ドリーム小説
大阪城へのゲートが開いて十日程経った。
しとしとと糸のように降る雨が地面を打つのを見ながら渋茶を呑んでいると、床が軋む音が聞こえる。
審神者が顔をあげると、呆と灰色の空を仰いでいる一期一振がいた。持って来ようとした茶菓子はすっぽりと頭から抜け落ちたらしい。心非ずなその姿はらしくなく、苦笑した審神者に気付いた一期一振はハッと小さく身体を揺らした。
「申し訳ありません、主」
慌てて一歩を踏み出した一期一振。気にするなと手を挙げると、彼は身を小さくした。
「弟たちが心配なんだろう」
「そう…ですな」
連日、博多を筆頭に、弟たちが入れ替わり立ち代わり大阪城へと出陣している。
目指すはまだ顕現していない信濃と毛利なのだが、これがなかなか見つからない。日ばかりが重なる今に、一期一振は心痛した声をあげた。
「無理はしていないでしょうか」
「無理は…まあ、してるだろうなあ」
審神者は苦笑いを誤魔化すように渋茶を啜る。
仕える主の鍛刀運を含め、もろもろの運が悪い事を知っている短刀たちは毎度のごとく諦め半分で、まだ見ぬ弟たちの為と疲労を押して出陣している。
見ている審神者としてはこれ以上申し訳ない事もないのだが。
「わたしが出陣出来ればいいのですが…」
言って、一期一振は顔を曇らせた。
隣に居る刀は、審神者以上にやきもきしているらしい。宥めるように肩を叩くと、塞いだ笑みが返って来た。
「最深部に潜んでる遡行軍はなかなかの強敵だからなあ。一期の練度じゃあ、探索はちょっと厳しいだろう」
「分かってはいるつもりですが…歯痒いものですな。弟たちよりも先に顕現していたならば、今頃戦っている弟たちを護れたのかと思ってしまいます」
「まあそう言うなよ、一期。お前の弟たちはああ見えて強い。心配してやれば、それでいいんだよ」
それに、と審神者は付け加えた。
「お前の鍛刀が遅くなったのは、お前の責任じゃなく、俺の運の無さだ。あまりお前が気に病む必要はない」
冗談めかして言うと、真面目な刀は盆を落とす勢いで慌てる。空色の髪の下にある顔が、白くなったり青くなったりと忙しない。
「そう言う意味では決してなく…!」
「分かってるよ」
笑いながらそう言って、審神者は冷めた渋茶を啜った。
隣に置かれた茶菓子を手に取ると、口に含む。
「お、栗饅頭か」
「歌仙殿が万屋で見つけられたそうです」
「さすが歌仙。こういう所で感じる秋が乙なんだよなあ」
ふっくらと煮てある栗が、口の中で解けるように広がって行く。渋茶を呑んだ審神者が息をついていると、一期一振は腹の底から重い息を吐いた。吐いたあとで、口を押える。
「す、みません」
「毛利と信濃か。来るといいな、一期」
「…はい」
「来ない方が普通なんだけどな。水を注すようで気も引けるが、そう簡単に持って帰って来れるなら、俺は二百年もお前を鍛刀するのに苦労していないよ」
「…そうですな。ですが、あの大阪城の下に取り残されている弟たちがいると思うと…」
緩く首を振った一期一振。
いたたまれない横顔を見ていた審神者の視線に気付いた一期一振は、首を傾いだ。
「どうされましたか、主」
「いや…お前は、この本丸で一番最後に顕現したからなのか、時々妙に人間臭いよな」
「そうでしょうか」
「ああ。時々…お前は俺よりも人間に近く見える」
ぽつりと言った言葉の真意を一期一振が問うより先に、本丸に吹き込む風の流れが変わった。
「審神者様、大阪城よりゲートが開きます」
どこより現れたのか、こんのすけの声がすぐ後ろから聞こえて、審神者は湯呑みを置くと立ち上がる。
「了解。行くか、一期」
「はい」
ゲートから帰還した短刀部隊。部隊長の博多はサンタクロースさながらの大袋を背負って、傷と埃まみれの顔でニッと笑った。
「さっすが大阪城! これだから、探索は止められんとばい!」
