ドリーム小説
泣いていた。
剥き出しで置かれた蝋燭が、涙を流す審神者の顔を橙色に染めている。
割と良く見る審神者の泣き顔は、二百年生きているとは思えない程豪快であるだけに、こうも静かに涙を流す彼は、今にも手折れそうな程儚く、そして何より小さく見えた。
「主」
一期一振が呼ぶと、おそるおそると顔を上げる。頬が扱けていた。土色の肌に、真っ赤な目が異様で、一体何日泣けばこうなるのだろうか、と一期一振は頭の隅で考える。
(毎日泣けば、それも当然か)
遅れて思った自分に、ふと疑問を抱いた。
毎日泣く、とは。
そんな審神者を見た覚えは一期一振にはない。だけれど目の前に座っている審神者はあまりに鮮明で、夢とは到底思えなかった。まるで触れたら体温を感じるような。そこまで考えた一期一振はようやく理解が追い付く。
(夢? そうか、これは…)
三日月が見せる夢なのだと思う一期一振は、自分の意志とは関係なく、審神者に向けて手を伸ばした。視界の端で青い着物の袖が揺れる。親指で拭った涙は生ぬるく、次いで流れた涙がまた、親指を濡らした。
「主」
もう一度呼ぶと、審神者は唇を震わせる。静かな部屋に、カチカチと鳴るのは奥歯の音か。薄い紫に染まった唇がか細い声を上げた。
「みか、づき」
「主のせいではない」
勝手に紡ぎだされる言葉は、酷く優しい声音だった。
「主のせいではない」
繰り返し、繰り返し。何度でも言おうと、一期一振は思った。主のせいではない。せいではないのだと。
だけれどその言葉にまた、酷く傷ついた顔をした審神者は身体を震わせる。
「俺の、せいだ」
「主のせいではない」
「あの時俺が、あんな事を言わなければ…」
「主は、審神者として当然の事を言ったまでだ」
「だが…!」
審神者は狼狽している。
両手で顔を覆った彼は、押し殺した声で叫んだ。
「俺が余計な事を言わなければ…! 家族は…俺の、大切な…家族は……殺される事なんて、なかった…」
(殺された?)
その一言は杭を打ち込むような衝撃を放つ。
だけれど崩れるように身をかがめる審神者を前にして、一期一振はいたわるような、それでいて、確かな声を上げた。子をあやすように丸まった背を撫ぜる。
「殺したのは遡行軍だ。主ではない」
「それでも…っ」
「主ではないのだ。恨みこそすれ、己の責める必要はない」
そう言いながらも、心の何処かで一期一振は恨む事が出来ればいいが、と落胆に似た気持ちを抱いた。
恨む事が出来れば楽だ。感情は人の特権である。刀は人に使われるまま、使われるだけ。恨んでくれるなら、いっそあの男をこの手で斬り捨てる事が出来ると、静かな胸の内に、さざなみのような黒い波紋が広がる。
(切り捨てる…なぁ)
それもつかの間、自嘲するように笑った。
きっとこの男は恨みはしないのだろう。自分の運命を呪う事はあっても、手を下した男を呪う事は無い。力の無い人の身を持ちながら、心根の強い男は、あの男の誘いに乗って審神者の道を踏み外す事など絶対にしないのだ。
なんと悲しい。
なんと愛しい。
審神者を前にして、一期一振の胸の内では、さまざまな感情がとぐろのように混ざり合っている。
ぐるぐるともつれる糸の先を引っ張れば――やはり自分は刀なのだと、一期一振はむなしく思えた。人のように愛する方法が分からない。千年以上存在していても、人であった事などただの一度もないのだから。
せめて。
伸ばした手が、審神者の髪を撫ぜる。
「主」
審神者の身体がぴくりと浮いた。
腫物にふれるような手つきで審神者の身体を起こすと、一期一振は審神者の顔を覗き込む。泣き腫らした男の瞳に、美しい三日月が映っていた。
「主は審神者として良くやっていると、俺は思う。そう自分を責めるな」
「…三日月」
(せめて)
「俺は主の刀で在れて幸せに思う」
口でそう言いながら、まるで人のように一期一振は審神者を抱きしめた。固い身体が、更に固くなる。
どちらも本当なのだ。どちらも、本当の気持ち。
嗚呼、と一期一振は込み上げてくる切ない感情に蓋をするように、瞳を伏せた。
(もしも俺が人であったならば…。俺の心がどこにあるのか、主の心がどこにあるのか、分かったのだろうか)
薄く開いた唇が何か言葉を紡ぐ。
思わず出たその言葉が自分でも聞こえぬまま、一期一振は意識が遠くなっていった。
目を覚ました一期一振は、古い天井がぼやけて映っている事に気付き、振れた頬が濡れている事にしばしの間呆然としていた。
(今の…夢は)
審神者と三日月が、何かを隠しているのではないかと言う話を聞いた夜に見るには、あまりに笑えない夢だ。
(主の家族は…殺された?)
