部屋に缶詰状態である女審神者は、凝り固まった肩を回すと、あくびを零した。
今月は政府からの書類がやけに多い。
理由は、年明けも近づいて来て、書類の整理をしているらしい彼らが、
やれチェックした書類に印鑑がないの、ここの文は不適切だの。注文をつけて来たからである。

昨日の昼から指示だけして、
部屋の外にもほとんど出ずに作業している女審神者は神経が磨り減っていた。

「疲れた……。止めたい…」
げんなりと呟いた時、

「うああああああああ!!!」
厚のものと思われる悲鳴が響いて来た。

何事か。

女審神者が印をついていた書類から顔を上げると、
ドタドタと走って来る足音が近づいてくる。

寸ともせぬ間に開いた襖に、女審神者は首を巡らせた。

「どうしたの。厚。また鶴丸か小狐丸が何かやらかしたの…って」
女審神者は、はた、と固まった。
二三度瞬きした瞳を見開いて、口は半開きのまま動かない。
「あぁるぅじぃぃ」
低い声を上げたのは、見たこともないような生き物だった。
真っ白で寸胴な身体に、目が三つ。鼻は無くて、赤い舌がだらんと伸びている。
てんでバラバラな方向を向いている瞳がぎょろぎょろと動き、
女審神者をその三つの眼でロックオンした瞬間、
女審神者は金切るような悲鳴をあげた。

「ぎゃぁああぁぁぁああァアぁあぁアああァアアアア――――ッ!!!!!!!」

立ち上がった女審神者は、手当たり次第に掴んだものを投げる。
筆に座布団。果ては椅子まで。
わわ、と驚いた声をあげながらそれらを避ける化け物に、
女審神者は泡を食ったように逃げ出した。

「だ、だれ…誰か…!」

先刻聞こえた厚の悲鳴。
もしやあの白い物体に食われたのかも知れない。

苦手な事務作業に根を詰めたのが災いした。

正気の沙汰ではない考えが脳裏を過ぎって、
女審神者は唇を噛み締める。

「厚…!」
元気に笑う彼の姿が、胸を熱くする。
女審神者は涙に濡れた瞳を拭うと、眉尻を吊り上げた。

「ぬしさま、何事ですか!
なにやら怪しいやつ。この小狐が成敗してさしあげま……ぬしさま?」

いかにものタイミングで飛び出して来た小狐丸。
しかし今まさに彼が庇おうとした女審神者は、何かに背中を押されるようにして、
一番苦手とする奇妙な現象に向き合っていた――手には、持ったこともないであろう、木刀。


「はて、あの木刀は…確か手合わせの。何ゆえここに…?」
「……厚の敵…」
「厚?」
「手を出さないで小狐丸。こいつは…わたしが討つ!」
「討つって主、戦ったこともないでしょう」
「根性!」
「――根性って」
「大丈夫。相手はただの怖い化け物。時間遡行軍でもなければ、刀剣男子でもないもの。わたしだって、死ぬ気で叩けば…!」
「叩けるものですか?」
「さっき、投げたのを避けてたから、たぶん行ける!」

パニックを起こしている割に、変に冷静に物を見る人である。
そして、意外と肝が据わっていることを思い出した小狐丸は、ふむ、と頷いた。

「致し方ない。
それ」

小狐丸が指を鳴らすと、白い化け物が煙を上げた。
そうして、今度はやたらと大きくなる。
「お?」
と、変に間の抜けた声をあげた化け物は、赤い顔に真っ赤な目が一つ。今度は鼻も口もない。
ぼさぼさの髪に、腰巻一丁の大男に、女審神者は声もなく悲鳴をあげた。

「ななななななななんか、変わった!!」
「作戦変更です。逃げましょう、ぬしさま」
「いや、でも、でも…!」

うおおお、と大男が声を上げる。

女審神者は小狐丸と手に持った木刀を交互に見、
逃げるか戦うかを悩んでいる様子だ。

「さあ、ぬしさま逃げるのです。小狐と共に!」
「でも、あつが…そうよ、厚が食われたのに、わたしが逃げちゃだめ。腹掻っ捌いて厚を出してあげなきゃ…!」
「ぬしさま」
「わたしが助けなきゃ…!」

決意を固めた女審神者が、再び木刀を構えたとき、

「何やってんだぁ? 大将」
厚の声が間を縫った。

どうやら鍛刀の部屋にいたらしい厚は、襖を開くなり女審神者と目が合って、
今にも泣きそうな彼女の面構えに、きょとんと目を瞬かせる。


「厚…」
「うぉ!? 何だこの生き物」
「食べられたんじゃ…」
「こんな間抜けな面した奴に食われねぇって。そもそもコイツ、口ねぇじゃん」
「いや、それはさっきまであって…ん?」

ここまで来て、女審神者はようやく目の前で起こっている事に疑問を持った様子だ。
大男を見て、くるりと小狐丸を振り返ると、眉間に皺を寄せる。
「……もしかして…」
そうして、
「鶴丸?」
大男を指差した。

「バレちまったかー」
ぽすんと煙をあげて、大男が鶴丸に代わる。
女審神者が「何してんの?」と、低い声で呟くと、彼は目を輝かせた。

「驚いただろ? 本当は俺が新しい刀剣男子だーって言うつもりだったんだけどな」
「そうして逃げ出したぬしさまを、小狐が護るという手はずだったはずなんですが…」
「木刀がなぁ」
「木刀がですなあ」
女審神者の手に握られている木刀。
二人の視線が注いだそれを、厚が「あ」と声を出した。