「つってもだ、博多。さすがに三往復目ともなると、ちょっとな…」
薬研がげんなりとした声を上げる。
寄り添うように帰還した前田と平野が苦笑をし、包丁はがっくりと項垂れた。
「これでお菓子でも落ちてたらなぁ」
「大阪城の地下にあるのなんか、いつの菓子かわかんねぇぞ、包丁。落ちてても喰わない方が身のためだ」
「えー、厚。だって、そこにお菓子があるんだろ? お菓子食べて食あたりになる事はあっても、手を伸ばさない理由にはならないだろ」
「なんだその、そこに山があるから登るんだー! みたいな発想は」
「覚えておいた方がいいぞ、厚。その人妻の二つの山を超えて、初めて男になれるんだ。ちなみに俺は、出来るだけ高い山に登りたい」
「何の話をしてんだ、お前」
妙に大人びた顔で、包丁が厚の肩を叩く。
相も変わらず元気な弟たち。その姿を見た一期一振は安堵の息をついたが、方や隣に立って居た審神者は顔を顰めた。
髭を手遊ぶように撫ぜると、唸るように尋ねる。
「博多」
「どけんしたと。そげん難しい顔ばして」
「お前、なんか妙なもん拾ったか?」
「なんも」
「じゃあ、触ったとか」
「触った…? ああ、そう言えば、いち兄」
博多の言葉に、一期一振は己を指差した。
「わたし、ですかな?」
「ウチのいち兄じゃなかと。他所の本丸のいち兄が折れとったけん…」
「触ったのか」
「忍びなかけんね。地べたから、踏まんよう上に」
そうか、と言う審神者の声はどことなく釈然としない。仏頂面のまま、審神者の瞳が険を帯びた。
「何故それが一期一振だと思ったんだ?」
「思ったも何も、兄弟の刀ばい? 見間違える方が難しか」
当然のように言う博多。審神者はいつになく真面目な声音で相槌を打つと、薬研に目を向ける。
「なるほどな。薬研」
「ん? 何だ、大将」
「疲れている所悪いが、走って石切丸と太郎太刀を呼んで来てくれるか。まあ、もしかしたらもう向こうから来てるかも知れないが、俺と博多の会話をすりゃぁ要領分かるだろうから、先に説明しといてくれ」
「…分かった」
頷いた薬研が駆けだして、審神者は短刀たちを見渡した。
「怪我の具合はどうだ?」
「高速槍が居たからな。さすがに無傷って訳にも行かないが…大した怪我はしてないぜ」
「なら、手入れ部屋へ。こんのすけ、任せていいか」
「構いませんが、審神者様は?」
「俺はちょっと野暮用が出来た。博多、石切丸が来たら、お前は念のため加持祈祷して貰え」
「加持祈祷?」
審神者がちょいちょいと手招きすれば、博多が小走りで駆けて来る。しゃがみ込んで小さな博多の目線にあわせると、審神者はそのくりくりとした二つの眼を見据えた。
「お前が触ったのは、他所の本丸の一期一振と言うよりは…遡行軍の太刀だな」
「遡行軍!? ばってん、敵さん見た目はみんな一緒やなかと? 俺が見たのは、確かにいち兄やったばい!?」
「まあ、兄弟刀…だからか、ふと縁が繋がったんだろ。石切丸に穢れを落として貰えば心配ない」
「なら、主人は…」
「俺はちょっと…その一期一振と話して来る」
「は?」
「すぐ戻る。あと……まあ言わなくても大丈夫だろうが、太郎には、俺が抜ける分、本丸の結界頼むと伝えてくれ。微弱とはいえ邪気が入り込む訳だからな。遡行軍に感知されちゃぁ面倒だ」
審神者の手が博多に伸びる。肩についた塵を取るように動かされた瞬間、審神者の身体がぐらりと後ろに倒れた。
息を呑んだ博多が手を伸ばし、支えきれなかった彼はそのまま審神者の胸に雪崩れ込む。
「主君…!?」
「大将…!」
「主…っ」
「近づかないように!」
駆け寄ろうとした粟田口は、割り入って来た石切丸の声に足を止めた。薬研に連れられた石切丸は、険しい顔のまま首を横に振る。
「念の為、触らない方がいい。太郎太刀」
「ええ。主はわたしが引き受けましょう」