寝起きとは思えないスピードで思考が駆け巡って行く。あまりの衝撃に胃がむかつきを覚えて、一期一振は立ち上がると、そっと寝室をあとにした。
月明かりが照らす縁側を、ひたりひたりと歩いていく。
冷たい床が足の先から冷たくしていって、冷えた息が口から漏れた。
身震いした一期一振は、何かを着て出て来るべきだったか、と後悔する。
もう冬の入り口だ。戻るか進むか迷っている一期一振の頭上から、
「お? 一期じゃないか」
と、不意に夜更けとは思えない程明朗な声が聞こえて来た。
声の聞こえた方へ顔を持ち上げると、屋根からひょっこり、鶴丸が顔を出している。
「鶴丸殿」
「こんな夜更けにどうした」
「鶴丸殿こそ」
「俺か? 俺は飲み会だ」
「飲み会って…」
あれからまだ飲んでいると言うのか。
呆気に取られた一期一振が瞬くのを見て、鶴丸は察したようにカラリと笑う。
「君こそ、まるで幽霊を見たように真っ青じゃないか。その気色じゃ、次ぎに君を見た刀が幽霊を見たと騒ぎそうだ。どうだ、一杯付き合うか? 色が戻るぜ」
「…そう、ですな。一杯頂きます」
「へぇ。そりゃぁ珍しい。上がって来れるかい?」
「回って来ます。しばしお待ちを」
「了解」
二階へ上がった一期一振は窓から屋根へと出る。鶴丸が居たのは、窓からじゃ見えない場所で、この寒さでは外に居る刀も少ないであろうから、一人を楽しむには打ってつけだ。
転がりおちないように慎重に歩を進め、バランスを取りながら鶴丸の隣に腰を下ろした一期一振に、彼は白色の上着をかけてくれた。たった数分歩いただけで、芯から冷えていた一期一振には有り難い。
「ありがとうございます」
「気にするな。俺は酒で温かいからな。ほら、猪口だ。君もすぐに温かくなる」
鶴丸は当然のように二つ猪口を持っていた。
なるほど今日話しを聞いていなければ不思議に思ったであろうが、それが三日月の猪口だと知っている一期一振は、さして何を聞く訳でもなく受け取る。
その姿には返って鶴丸の方が驚いたようだった。
「へぇ、何も聞かないんだな。てっきり呆けた老人のように扱われると思ったんだが」
「今日は、加州殿たちの飲み事に参加させて頂きましたので…」
「そう言う事か。先に種が分かっている驚き程、詰まらない物はないだろう、一期」
「そう言う驚きは求めてませんので。お気遣いはいりません、鶴丸殿」
驚きが足りない、俺は死んでしまうかもしれないとよく分からない発作を起こして、これ幸いと皆に、薬研の医務室と書いて研究室と読む部屋に運ばれた刀である。
鶴丸が突っ込まれている数日間、本丸は真に平和で、いつも発作起きてりゃいいのにな、と呟いていた審神者は、戻って来るなり鶴丸に驚かされて、心臓痛めて運ばれた。薬研いわく、手の施しようが無かったらしい。
勝手に諦められた鶴丸は難しい顔をしたあと、しみじみと呟いた。
「せめて屋根から声を掛ける時、驚かすべきだったか」
すまない一期、と言わんばかりの顔である。
何も言う気が起きなくなった一期一振は緩く首を振ると、酒に口をつけた。
「それにしても、君がそんな顔をするなんて珍しいな」
「…」
「また主に相手にされなかったのかい?」
にやりと鶴丸は笑う。
一期一振はじわりと火に照らされたように頬を赤くすると、目を逸らした。
「いつから知られていたのでしょうか」
「そりゃぁ、随分始めの方からじゃないか? 君は分かりやすいからなぁ」
「主も…その」
言葉に詰まると、鶴丸はあからさまに視線を逸らした。ああ、とか、そうだな、とか言ったあと、言葉尻を濁す。
「知って…るかも知れないな。ああ見えて、主は心に聡いと言うか、聡すぎると言うか…」
