一期一振は息を殺していた。
胸の内にいる審神者が小刻みに震えている。薄闇で顔が見えないからか、まるでか弱い動物を抱いているようで、ちょっと力を入れれば折れそうな身体を大切に抱え込んだ。
「…薬研」
「なんだ、旦那。討って出る方法が思いついたなら、今すぐ教えてくれ」
短刀三人は己を手に、覚悟を決めている。
そんな三振りを見た一期一振は感心を通りこして呆れた。ははは、と間の抜けた笑い声が納谷に響く。
「その練度で討って出るつもりか」
「当然だ。俺っちたちは主の刀だからな。ここで出なきゃ、刃が錆びるってもんだ」
いっそ清々しい顔で言う薬研に、小夜と今剣が静かに頷いて、一期一振は「良きかな」と謳うように応えた。
「いい心掛けだ。だが…錆びて貰っても、折れて貰っても困る。お前たちには刃を研ぎ続けて貰い、主を護って貰わねばならぬからなぁ」
「…三日月、なにをいってるのですか?」
怪訝な声をあげる今剣。一期一振は笑った。
「言葉通りの意味だ、今剣。お前たちはここで主を護れ。…一軍が戻るまでの時間、俺が稼ごう」
「正気?」
小夜の色の無い瞳が、更に深く、そして黒くなっていく。
「いくら三日月宗近でも、今出ていけば…折れるよ」
「なに。たとえ四振りで出た所で折れる。脇差一振に短刀四振りとはいえ…なかなか手ごわい相手のようだ。そこそこ練度の高い俺でこのありさまだからな」
斬られた左手の感覚があまりない。
一期一振は拳を握って動く事だけ確認すると、言葉を続ける。
「護りながら戦える自信はない」
「だからこそ…!」
「だからだ。薬研藤四郎」
遮るようにして、一期一振は薬研を見た。
強い瞳に射抜かれた薬研は、出掛っていた言葉を飲み込む。ややあって、苦い物を噛んだような顔で吐き捨てた。
「俺たちじゃ、数にもならないって事か」
「はは。後ろが頼もしいと張り合いもあると言う話だ」
「言ってろ」
投げるように言った薬研に、改まったように一期一振は口にする。
「主を頼む」
薬研は瞳を揺らした。奥歯を噛みしめると、渋々頷く。そうして己を腰に差しなおすと、審神者へと手を伸ばした。
「任された」
一期一振がそっとその背を撫ぜると、審神者は我に返ったような顔で見上げる。
「三日月?」
「主、一軍が戻って来るまで、決してここから出るなよ」
「ちょっと待て、まさかお前…」
「俺は所要を思い出した。ちょっと出て来る」
「出て来るって、おい!」
一期一振を掴もうとした審神者の手が、届かずに空を掴む。薬研に引っ張られた審神者は目を剥いて、すがりつくような声を上げた。
「止めろ、三日月! お前、折れるぞ!」
納屋に響いた声に、今剣が慌てて審神者の口を塞ぐ。
正座したまま膝の上で拳を握る小夜は、一秒も見逃しまいとするように、真っ直ぐと一期一振を見上げていた。
そんな三振りを眺め、審神者へと目を止めた一期一振は、胸が疼く。
(どうせ最後に見るのであれば…)
泣き顔ではなく、笑った顔を見たかったと思った。
審神者のぬくもりが残る右手に刀を持ち返る。その冷たさにむなしさを覚えた自分を振り切るように、一期一振は前を見据えた。
「折れてくれるなよ、主。主が折れぬ限り、また会える」
その時は。
その時はどうか笑っていて欲しい。
願いを置いて、一期一振は納屋を後にする。
「ご、一期」
その声にハッと目を開けた一期一振は、上布団に突っ伏したままうたた寝していた事に気付くと、慌てて面を上げた。
「も、申し訳ありません。主」
「いや。真面目一振のお前も、この陽気には勝てなかったと言う訳だな」
冬の暖かな日差しが審神者の部屋に差し込んでいる。布団の上で苦笑する審神者に、一期一振は思い出したように声を掛けた。
「主、お身体は」
「ほとんど治った。しっかし、たかが筋肉痛で騒ぐよなぁ、お前たちは」
呆れたようにため息をついているが、たかがと称した筋肉痛で身動き取れなくなったのは審神者だ。
遡行軍を率いていた審神者を政府に引き渡し、もろもろの後始末が終わったのは三日後。決して歳のせいではなく、緊張の糸が切れて筋肉痛に見舞われた審神者は、歩く事もままならず、布団の中で数日を過ごした。
そんな審神者を見ている一期一振に、見られた彼は、瞬いた。
「どうした一期」