対する太郎太刀は相変わらず涼しげな顔のまま。す、と背筋を伸ばして歩み寄って、博多を抱え起こした。大きな手が、慰めるように背を撫ぜる。
「主の気まぐれを、貴方が気に病む事はありませんよ。博多藤四郎」
「主人は…」
「大丈夫です。気が済めば戻ってきますよ。それよりも、貴方は石切丸の祈祷を受けた方がいい。私達付喪神にとって、邪気はあまり相性のいいものではありませんから」
「…分かった」
難しい顔をしたまま、博多は頷いた。
石切丸の方へ走って行く足を一度止めて、気を失っている審神者に目を向ける。
「主人が先に目を覚ましたら、伝えとって。博多が怒っとるって。おかず一品くらいじゃ、手は打てんって」
「…分かりました」
太郎太刀が微かに笑いながら頷くと、博多は石切丸と共に屋敷へと上がって行った。
その背を見送った太郎太刀は審神者の腕を取ると、ひょぃと肩に乗せる。人形のような審神者を緊張して見ている粟田口に、太郎太刀は無表情のまま口を動かした。
「貴方たちは手入れ部屋へ」
薬研が一期一振を忍ぶように見る。一期一振がそっと頷くと、薬研は務めるように明るい声をあげた。
「行こうぜ、兄弟」
「ですが、薬研兄さん」
「大丈夫だ。…俺たちのいち兄がついてる」
な、と投げかけられて、一期一振が前田に微笑む。前田は胸の前でぎゅっと祈るように手を握ったあと、面を上げた。
「…分かりました」
短刀たちが互いの背中を押すようにして去って行く。
歩き出した太郎太刀の背に続くと、彼は凛としたままため息を吐いた。
「相変わらず、無茶をしますね」
「太郎太刀殿、主は…」
「祓えば済む博多の穢れを、わざわざ身に受け昏倒してる…と言った所でしょうか」
「なぜそんな事を…」
「一期一振だったから…かもしれませんね」
金色の瞳が一期一振を映す。
「貴方が顕現されるまで二百余年。他の兄弟を揃える事が出来ても、粟田口は長兄である貴方に恵まれなかった。主は随分と心を痛めていましたから、いつ頃からか自分も貴方を待つようになったのでしょう。主にとって貴方は端から、ある意味特別な存在なんですよ、一期一振」
顕現してまず目に入ったのは、審神者の泣き顔。
その顔が鮮明に浮かぶ。
「我らを家族と呼びながら…、誰よりも主は家族と言うものに焦がれている。もう二度と、彼の手に戻る事のない家族です。それを、我らの兄弟と言う関係性に重ねて見ている。この矛盾の先にある今に、果たして主は存在しているつもりなのでしょうかね」
次いで浮かんだのは、墓前に添えられた彼岸花。赤い花の中に、一輪混ざる白い花。
遠くを見るような一期一振を眺める太郎太刀の、赤い紅に彩られた瞳が細くなる。薄い唇がほんの僅か、綻ぶように持ち上がった。
「人の身を持つものも、人の心を持つものも。……常に一つでは成り立たない。難儀なものですね。一期一振」
審神者の部屋へと付くと、待っていたように青江が腰を上げた。緑色の髪が、絹のように肩から滑り落ちる。
「石切丸に駆り出されてしまってね。布団は敷いておいたよ、太郎太刀」
「ありがとうございます」
「必要な物は君と次郎太刀の部屋に置いておいた。石切丸は、加持祈祷を邪魔されると腹を立てるからね。充分に用意したつもりだけれど」
くつくつと青江が笑う。
「何か他に思いつくものはあるかい?」
「今の所は。…ですが、そうですね。主がすぐに戻らなかった場合の事は…考えなければなりませんね」
太郎太刀が寝かせた審神者を、覆いかぶさるようにして青江が見た。その瞳に弧を描くと、彼はふぅん、と声をあげる。
「なかなか愉快な事になっているようだね」
「この手のものは、貴方の方が視えやすいのでしょうね」
「おや。優しい言葉を選んでくれるね、太郎太刀。素直に、僕はこういう俗物的で即物的な物に近いのだと言ってくれても構わないよ」
青江は笑いながら、前髪をかきあげた。
赤と金の瞳でまじまじと覗き込みながら、訊ねる。
