襖の外は、すっかり陽も沈んでいる。
そろそろ夕食の片付けも終わる頃だろうし、男子たちは床の間につく時間であろう。
昼間とはうって変わった静けさは、
このにっかり青江という一振りに良く似合うと、女審神者は思う。

にっかりと笑った赤子の幽霊を斬った逸話を持つ青江は、
呟くように落とすと、薄い唇に弧を描いた。

「そういうものかな」
「君は感情が豊かだからね」
「つまりそれは裏を返すと…」
「確かに。ぼくは君が苦手だという話になる」

青江が笑う。
一見とっつき難そうに見せるこの一振りが、
意外と優しく親しみやすい事に、女審神者は最初、随分と驚いたものだ。
「ぼくは刀だからね。
斬るものを選べず斬るけれど、人は違うだろう?
斬れるものを選べるはずなのに刃を向ける。その根底あるのはどれをとっても感情だ。これが恐ろしい事とは思わないかい?」
「……青江は、言い回しも難しいけれど、考え方も難しいからなあ」
女審神者は腕を組むと、首を少し横に傾いだ。

「わたしが見えないものが苦手なのは、
見えたりしない分想像力が非常に豊かに働くから、怖いわけで。
一生見えないからこそ、怖いわけじゃない?」

青江は笑っている。
彼の感情の変化と言うのは、確かに他の太刀に比べて少ないかもしれないと、ここにきて女審神者は始めて気がついた。

「だけど、見える青江が、例えばそこにあるのが怖くないものだといえば、わたしは多分きっと……多分だけれど、怖くないと思うの。
そこにあるのも、感情じゃない?」
「そうだね」
「青江が斬るものを選べない苦しみは、わたしには分からないけれど。
青江がそこにあるものは怖くないものだといえば、
たとえわたしに見えないものだとしても、青江の言葉を通して斬らない。


そうなると今度青江は、斬りたくないものを斬らなくていいわけじゃない?
その為には、青江はわたしに斬りたくないって言わなきゃ駄目で。
そう思う為には感情が居るわけだから――。


感情が怖いと言う青江の言葉にどう答えていいかは分からないけれど、
斬ることしか出来ない青江の心こそ、大切に生かして伸ばしていきたいなと、わたしは思うな」


言うと、青江は鈴が鳴るように微笑んだ。
深緑の髪が、彼の肩の上で楽しそうに踊る。
「君の方が、よほど面倒な考え方だと思うけれどね」
「そう?」
「どこにたどりつくのか分からなくて、ぼくはどきどきするよ」
「……なんか、青江が言うと妙にやらしく聞こえる不思議…」
「君の物事に関する姿勢は、そういう所に出るんだろうね」
「どういう事?」
「どんな時も、紆余曲折しながらも、無理やり出来るだけ正しい答えにつなげようとするだろう?」
「…それって、褒めてる? けなしてる?」
「褒めてるよ?」
「嘘だぁ」
「どんな時でも、最後に必ず君は笑うからね」

青江はそう言って、
滑るように畳に視線を落とした。

「笑顔が一番だよ。最終的にはね」
「どういう事?」
「ぼくは君の刀だって事さ。君に仇なすものをぼくは斬る。ぼくにそれを選ぶ権利はやっぱりない。
ただぼくが選ぶとしたら…
そうだね。ぼくを使う君には、どんな時でも笑顔の結末がいい、と言うくらいかな」

「…青江の言葉は、本当に難しい」

「どうせにっかりなら。にっかり笑った赤子を斬ったからにっかりじゃなくて、
にっかり笑う主人に仕えてるからにっかり青江って言うのも、いいと思わないかい?」
「ああ。そういうのいいね!」
にんまりと笑った女審神者に、
青江はふ、と笑みを返すと、
「そろそろぼくは部屋に戻るよ」
と、踵を返した。
その背を見送る女審神者は小さく微笑む。

「ありがとう、青江」
すると彼は、一歩踏み出しかけた足を止めて、くるりと首を巡らせた。
「ああ。それより主…」
「ん?」
「塞ぎ込むのは君に似合わないよ。笑いなさい。にっかりとね」
「な――」
「じゃあ、おやすみ」

ぎょっと目を見開いている女審神者をあとにして、
青江は部屋から出て行く。
襖を閉めると青江は、誰と言うわけでもなく、宙に呟いた。

「ぼくは神剣じゃないからね。祓うなんて優しい真似は出来ないよ。斬られたくなければ、立ち去るんだね」

ぶん、と虫の羽音がする。
遠くなっていくそれを聞きながら、青江は息をついた。

「まったく。主の鈍感さには恐れ入るね。
刀剣男子なんて言っても、いわゆる付喪神。
それを束ねる人間が、何の力も無いなんてことないだろうに」

感情の沈みは、いらぬものを引き寄せる。
笑顔は魔を退ける。

つらつらとそう考えて、青江は微かに笑った。

「初めてだよ。
戯れににっかり青江を、いい名前だなんて思うのは」