いつものらりくらりとかわされているような気がしてなくもなかったが、かわされていたらしいと言う事に気付いた一期一振は途端に影を背負った。膝を抱えて俯く一期一振に、鶴丸は慌てふためいた声を上げる。
「脈がないわけではないと思うぜ!?」
「…お気遣い、ありがとうございます」
単調に言った一期一振に、鶴丸は苦笑した。
「まあ、その…分かりやすい所が君の強みだからな。…三日月も、もうちょっと分かりやすければなあ」
月を見る鶴丸の瞳が揺れる。
「鶴丸殿は…三日月殿と仲が良かったと聞きました」
「仲が良かったなぁ。傍から見ればそうだったのかも知れないが…まあ、俺としてはなんだ、好きだった」
「え?」
「……の、かもしれない」
鶴丸はそう言うと、のんびりと笑った。
「未だに良く分からん。好きと名付ければそうなるのかも知れないが、今度はじゃあそれが他の刀や主へ向ける気持ちとどう違うのかと訊かれても、俺には良く分からなくてな」
だが、と瞳は優しげに弧を描く。
「三日月の隣で、刀を振るのが…俺は楽しかった。それが一番近い気がする」
「…鶴丸殿」
「俺から見れば、君は羨ましいくらいだ。なんの疑いもなく、ためらいもなく、主を好きだと思ったのだろう?」
聞かれて、一期一振は考える。
確かに、刀として主を慕う気持ちはあるが、いつ頃から主を好きなのだと言うこの気持ちは、当然のように傍らにあった。
ややあって頷いた一期一振に、鶴丸は酒を舐める。
「俺は君の…そう言う所が羨ましいと、三日月に話した事があってな。まあ話したと言っても、居ない三日月を相手に、勝手に話をしていた訳だが…」
鶴丸は、しばしの間言葉を忘れたように宙を仰いだ。
「……鶴丸殿?」
「………三日月は、居るらしいな。この本丸に」
「そう、ですな」
「まったく。そうならそうと、太郎太刀も青江も石切丸も言ってくれればいいものを。
主が戦の時に三日月の名を呼んだだけじゃなく、君が三日月と関わっているらしいと聞いた俺の驚きと言えば、顕現してから今までで一番大きかったんだぜ。心の蔵を痛めて運ばれるかと思ったくらいだ」
いけしゃあしゃあと、愚痴っぽくそう言った鶴丸は不貞腐れた顔をする。
「三日月も三日月だ。俺が毎度、面白愉快な話を聞かせていたと言うのに、どうして俺じゃなく、君に化けて出るのか…」
「化けて出て来た事はありません」
どういう話になっているのか。
一期一振と三日月が少なからず関わっている事を古参の刀たちは知っているようだったが、その狭い範囲の中ですら、尾ひれはひれがついている様子である。
何を聞いていたのかは分からないが、鶴丸は口を開いたまま、ちょっと残念そうな声を上げた。
「化けては出ないのか」
「…出ません。ただ…」
「ただ?」
「夢を、見るのです。わたしの過去を…そして…」
一期一振は神妙な顔付で押し黙ったあと、低く続けた。
「三日月殿の、過去…なのでしょうか」
「三日月の過去? なんだそれ」
「わたしにも何が何やら。今日、加州殿たちと、三日月と主が何やら隠しているのではないかと言う話をしたばかりでしたので、それを気にしたわたしの、ただの夢と言う可能性もあります」
「ふぅん」
そう言った鶴丸は、猪口の酒を飲み干す。手酌で注ぎながら、顎を擦った。
「確かに…主と三日月は妙だったよな」
「鶴丸殿もそう思われますか? 加州殿と燭台切殿は、もしかしたら、三日月殿は遡行軍が来るのを読んでいたのかも知れないと言っておりました」
「なるほど。確かにあの頃から、三日月は戦場に出なくなったな。繋がると言えば繋がる。それで? 君が夢で見る三日月の記憶とやらは、なんて言ったんだ?」
「…主の家族は、殺されたのだと」
鶴丸の動きが止まった。
ゆっくりと首を巡らせた鶴丸は、眉間に皺を寄せる。
「何だって?」