「本丸の結界は?」
「わたしと次郎が何とかしましょう。たまに酒を呑まぬのも、あれの身体には良いでしょうし」
「ううん。次郎太刀の場合は、酒を呑んだ方が調子が出そうな気がするけれどね」
軽い口調でそう言って、青江は体勢を戻した。首を捻ると、愉快気な顔のまま宙を仰ぐ。
「主も、何を考えているのやら」
「どう思いますか。にっかり青江」
「戻りが遅い時の事を考えるなどと殊勝な事は言わず、今すぐにでも引っ叩いて連れ戻すのをお勧めするよ。遡行軍に魅入られでもしたら…うん、この先は憶測でも言いたくないからね」
「ならば――」
青江と太郎太刀の瞳が、部屋の隅へと移った。
釣られたように見る一期一振の瞳には何も見えない。
「君なら出来るかい? 三日月宗近」
静かに問うた青江は、ああ、と相槌を打った。太郎太刀も頷いている。
「なるほど。一理はありますね。ですが、どうするつもりです」
「…確かに、それがいいかも知れないね。軽傷とはいえ、薬研が手入れ部屋から出て来るのを待つ時間も惜しい」
「あの」
見えぬ聞こえぬ所で進む話に、一期一振はようやく口を挟んだ。
「お二方…いえ、お三方は一体どういう話を?」
「大した話じゃないよ。一期一振。蛇の道は蛇、と言うだろう?」
おもむろに立ち上がった青江が、一期一振を見下ろす。にんまりと笑った彼は、腕を振り上げた。
「一期一振には一期一振って話かな」
刹那、首筋を強打されて痛みが走った。視界がぐるりと回って暗転する。
「…っ」
首筋を抑えた一期一振は、真っ暗な中に立って居た。
どこまでも広がる真っ暗闇に、ぽつんと一人。まるで自身が光っているように、ぼんやりと己だけが見える。
「ここは…一体…」
「なに。主の中だ」
突然聞こえた声に首を巡らせれば、三日月宗近が立って居た。
一期一振同様、暗闇の中に立つ彼は猫のように目を細める。
「こうして話をするのは初めてだな、一期一振。にっかり青江を恨んでくれるなよ、あれは、俺の言葉に従ったまでだ」
「三日月殿の言葉に?」
「蛇の道は蛇。一期一振には一期一振。そう言う話だ」
場に不釣り合いな程のんびりと笑って、三日月は手招く。
「こっちだ。足元に気を付けろよ、一期一振」
「気を付けろと言われましても…」
こうも何も見えないんじゃ、気を付けようがない。
一期一振が皆まで言うより先に、突然辺りに灯りが燈った。暗闇に慣れた目には僅かな灯りでも強烈に眩しく、思わず目を瞑る。しばしの間をあけて、恐る恐ると開くと、暗闇だったはずの場所が石造りの階段になっていた。下へ下へと続く階段の先に、三日月が立って居る。
眩しいと思ったのは、壁にかけられた蝋燭。
ぽつぽつと等間隔で置いてある蝋燭の頼りない明かりが、足元の階段をおぼつかなく照らしている。
ぐるりと見渡した一期一振は、驚いた顔のまま尋ねた。
「主は、この先に?」
「ああ。一応気を付けるつもりがあるようだな。自身の内に牢を作って、そこに穢れを封じたのであろう」
「穢れ、ですか」
「同じ一期一振として、穢れと言う言葉は気に障るか?」
からかうように三日月が笑う。
一期一振は、素直にいえ、と首を振った。
「気には障りませんが……、なぜ…遡行軍へ堕ちたのかは気に掛かります」
「なぜ、か」
三日月は笑って言って、ゆるりと歩き出す。青い袖がふわりと宙を舞った。
「堕ちる事など、一瞬あれば出来るのだろう」
「一瞬、ですか?」
「一瞬だな。一瞬で俺も…捕らわれた。今にも折れる俺を見て、泣いている主を見たあの一瞬だ。俺たちも人も、意識して堕ちる事などは出来ないのだ。気が付いたらここにいる。そういうものだろう」
「そう言うものでしょうか」
「おそらくな。だからこそ…一度は堕ちても、救われる事を望んでしまう」
一期一振は、前を歩く背中を見る。
この刀も救われる事を望んでいるのだろうか?