「それ俺の」
「なんでそんな所に置いたままなんだ? あやうく、討たれるとこだった」
「鍛錬の途中に、鍛刀の時間が来たの思い出しちまって…」
「それで持って来た、と」
「まあな。でも、部屋に入るのに邪魔だから、そこに置いておいて…」
「なるほど」
「そんな事より、大将! 見てくれっ」

パッと花が咲いたように顔を輝かせた厚が、
顕現された刀らしき第三者の手を引っ張って表に出した。

その姿に、髪の毛先まで怒り心頭だった女審神者は、真顔に戻る。

「……嘘…」
「いち兄! ついに来たぜッ」
「ま、マジか!! じゃあ、さっきの厚の悲鳴は…」
「いやー、あまりに驚いちまって、つい。

鍛刀の当番薬研だったろ?
薬研すぐにでも呼びもどさねぇとなあ、とか、あれ夢じゃねぇよな? とか思ってたら、
大将の悲鳴に気付くのすっかり遅れちまった」

「そ、そっか!
薬研は? 皆は?」

「今皆出払ってんだよ。
遠征に出て、残りは畑に。
大将が根つめてるから、夕食豪華にしようぜぇーって言って。
そんで、本丸に残ってるのが俺と…」

そこで、思い出したように女審神者の瞳に怒りが灯る。

「鶴丸と、小狐丸って訳ね…」

「いやあ、ちょっと一息ついて貰おうと思ってな」
「いらんわ! 一息つくどころか、心臓止まるかと思ったよ!」
あはは、と笑う鶴丸を、女審神者は指差した。

「鶴丸! 小狐丸!」
「はいはい」
「何でしょう、ぬしさま」
「罰として、夕食まで正座」
「本気か!」
「長谷部がいたら、庭に吊るされてたよ?」
「…せっかく、邪魔が居ないときを狙ったのですが」
「何かいった? 小狐丸」
「いいえ何も。失敗したから仕方有りません。
正座が終われば、毛並みを整えていただけますか? ぬしさま」
「反省したらね」
「では、反省しましょう」
「……本当に、小狐丸は欲望に従順だよね」
「獣ですから」
にんまりと笑った彼が、縁側に正座する。
しぶしぶといった体で鶴丸も正座し、
女審神者は腰に手を当てたまま、ふん、と息を吐くと、
ようやく後ろへ首を巡らせた。

きょとんとしている一期一振と瞳が合う。

顕現されたばかりだというのに、かなり濃い場面を見せてしまった気がする。
「ええっと…」
「一期一振と申します」
「あ、えっと。この本丸の審神者です」
直角に腰を折った一期一振りに、
女審神者も低く頭を下ろした。

「それにしても、良かったです。粟田口の子たちが、随分と寂しがってたから」
「そーだぜ! いち兄。大将が少ねぇ資源使って、毎日俺たちに鍛刀させてくれたんだぜ」
「こら、厚。本丸の不安要素をまず先に言うでないよ」
「大将。それを言っちゃぁ、まずこの絵面事態が不安要素そのものじゃねぇ?」
「………言い訳も出来ないよ…」

鶴丸と小狐丸を指で示され、
女審神者はがっくりと肩を落とした。

「うぁあああああああああ!」
そこに響き渡った声は背後からで、
後ろを振り返ると、少し離れた所に居る乱が、驚愕の顔でこちらを見ていた。
頬を上気させて、目を輝かせる。

「いち兄! みんな、いち兄がいるよ!」
「ほ、ほんとです」
「いち兄。ついに来てくれたんですね!」

両手一杯に収穫した野菜を持つ短刀たちは、
誰からという訳でもなく駆け出すと、縁側に籠を置き、
正座している小狐丸を器用に避けて、次々に一期一振へ駆け寄った。

ほほえましく見ている女審神者に、
乱れが踵を返すと、
「ありがとう! 主!」
と駆け出してくる。

小走りに駆け寄って抱きついてきた彼を受け止めて、
「良かったね」と笑うと、囲まれていた一期一振が困ったように笑った。

「乱。主に無礼ですぞ」
「あーいや、うちの本丸は何と言うか…」
「家族なの!」
「家族?」
「そう。家族でして。ですから何と言うか、
こういう風に全身でぶつかって来るので、よくこのような事態に…」
「また鶴丸さんと小狐丸さん、今度は何したの?」
「聞かないで、乱。話すのも悲しい」
「その話、是非この長谷部にも聞かせていただきたい」

遅れて来た長谷部が、座っている小狐丸と鶴丸を睨みすえる。
審神者が乾いた笑いを浮かべていると、厚が、こうこうこうで、と、ことの成り行きを説明した。

「ほぅ…」
「まあまあ、長谷部。こうやって反省させていることだし」
「主は甘すぎます! この長谷部に命じて下さい。性根から叩きなおしてやります!」
「……叩きなおして、直るかなあ…?」
「直らないと思う」
「だよね」
乱と女審神者が頷くと、
五虎退に秋田、前田が渇いた笑いを浮かべる。

「と、…とにかく、どうせ正座をするなら……手の上に、灸を据えましょう」
「まあ、それくらいなら…」

「こりゃ参ったな」
「ぬしさま。耐えきった暁には、ぜひ小狐丸にご褒美を!」
「小狐丸さん、罰の意味分かってる?」

「……まあ、こんな本丸ですが、よろしくお願いいたします」

弱弱しく笑った女審神者に、一期一振は穏やかな笑みを返した。
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げる」


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小狐丸と鶴丸は、帰って来た清光、光忠、薬研によって庭に吊るされました。
そしてこの出会いを、女審神者は一生一期一振に言われることになります。