「主の家族は殺されたのだと、話していました」
「…」
「……」
「………まあ、俄かに信じがたい話だが、君の夢を肯定するべき点が一つある。主が生家へ戻る時は、大抵一振ついて戻っていた。
主の家族が死んでいるのを発見したのは主と…、その日、一緒について戻っていた三日月だ。俺たちは主と三日月から、事故で家族が亡くなっていたと言う話しか聞いていない」
「そんな」
「他に? 三日月は何て言ってた?」
「…殺したのは」
そうなってくると、次ぎの一言を紡ぐのが酷く重たく感じた。
出掛った言葉が喉に詰まって、一期一振は黙り込む。ようやく唇を解いて、自身でも信じられない言葉だからか、一期一振は潜めるようにして声を出した。
「…殺したのは…、遡行軍だと」
「遡行軍だって!? なんだって主の家族が、歴史改変主義者に殺されなくちゃならないんだ」
「わたしにも良くは分かりません。ただ、主は自分のせいだと泣いていました。自分が余計な事を言ったから、家族は殺されたのだと。それに三日月殿は、審神者として当然の事を言ったのだと慰めていて…」
「待て、一期」
鶴丸はずいと一期一振に手の平を向けた。
「…その話、もう一度言ってくれ。聞き覚えがある」
「余計な事を言った…ですか?」
「嫌、そこじゃない」
「審神者として当然?」
「そう、審神者として当然な事を言った話、だ」
鶴丸は腕を組んで、うんぬんと唸っている。
「どこで聞いたんだったかな」
「この場合、聞くとするなら三日月殿からでは?」
「そうだよなあ。三日月が、審神者として当然…な」
呻くような声をあげていた鶴丸は、ここに来てはたと目を開いた。動きが止まる。
「思い出した。審神者の会議だ」
「審神者の会議、ですかな?」
「ああ、定例会だ。刀が一振付いて行くだろう。それに三日月が付いて行った日の夜、聞いたんだ」
そこまで言って、金魚のように口がぱくぱくと動く鶴丸。酷くもどかしい顔をすると、太刀とは思えぬ細い腕が、どんと屋根を叩いた。
「ああそうだった。確かにそっちが先だ。後から起こった事が衝撃的過ぎて、すっかりそんな話忘れてたぜ」
「あの、鶴丸殿」
訊ねようとした一期一振に、鶴丸は早口でまくしたてる。ずいと顔を乗り出して、人差し指を立てた。
「一期は聞いた事があるか分からないが、審神者になるには二つの道があるそうでな。一つは、俺たちの主のように、力が備わっている人間を政府が連れて来る場合だ」
「は、はあ」
「もう一つは、まあ世襲制と言う奴だ。由緒正しい審神者の血統族と言うのがいて、審神者を引き継いでいる」
「…」
「三日月の話じゃ、生意気な童が居たそうでな。一族皆審神者だとかで、随分と大きい顔で大きな口を叩いていたらしい。他の審神者どころか、政府の人間ですら手に余っていたそうだ。方や主は、定例会と言うのすら初めてだったらしいんだが」
鶴丸は宙を仰いだ。
「その主だけが、審神者と言う者の在り方を説いたのだと言って居た。主も子が居たからな。歪んだまま育つ子を、知らぬ振りは出来なかったんだろう」
その瞳が、悔しそうに細くなる。鶴丸は奥歯を噛むと、絞るように声を紡いだ。
「その時、そいつが言ったそうだ。貴方は、変えたい歴史を前にしても…同じ事が言えるのか、と」
「…それは…つまり」
「もしかすると、主にとって変えたい歴史を作ったのか」
「そ…んな…っ」
息が出来ない。
呼吸の仕方を忘れて、一期一振は茫然と鶴丸を見つめる。
「なるほど。君からこの話を聞かなけりゃ、俺は餓鬼の世迷言くらいで忘れていた話だが、こうして考えてみると繋がるな」
「ですが、定例会に居たと言うのであれば、審神者だったのでは?」
