俗世を離れて良かった事と言えば、
バレンタインデーやクリスマスと言った行事に踊らされずとも済む所だろう。

「…と、思っていたんだけれどなあ」

親の仇を前にしたような顔で、雑誌に目を落としたままポツリと零した女審神者の一言を、近侍の清光は聞き洩らさなかった。
「主、何見てるの?」
「え、うわっ! 清光、居たの!?」
「居たのって…」
ずっと居たに決まっている。
朝から考え込んでいる様子の女審神者は、清光が部屋を訪れた時も上の空で、
いつもの倍近くの時間を掛けて書類を片付けたかと思いきや、雑誌を広げて唸り声を上げだしたのだ。

一連の動作を見ていた清光が頷くと、女審神者は清光と雑誌交互に目を配らせ、わ、と声を上げて机に覆いかぶさる。
あからさま過ぎる。
目を細めた清光から、女審神者は逃げるように視線を逸らした。

「あ!」
「…」
わざとらしく大きな声を上げた清光が障子を指差す。
女審神者は微動だにしない。
清光は息を吐きながら手を降ろすと、不満気な態で口先を尖らせた。

「さすがの主も引っかからないか」
「さすがって何よ」
「言葉の通りだけどー?」

「…」
「……」
見つめ合う。
互いの動きを牽制しあうような時間が続く最中、障子を叩いた光忠が盆を手に顔を覗かせた。
「主、カステラだよ――って、何してるんだい?」
清光の動きは俊敏だ。
女審神者がカステラに気を取られた一瞬の隙に回り込むと、彼女の懐から雑誌を引き抜く。
「あ、こら、清光!」
追って来る手を軽やかに避けて、清光は光忠の横に並ぶと、女審神者が熱心に読んでいる雑誌に目を落とした。
「バレンタイン特集?」
斜めから見た光忠が首を傾げる。
「なに、主。これをあんな険しい顔で読んでたの?」
「――そうよ、悪い?」
清光の問いに、女審神者は腹を括った様子だ。
ふてぶてしくも机に肘をつくと、顎を乗せて下唇を突き出す。

「俗世を離れて良かった事の一つはさ、こういう街全体が浮かれて、商業政策に踊らされて税金払うイベントに参加しなくて良くなった事じゃん?」
「主…」
「なんか、バレンタインに恨みでもあるのかい?」
ものすごく気の毒なものを前にしたような顔をした清光と光忠に、女審神者は顔を背けた。
「いい思い出が無いだけ」
皮肉めいた笑みを浮かべる。
対して清光と光忠は「ふぅん」と相槌を打つと、顔を見合わせた。こちらはどことなく得したような顔つきだ。
「それで、そのバレンタインがどうしたの?」
「どうしたの、と言う訳でもないんだけれど」
口籠った女審神者は、二振りを見上げると、緩く息を吐く。
「女審神者とはいえ、やっぱり女じゃん? バレンタインデーに、刀たちにチョコを上げるんだって話を良く耳にするんだよね。マジかすごいな、って今までずっと思ってたんだけど」
「へぇ」
「それで?」
話の続きを促す二振りを、彼女は恨めし気な目で見上げた。
皆まで言わずとも分かるだろうと、その瞳が告げている。
「――まあ乗っかって、わたしもチョコを用意しようかと悩んでいた訳ですよ」


「いいじゃないか。皆もきっと喜ぶと思うよ」
満面の笑みの光忠。
「ま、一番うれしいのは俺達だけどね」
花が咲くような笑みを浮かべる清光。


「……だから言いたくなかったのよ」
女審神者はげんなりと頭を抱えた。
それでなくても、バレンタインを楽しむとなれば大仕事なのだ。
買うにしろ作るにしろ、心身ともに疲弊する。
それに加えてこの本丸に居る刀たちは、義理チョコで軽く片付けていいような関係性ではない。
だから面倒で、見ない振りをし続けて来ていたのに。

すぅ、と目を閉じた女審神者は、力無く笑った。
「止めるか」
考えるだけで、面倒になって来た。
女審神者が机に向き直り、引出から書類を出すと、清光と光忠は雪崩れ込むように寄って来る。
「えー、いいじゃん。主、俺も相談乗るよ?」
「そうそう。カステラ食べながら雑誌見るのもいいかも知れないよ?」
必死か。
書類が飛ばされたかと思いきや、雑誌とカステラ、お茶が目の前に並べられて、机の両端には正座した清光と光忠。
高揚して頬を朱に染めた二振りを変わる変わる見た女審神者は、うつろな瞳で雑誌に目を落とす。
「これなんか俺、すごく可愛いと思うんだけど」
「手作りとかもいいんじゃないかい?」
「清子、そんな高いものを人数分買えないよ。光子、手作り人数分なんて、わたし死んじゃうよ」
もういっそ冗談で片付けてしまおうと言う悪魔のささやきに、女審神者はフットワーク軽くすぐに乗っかった。
ガールズトークさながらに首を横に振った女審神者。
どう切り返して来てものらりくらりとかわそうとしていた女審神者を見た二振りは、ちらりと一瞬視線を交わした。
彼女から見えない所で唇に笑みを浮かべると、机に両膝をついて、顎を乗せる。

「えー、じゃあちょっと値段落としてぇ、こっちなんてどう?」
「手作りなら、光子も手伝おうかな」

「………ノって来た…だと!?」

雷に打たれたように女審神者は目を開く。
清子はまだいいとしても、光子は厳しい。
いつにない猫撫で声に、女審神者は背筋を撫でられたようにぶるりと震えて、唇を戦慄かせた。

「ちょ、待って、見るに堪えない…!」

「もういっそぉ、三人で見に行くって言うのはどう? 光子」
「清子。その意見すごくいいね。デパート行ったあと、スーパーにも行こう。お菓子の買い出しのついでに、夕飯のメニューもたまには店の安売りとかで決めたいし」
「いつも野菜ばっかりだからねぇ」
「清子、肉とか好きだもんね」
「うん。じゃあせっかくだし、爪塗りなおそうかなぁ」
「光子も、とびっきりお洒落しなきゃ」

「え? 待って。何しれっと話決めてるの?」

す、と立ち上がった二振りに、女審神者は声を上げた。
デパート? スーパー?
買うも作るもどっちもしろと言う事なのか?
女審神者がすがるように手を伸ばすと、清光が首を巡らせた。
にんまりと口角に弧を描く彼は、猫目が細くなる。
女に寄せようとしていた高めの声を低くして、清光は悪戯っ子のような声を上げた。

「だって俺達、今までの分も貰わなきゃじゃん? その二つでチャラにしてあげよーってんだから、感謝して欲しいよね」
「そうそう。じゃあ主。三十分後に玄関でね」


引き留める間もなく、無情に締まる障子。
伸ばした手のまま、女審神者は腹の底から「えぇぇええぇぇぇえ」と戸惑いの声を上げたのであった。



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「やるじゃん、光子」
「清子もね」

基本的に手段はえらばない二人。