「夢を…見た気がします。三日月殿の、最後の出陣を。ですが、もう…三日月殿が見せる夢ではないのですな」
ならばなんなのでしょう、と問う気にはなれなかった。かといって、ただの夢だと言うにはあまりに切ない情景。一期一振の悶々とした胸の内を、まるで知っているかのような顔で、審神者は寂しそうに微笑んだ。
「そうだな。きっとそれは、ただの夢だろうな」
そう言って天井を仰ぐ。
「本当はな、一期。俺はずっと、このままでいいと思ってたんだ」
ぽつりと落とすような言葉に、一期一振は首を傾げた。
「主?」
「今更お前と恋仲になるってのもどうかと思っていたしな。三日月を仕舞い込んだまま、時々アイツが見せる夢に胸を痛めて過ごす毎日が、正直居心地が良かったんだ。例えそこがぬるま湯だろうと、死にたい理由も、そこにあった訳だしな」
点と点を線で繋いでいくように、審神者は呆と言葉を続ける。
「だけどまあ、それじゃあ駄目なんだよなあ。俺の大切だった家族は死んで、俺を愛してくれた三日月は折れて、それでも俺は生きてる現実は変わらない訳だ。俺はやっと、変えようもないその事実に気づいたよ」
「…」
「俺はな。ずっと、…ずっと生きていては駄目なんだと思ってた。全ての原因である俺が生きてちゃいけないって、ずっと、そう思ってた」
絞り出すような審神者の声に、一期一振は俯いた。まるで自分の痛みのように胸が軋む。
「……三日月殿が」
「ん?」
「三日月殿が、言っておりました。救いなど、どこにでもあるのだと。見ようによって、どうにでも見えるものなのだと。水に映る月を掴むより、ずっと容易い事なのだ…と」
目を見開いた審神者の目尻に、涙が浮かんだ。つうと流れた水が、布団を濡らす。
「死んで愛を証明する方が楽だったのは、俺だ」
零して審神者は、顔を覆った
「生きて愛し続けるのは、あまりに長くて、苦しかった。三日月はずっと、それに気づいていながら…そばにいてくれたんだな」
指の隙間から、ぼたぼたと涙が落ちる。儚くも美しいそれを目で追っていると、顔をあげた審神者は、泣いているとは思えない程強い瞳を称えていた。
「これから俺は、まだ出来るか自信はないが、一日一日を生きて愛してみようと思う。この苦しくて、長い時間をちゃんと生きて愛して、いつか…彼岸の果てに行った時、大出を振ってアイツらに会えるように。その方が、死んで会いに行くより、ずっとすごい事だと思わないか、一期」
訊かれて、一期一振は思わず微笑む。
そうして黙ったまま頷くと、審神者の瞳は悪戯に弧を描いた。
「それに、たとえどんな風に咲こうが、赤く燃える事が出来ない花だろうが……お前は美しいと言って愛してくれるんだろう?」
「…っ!」
反射的に顔を赤くした一期一振は、耐え切れずに視線を逸らした。
のらりくらりとかわされていただけで、全部バレていたのだと言う事を今更ながらに痛感する。
頭の先からつまさきまで熱くなった身体を持て余していると、審神者はカラリと笑った。
「俺も愛すよ、一期」
「…え?」
「俺も、お前を愛して生きるよ、一期」
あっさりと紡がれた言葉に、一期一振は目を見開いた。弾けるように戻した視線の先に居る審神者は、朱に染まった頬を人差し指でかいている。
「まあ、言ってもアレだ。おじさんはな、三日月の寵愛を受けたとは言ったものの、つまりは精神論だった訳でな。身体はなんというかその、枯れたおじさんな訳なんだが」
いやなあ、なんていうかなあ、と審神者は口籠る。
「それでもいいか、一期」
「――!」
伺うように覗き込まれた瞳に、一期一振はぶわ、と感情が溢れだした。頷く暇もない。泡を食ったようにしている一期一振に、審神者はしまった、と声を上げた。
「あ、主…」
「ちょ、待った、一期! お前それ何度目だ…!?」
途端に桜が舞い始める。はらはらと殊勝に舞うくらいなら健気ともいえるが、洪水の様に出て来る桜はみるみるうちに審神者を飲み込んで、部屋から縁側、庭へとなだれ込んでいく。
ど、と言う音を聞きつけて駆けつけた燭台切と薬研は、桜色で溢れた審神者の部屋にまずは絶句した。
この数日で何度か見た光景に、中心にいる刀はすぐに分かる。薬研は口を開いたまま呟いた。
「…いち兄、本丸を桜で埋める気か?」
「これは…桜ジャムの作り甲斐がありそうだね…」