「その時点までは、な。歴史を変えた時点で、歴史改変主義者だ。刀が堕ちるのも、時間の問題だっただろう。三日月が遡行軍だと言ったのも頷ける。
そうなるとなんだ、主の家族を殺し、主にとって変えたい歴史を作ってみせただけじゃ飽き足らず、この本丸まで叩こうとした訳か。いやいや、餓鬼のする事ってのは…加減を知らないだけに手に負えない」
声が上ずってはいるが、鶴丸は笑い方を忘れたらしい。口端を引き攣らせながら、額を抑えた。
地平線から、一本の白線が昇って来る。
夜明けは訪れても、まるで晴れない胸の内を抱えた二人は、しばし黙ったまま空を見ていた。
頭の整理が追い付かない。
「鶴丸殿、これから一体どうすれ」
「ここにいましたか、一期一振」
口を噤んだ一期一振は、下を見た。こんのすけがこちらを見上げている。
「審神者様がお戻りになられまして、呼んでおります」
「わたしを、ですかな」
「至急来て下さい」
「了解致しました。すぐに」
腰をあげた一期一振の腕を、鶴丸が握った。相も変わらず固い顔をした鶴丸は、一期一振にだけ聞こえるよう、声を潜める。
「一期、出来るだけ話を伸ばせ。俺はその間に、加州たちをたたき起こして、事の次第を話して来る」
「分かりました」
「任せたぞ」
そう言った鶴丸は、少しだけ表情を柔らかくした。
何事もなかった素振りで徳利を持つ。
視線だけで見送られた一期一振は、部屋に戻って着替えると、足早に審神者の部屋へと向かった。見えて来た障子が開いて、髭切と膝丸が出て来る。
「やあ、えっと…」
「一期一振です、兄上」
「一期一振か、ありがとう肘丸」
「俺の名前は膝丸だ」
「そうだっけ。名前はどうも苦手でね」
にこにこと笑う髭切に、仏頂面の膝丸。どうやらこの様子では、向かった先で何かしらあった訳ではなさそうだ。
少し安心した一期一振が、挨拶を済ませて障子を叩くと、開いた先で審神者は、いつもと変わらぬ態で座布団に腰を下ろしていた。
「よう一期。来るのが速かったな」
「鶴丸殿と話しておりましたので」
「こんな明け方にか?」
「白湯を呑もうと部屋から出たら、鶴丸殿がまだ飲んでおりまして」
「鶴丸め。俺が居ないと思って羽目外したな…仲間外れにした罰で、朝一からの内番に入れてやるか」
子どもが悪戯を思いついたような顔でにやにやと笑う審神者には、先ほど鶴丸と立てた仮説は似合わない。どういう顔をしていいのか分からない一期一振を見た審神者が、少し笑った。
「一期、頼みがある」
「何でしょう」
「政府に屋敷を用意して貰った。練度の低い刀を連れて、しばらくそっちに移ってくれないか」
一期一振は耳を疑った。
面を食らったような顔でいる一期一振に、審神者はのんびりと言葉を続ける。
「知ったんだろう、全部」
「な――!」
「お前は分かりやすいからなぁ。その様子じゃ、一から十まで説明する必要はないんだろう?」
「…では、主の家族が殺された、と言うのは…」
「本当だ」
「殺したのが、審神者だと言うのは」
「本当だ」
世間話をするような他愛ない口調で頷いた審神者は、机に肘を乗せると、頬杖をついた。
「他にお前が訊きたくなる事…と、言えば。そうだな。何で練度の低い刀を任せるのがお前か、と言う事か」
審神者は息をつくと、あっさりと紡いだ。
「端的に言うとするならば、俺がお前を好きだから…だな」
「……」
言っている意味が分からない。
言葉を忘れてしまったように座り込む一期一振を、審神者は横眼で見る。
「最初はまあ、粟田口の長兄であるお前を鍛刀するのに時間が掛かりすぎたのもあったんだけどな。短刀たちと待ってるうちに、俺もいつの間にかお前を待ってたんだよ。
んで、いざ顕現したお前は…何と言うか、羨ましいくらい真っ直ぐでなぁ…」
審神者はしみじみと頷いた。