見ていると、首を巡らせた三日月と目があった。くすりと首を傾いで笑う男の姿は、どこまでも美しい。まるで闇夜に浮かぶ月のように、佇む姿は薄暗闇に映えた。
「救いとは、何であろうな? 一期一振」
「わたしには…。三日月殿は、どう思われるのですか?」
訊ねると、三日月は殊更笑った。瞳に掛かる三日月が更に細くなる。
「救いとは…。そうだな。見ようによっては、すぐそこにあるものだろう」
「見ように、よっては?」
「見えるか見えぬかを選ぶのは本人であり、見えるそれを、どう見ようとするのかもまた本人…とでも言うべきか」
立ち止まった三日月。
横に並ぶと、すぐ先は開けている。その奥から声が聞こえた。
三日月を見ると、彼は至極穏やかな笑みを浮かべる。そうして、詩を読むように言葉を続けた。
「あるのだから、掴めば良いのだ。……水に映った月を掴むより、話は容易いのだと言ってやれば良い」
そう言いながら三日月は一期一振の手を掴んだ。そのまま力任せに背を押す。
「あの、みかづきど…!」
つんのめった一期一振は、半ば転がるようにして前へと進んだ。
一歩、二歩とよろけてようやく止まると、驚いた顔の審神者と目が合う。
「一期? なんでお前、ここに…」
「その、青江殿が…」
「青江?」
瞬いた審神者は、なるほどと言いながら、頭痛の種を抑えるようにこめかみに人差し指をたてた。
「俺の中が見えた訳か。それで、三日月を引っ張りだして来たんだな」
「引っ叩いてでも連れ戻すように言われたのですが…」
一期一振の瞳が、審神者の奥にある牢を映す。その中にはまったく自分と同じ顔をした、だが瞳は真っ黒に染まった一期一振が座っていた。そのあまりに異様な姿に、思わず小さく息を呑む。
すぐさま怯んだ気を引き締めて、一期一振を見据えた。
「それが…遡行軍に堕ちた、一期一振…ですな。主」
「遡行軍に堕ちた…っちゃぁ、堕ちたんだろうな。そのまま堕ちてりゃ楽だったんだろうよ」
くたびれた顔で、後ろ頭をかく。
「けどまあ、折れる寸前で光を見ちまったんだろうな」
「博多…?」
闇の中で、一期一振が声をあげる。
審神者は目を向けると、その真っ暗な瞳に目を合わせた。
「だからな。お前が見た博多は、俺の刀だ。お前の弟じゃない」
ぼろりと、黒い瞳から涙が零れ落ちる。
床を濡らす大粒の涙。しゃくりあげた一期一振は、声を震わせた。
「ならば、わたしの弟は…博多は、乱は…薬研は、信濃は、鯰尾は…どこへ…」
「何処へ行ったのか、知ってるのはお前だろう」
「わたし、が?」
「そう。お前だけが知ってるんだ。お前の弟たちは、どうなったのか」
暗闇の中にいる一期一振は何を言われているのかわからないような顔をした。焦点の合わない、底抜けのような瞳で首を傾げる。
「どう、とは? どうもなっておりません。博多は先ほど、わたしの前に…」
「だから、それは俺の刀なんだ」
力のない淀んだ瞳は、持ち上がるようにして一期一振を見た。
「わたし?」
「そう。お前だ。分かるか? お前は、一期一振だ」
「わたしは…いちご、ひとふり」
「せっかく闇の中から、己の形を取り戻したんだ。祓われずに、自分で上がれ」
「自分で、上がる?」
繰り返す一期一振。
審神者はその姿に、ゆっくりと言葉を選ぶようにして声をかける。
「お前は、弟の事は思い出したんだよな? なら、お前が一期一振だって事も思い出さなきゃ駄目だ」
「弟は、います」
そう言った一期一振は、突如怒りに飲まれるような顔をした。噛み切らんばかりに下唇を噛む。力任せにどん、と牢を揺らして、叫んだ。
「弟はいます。だが…皆あの男に…! あの審神者に、折られたッ。弟たちを取り戻したくば、時間を遡行しろと! わたしは…時間を戻して、弟たちを助けなければ…!」
闇が濃くなった。
ぐるりと濃い闇が一期一振を包むのを、審神者は静かに見据える。
「いいか、一期一振。その最低な野郎がお前に何を言ったのかは知らないが、どれだけ時間を遡っても、弟たちはお前の所には帰って来ない」
「…っ、そんなはずは…!」
「変えられるのは、人の時間だけだ」
まるで子どもに言い聞かせるような声で、審神者は一つづつ言葉を発していった。
「ちょっとでも光に当たって、自分の形を思い出しかけているのなら、思い出せ、一期一振。お前はどんな形だ」
「わたしは…粟田口、吉光の…太刀で」
涙に揺れる一期一振が、すがるような目を向けて来る。