「いいから助けろ! 燭台切、薬研!」
桜で溺れる審神者の手を引いた燭台切。抜け出た審神者は、口の中に桜が入り込んだと騒いで、呆れ顔の薬研が布団の脇を掘ると、一期一振は息すら忘れているようだった。目の前で手を振っても、ぴくりとも動かない。
「おーい、いち兄? …駄目だな、こりゃ。完全に浮かれて飛んでる」
「もう、主。しばらく一期くんを刺激しないでねって言ったよね、ぼく」
「いやまあそう言われてもだな。一期の沸点が低いのが問題なのであって…。それに、男としては何だ、覚悟を決めた事くらい伝えなくちゃだろう」
「なーにが覚悟を決めた、だよ。単に尻込みしてただけじゃねぇか」
見た目に寄らず、おっさんくさい溜息をついた薬研は肩をすくめた。
「何だと薬研!?」
「そうだよ。もう、見ててむず痒かったぼくたちの気持ちも察して欲しいよね」
「燭台切まで…! まさか、お前ら…」
驚愕の事実を前にしたような顔で審神者が打ち震える。その様があまりにも滑稽で、薬研と燭台切は失笑した。
「分かりやすい一期くんを顕現させた主が、カッコよく隠せる性質な訳がないよね」
やれやれと言わんばかりの二振り。審神者は鳩が豆鉄砲を食らうような顔をしたあと、耳朶まで赤くする。
「まさか三日月だけじゃなく、お前たちにまで気付かれてたなんて…」
「まあ俺っちたちはともかく、三日月の旦那の事だ。全部含めて、大将を護る覚悟は…とっくの昔に出来てたんだろうよ」
「そうだね。三日月さん、主が笑ってるの見てる時が一番幸せそうな顔してたからね」
のんびりと言った薬研と燭台切は顔を見合わせた。四つの瞳が、審神者を映す。弧を描いた瞳は明らかに何かをたくらんでいて、審神者は一歩二歩後退さった。
「それで、俺たちと家族になる覚悟は出来たか? 大将」
「主が折れるまで、ぼくたちとここに居る覚悟もね」
ニヤリと薬研が笑い、燭台切が花が綻ぶような笑みを浮かべる。目の当りにした審神者は、まさか、と口端を引き攣らせた。
「…お前ら、それが目的で一期を焚きつけてたのか」
「いやあ、いち兄に任せて正解だった」
「いや、任せてはないだろう。明らかに口出してただろう! お前ら!」
「何の話だ? なぁ、燭台切」
「そうだね、薬研くん」
「クソ、お前らどこまでが共犯だ? 古参だな。古参チームだな!」
「ねえ」
詰め寄る審神者に、薬研と燭台切が白々と宙を仰いでみせる。その時、割るようにして後ろから入って来た加州の声に、一期を除いた面々は首を巡らせた。審神者の目が血走っているのを見ぬふりして、加州の瞳は燭台切を映す。
「燭台切。桜ジャムもいいけどさ、納屋にまとめた分も、一端全部で集めて、花見でもしない?」
「花見? 構わないけど…」
「冬に桜も乙じゃん? と、言う訳で準備するから、燭台切も薬研も手伝って」
ひょいひょいと手招きする加州に毒気を抜かれた審神者は、呆れたような、感心したような顔をした。
「…お前ら、ホント飲み事に関する機動は長谷部なみだよな」
すでに加州へ向けて歩き出している二振りに、審神者は、なあ、と声を上げた。
「青江と石切丸だけ借りていいか?」
「いいけど。何で青江と石切?」
「墓をな、庭に移そうと思うんだ」
審神者の言葉に、足を止めた燭台切と薬研が首を巡らせる。驚いた三振りの顔を見た審神者は、苦笑した。
「まあ、勝手に墓を動かして祟るような奴らじゃないんだが。一応、な」
しばしの無言。
どういう沈黙か分からない審神者が三振りの顔を見比べていると、途端に加州が目を輝かせた。
「何それ、主の家族がウチに来るって事!?」
「いや、ウチに来るって言うか、まあ墓な訳だが」
「違うよ、加州くん。ぼくたちは主の家族な訳だから、主の家族もぼくたちの家族な訳で…」
「じゃあアレか。今日は花見兼、歓迎会って訳だな」
「いやだから墓なんだが…」
「じゃあ桜は庭に敷くか」
「いいじゃん、いいじゃん! なら寒いし、鍋にしない?」
「いいね。さっそく万屋に買い出しに行こうか」
「そんな燭台切に朗報ー。なんとここに、博多からの軍資金」
「おお、眩しいね、薬研くん!」
「随分と分厚いじゃねぇか!」
加州が懐から出した封筒に吸い寄せられるように、燭台切と薬研が軽い足取りで部屋を出て行く。桜模様をちりばめた薬研は、グッと親指を立てた。