「俺が長い時間生きるにつれて忘れた人の心を、付喪神であるお前が持っていると言うのは…何と言うか、変な感じだったよ」
夢でも見ているのだろうか、と一期一振は思った。
ならば、目が覚めないで欲しい。もう少し先まで見たい。
出て来ぬ言葉の割に、胸の中は饒舌に並べたてていた。願わないと、目が覚めてしまう気がして。
そんな一期一振を見る審神者は、追い付いて来ていない事を理解した様子で、「まあ座れよ」と声を掛ける。 ぎこちなく座った一期一振を眺める審神者は、ぼんやりと口を動かした。
「どこから話すかなあ。…お前が、俺の家族が殺された話を知ってると言う事は、三日月が見せたんだろう?」
こくん、と人形のように頷く。
「これは、俺も本丸を急襲された後に政府の人間から聞いた話だからな。三日月も知らない話なんだが、そもそもその審神者って言うのは俺が会った時点で、齢二百は越していたらしい」
「…」
「驚きだろ? 見た目が子どもだったからな。世襲制の審神者だって言うから、てっきり親の七光りで育ったボンボンだと思っていたんだが…そうならそうと言ってくれれば、俺も余計な事は言わなかったんだ。
向こうから見りゃ、俺の方が青二才だった訳だからな。そりゃぁ偉そうに審神者について正されれば、腹も立つだろ」
「ちょ…、と待って下さい、主。生の長い審神者はそう居ないはずでは」
「だからって俺だけじゃないさ。まあ、かの審神者がどうして長寿になったのか俺は知らないんだが、長い事生きているその審神者の気持ちは、今の俺に分からなくもないんだ」
審神者は髭を手遊ぶように撫ぜたまま、瞳を伏せる。
「麻痺してくんだよ。ずーっと生きてると、人の心と言うものが、摩擦で何も感じなくなってくる。時間を護る事がそんなに大切かも分からなくなる。だって、俺は時間なぞに縛られていない訳だからな。そう言う感覚が、だんだん人よりも人非ざる者に近づいて行く訳だ」
「ですが主は、歴史改変主義者ではありません」
「そう、歴史改変主義者じゃない。…って言うだけの話だったんだ。ずっと。お前が顕現するまでは」
審神者は笑った。
「なんだかなあ。当たり前の事を、当たり前に受け入れるだろう。お前は。そう言うのはな、お前が思っているよりずっと、強くなくちゃ出来ない事なんだよ。
当たり前に弟たちを可愛がって、当たり前に自分が正しいと思う事を護って、当たり前に…俺を見る気持ちを受け入れる。お前を見ていると、俺も昔はこうだったと思い出す事も多くてな。いつの間にか、隠れて良く見たものだ。
それに気付いた時は、ああ嫁さんに恋した時もこんな感じだったなぁ、って笑っちまってだな」
遠くを見るような瞳をしていた審神者は、ふと表情を引き戻すと、一期一振を見る。その瞳が一瞬、切なく翳った。
「そういう訳でな。おそらくその審神者が…アイツが、もう一度この本丸を襲って来る時に、狙うとしたら必ずお前だ」
「何故、分かるのですか」
「俺がお前を好きだから、だよ。あの時と一緒だ。俺の一番大切な者を壊して、審神者である意味を問うてくる」
「そんな…勝手な」
「まさかと思って話してみたが、あの一期一振はアイツの刀だ。本丸を急襲してきた刀と、刀の種類があっている。下品な布石を置いてくるのは、相変わらずだな」
「…」
「俺が一期一振を好いている気持ちを知っている、と言う意味だろう。そこでまんまと折られりゃ、俺はまた自分を責める。審神者である意味を、自分に問う。遡行軍につけば、アイツの思う壺だ」
「主…」
「アイツが二百年俺を放置してたのは、思わぬ自分と同じ身になった俺を観察していたんだろう。アイツは、俺に自分を重ねてみた。長い人生生きて退屈だろうと言っていた訳だ。だけど、俺が退屈な時間の中で、お前を少なからず想っている事を知って、再び俺を崩しに来る布石を置いた。おもちゃを見つけた子どもだな。下手すりゃ、今日明日にでも襲って来るかも知れない」
とんでもない男に目をつけられたもんだと、審神者はぼやいた。
「以上を踏まえた上でお前には今すぐ荷物をまとめて、練度の低い刀たちと一緒に屋敷を移って欲しい。心配しなくとも、俺は大丈夫だ。この二百年、死ねないこの身体をただ生かして来た訳じゃない。俺だって刀を研いできた。次は返り討ちだ。アイツを政府に引き渡して、お前たちを迎えに行く」
審神者の瞳が強くなる。射抜かれた一期一振は、膝の上で拳をギュッと握った。
「主は…」
三日月が見せた過去の夢。過ごして来た時間。色んな事が頭を流れて、たまらなくなる。
「主は、刀を置いて行けないのではなかったのですか」
問うた言葉に、審神者は押し黙った。
あのとき言われた言葉を胸の内で反芻して、一期一振は言葉を選ぶ。
「…」
「わたしは…わたしたちは、皆貴方の刀です」
そうして一期一振は真っ直ぐと伸ばした己の胸を、ドンと拳で叩いた。
「貴方のここが折れない限り、貴方が振るう刀はわたしたちのはずです。折れる事を恐れて隠されるなど刀の恥。貴方が折れるまで、共に戦います」
「……一期…」
「良く言った! いち兄!」
威勢のいい声と共に、すぱーんと音を立てて障子が開く。
よくもまあこれだけの人数が聞き耳をたてていた事に気付かなかったなと思うほど、全振りが横並びに二列にも三列にもなっていた。審神者と一期一振が呆気にとられる中、真ん中に居た薬研は声高に言うと、大きく一歩を踏み出す。
「そうだぜ、大将。納屋に押し込められる気持ちなんざ、俺っちたち三振りだけが知ってりゃ十分だ」
「……やっと復讐できるね。向こうから来てくれるなんて、僕は嬉しいよ」
「あるじさま、めにものをみせてやりましょう!」
爛々と今剣の目が輝くのを見た審神者は瞬き二回。一期一振を見ると、困ったような顔をした。
「なんだか最近、皆がお前に似て来た気がするんだが…」
「それは違います。主」
一期一振は笑って言って、首を横に振る。
「主の心を頂いて出来たわたしたちです。似るとするならば、貴方以外におりますまい」
「…」
「貴方は初めから、誰より勇敢な審神者です。主」
「そうそう。なんか、麻痺して来ちゃったとか言ってたけどさ。ホントに麻痺してる人間は、若い審神者助けに、単騎の軍で突っ込んで行ったりしないって」
呆れたような声をあげる加州の傍らで、燭台切が笑って頷く。
「カッコいいと思うよ。ぼくは」
「……お前たち…」
「みんなと、戦わせて下さい。主様」
「五虎」
うるうると瞳を潤ませた審神者は、ぼろりと涙を零した。泣きじゃくる審神者に、厚が苦笑する。
「ホントに、大将はよく泣くよなあ」
「お前たちが泣かせたんだ」
ぐいと袖で涙を拭って、審神者は己の刀たちを見回した。決意を込めて声を上げる。
「…俺の為に、戦ってくれ」
「まあ正直な話。歴史を護れと言われるより分かりやすくていいと思いますよ、ぼくは」
「……宗三。お前なあ…」
くすくすと笑う宗三を、長谷部が呆れた瞳で睨む。
「主、もう一個…言うべき事があるんじゃない?」
伺うような声で言う加州に、審神者は確かに頷いた。
「そうだな、清光。……誰一人、折れてくれるなよ」
おお、と刀たちが声を上げる。
「審神者様!」
ざわめく刀たちの合間を、床を滑るようにして駆けて来たこんのすけは、声を張り上げた。
「西の空に遡行軍の干渉を確認…! 攻めて来ると思われます!」
「そうか」
審神者は頷くと立ち上がった。
「迎え撃つぞ」
息を吸って、前を見据える。
「俺たちの家を護る。全振り、俺に付いて来い!」