「大将、明るい内に家族連れて来いよ」
呆然と見ていた審神者は、ゆるゆると口元に手を添える。吹き出すようにして笑うと腹を抑えた。
「こりゃあ大所帯の家長だな、俺は」
そう言って、ちらりと後ろに目を向ける。相変わらず一ミリも動いていない一期一振の背中に、審神者は軽く声をかけた。
「これからも頼むな、一期」
しばしの間を置いたのち。
何時の間に我を取り戻していたのか、罰が悪そうな顔をして首を巡らせた一期一振は破顔すると、頬をさくら色に染め、花が咲くように笑った。
「……お任せください。主」
「三日月宗近。打ち避けが多い故、三日月と呼ばれる。よろしくたのむ」
顕現してまず目に入ったのは、金色の目を剥いて驚いている一期一振と、彼の後ろに座している審神者の姿であった。
黒の羽織に灰色の袴。皺の多い目元がス、と細くなる。
重い沈黙が尾を引く中で、何を思ったのか、突如審神者はぶわりと大粒の涙を溢れさせた。
「い、いい一期。三日月だ、三日月が来た! 三日月の資材で三日月が来たぞ、一期!」
「なんと…」
驚いている様子の一期一振と、子どものように泣いている審神者を見比べて、三日月はのほほんと笑う。
「俺は随分と待たれていたようだな。一振目か?」
訊くと、審神者は少し驚いた顔をした。その眉が、残念そうに下がっていく。何も言わなくなった審神者の代わりに、一期一振は静かに首を横に振った。
「いえ、二振り目です」
「そうか」
触れぬ方がいいと判断したのか、ぐるりと室内を見渡した三日月は感嘆の声を上げる。
「なかなか年季が入った本丸のようだ」
「ご案内します。どうぞ」
立ち上がった一期一振の後ろをついて行くと、審神者が鼻をすする音が聞こえた。すれ違う最中、三日月の袖が引かれる。首を巡らせた三日月に、審神者は泣いているというのに、鮮やかに笑った。
「ようこそ三日月。今日からよろしくな」
面を食らったような顔をした三日月。頷くと、審神者は更に笑う。
部屋を出ると、一期一振もどことなく嬉しそうな様子であった。
「初めて会った気がしませんな」
「そうか? 俺は初めて見るものばかりだが…」
きょろきょろと首を巡らせるのに忙しい三日月は、僅かばかり寂しそうな顔をした一期一振に気付かない。
一期一振は気を取り直すように笑顔を繕うと、色とりどりの花が咲く庭を示した。
「主の意向で、咲くに任せております。あの辺りに踏み込む際はお気を付け下さい。薬研に頼んで、虫よけの香を貰う事をお勧めしますな」
「虫…か。香でどうにかなるものなのか?」
「まあ、無いよりはマシ…くらいなものですが」
一期一振が声をあげて笑う。
目で見る花と言うのは初めてで、まじまじと見る三日月に、一期一振は廊下の先を指差した。
「一度で覚えるのは無理かと思いますので、まずは厠と食堂を。部屋は今から用意させまし…」
「わ!」
突然聞こえた鶴丸の声。
びくりと身体を揺らした一期一振は、すぐさま恨めし気な瞳で声のした方へ首を巡らせた。
屋根から顔を下げている鶴丸が、カラカラと笑う。
「驚いたか? 一期」
「…鶴丸殿」
呆れた声を上げる一期一振とは対照的に、三日月は愉快気な声をあげて笑った。さして驚いた素振りもない三日月に、鶴丸はほう、と眉をあげる。
「ほう。君は驚かなかったのか、三日月宗近」
「名は何という?」
三日月に尋ねられ、鶴丸は瞬いた。一期一振を見る。ゆるく頭を振ると、鶴丸は笑い飛ばして器用に手を伸ばした。
「鶴丸国永だ。よろしくな、三日月。君に驚きを届ける事が出来なくて残念だ」
「なに。たいした事ではない。なぜだか、お前がそこから出て来る気がした。それだけだ」
鶴丸が黒々と目を見開く。その手を取った三日月は、何を思ったのか、ぐいと鶴丸の手を引っ張った。転がり落ちて来た鶴丸が尻から落ちる。声をあげて笑う三日月を見て、鶴丸は後ろ頭をかいた。
「参ったな…」
そう言って、釣られたように声をあげて笑う。晴天に響く二人の声に、一期一振もまた腹を抱えて笑い出した。笑って笑って、鶴丸は目元に滲む涙を拭う。
そうして聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「それだけ覚えててくれれば十分だ。ありがとな、三日月」