その真っ暗な瞳がまるで別人だと言うのに、なぜか自分を見ているような気持ちになった一期一振は思わず後退さった。
「踏ん張れ、一期。これは、お前の影だ」
「わたしの…影ですか? 主」
「ああ。そして、いいか一期一振。こいつは、お前の光の部分だ」
「わたしの……光の」
一期一振は、床を踏む足に力を込める。
大きく一歩を踏み出すと、審神者の傍らにしゃがみこんだ。微かに震える手で牢を掴むと、暗闇の中の一期一振に視線を合わせる。
「わたしは、一期一振。粟田口吉光によって造られた唯一の太刀です」
「ゆいいつの、太刀…」
「弟が居ます」
「弟…」
「わたしにも居ます。貴方の弟は?」
「わたしの、弟は…」
声が詰まる。涙が流れる。黒い目をした一期一振は、わ、と声を上げた。
「博多! 乱! 薬研…! 信濃、鯰尾…ッ。わたしの…可愛い、弟たちだ…!」
ぼたぼたと涙が落ちる。審神者が静かに手を翳すと、そこにあったはずの牢が消えた。掴んでいた牢が無くなった事にも驚いたが、審神者が闇に向かって歩いていくのにはもっと驚いた。
口を開いた一期一振を、審神者は唇に手を添えて黙らせる。
そうして歩み寄った一期一振の背をあやすように撫ぜた。
「もう大丈夫だ。思い出したなら、帰れる」
「帰れ…ますか?」
「ああ。帰れる」
頷く審神者を見つめる一期一振の目に、灯りが燈る。じわじわと広がる金色の瞳から、溢れるように涙を流した一期一振は、唇を震わせた。
「帰りたいです。弟たちの所へ」
「ああ。すぐそこだ。怖い事なんか、もう何もないよ」
泣きながら頷いた一期一振が、弾けるようにして掻き消える。
キラキラと舞う光の粒を見ながら、審神者は「なあ」と思い出したような声を上げた。
「覚えてるか、一期。お前が顕現した日の夕食でさ、弟たちに囲まれて、お前が初めて光忠の料理を口に入れた時。桜が舞っただろ?」
「…はい」
「庭で、みんなで初めて遊んでいた時も…桜が舞ってたよな」
「そう…ですな」
「アイツも、そんな時間に帰れたらいいな」
祈るような口調で言って、立ち上がった審神者はうんと背伸びをする。腰を回して、屈伸をした。
「ああ。ずっと座ってたような気になるから不思議だよな。俺たちも帰るか、一期」
一期一振の傍らを通り過ぎようとした審神者は、その腕を取られて後ろに傾く。踏ん張ったものの、耐え切れずに尻もちをついた拍子に走る腰への激痛に、呻きながら耐えた。
「痛いって、一期。おっさん舐めるな。ちょっとの衝撃が命取りなんだからな」
「痛いのは、わたしです」
落とすように呟いた一期一振。思いもしない言葉に審神者が驚き、一期一振は堰が切れたように叫んだ。
「貴方の一期一振は、目の前に居るわたしです! そこに居た一期一振じゃないっ」
「分かってるよ、そんな事」
「ならば一期一振への優しさは、全てわたしに向けて頂きたい!」
真っ直ぐと見据えた先で、審神者の瞳が開いて行く。狼狽するように視線を彷徨わせて、逃げるように逸らされた。精悍な顔を突き付けて、一期一振は珍しく声を荒げる。
「それから、初めての夕食で、弟たちに囲まれて嬉しかったのはもちろんです。ですが、わたしが顕現したと、泣いてくれる主の元に顕現できた事を嬉しく思いました。そんな本丸の食事が頂ける身であるわたしを、贅沢に思えたからです」
「…」
「庭で初めて遊んだ折、貴方が弟たちに混じっていつも遊んでくれていたのだと知って、嬉しかった。その全てで咲いた桜です」
「…もうわかったからいい」
「いえ、主は分かっていません。貴方はわたしたちを家族だと言いながら、いつも他人事のようです。刀を慈しみながら、ご自身は平気で無理をする。まるで、貴方だけ輪から外れているような…、いえ、外れていたいように思えます」
「一期、そこから先は、あまり聞きたくない」
「聞いて下さい」
耳を塞ごうともがく審神者の両腕を捕えて、一期一振はずいと顔を近づけた。金色の瞳に、今にも泣きそうに顔を歪めた審神者が揺れている。
「貴方の一期一振がわたしであるように、わたしの主は貴方です。貴方がいて…」
寝癖のついた髪。中途半端に伸びた髭。皺の多い目元。見下ろした一期一振は、なぜだか心がギュッと狭くなった。抑えきれなくなったものがあふれ出すように、声を絞り出す。
「…貴方がいて、わたしの世界は初めて回るのです。そこに貴方がいないなどと言う事は許されない」
その瞬間、審神者は酷く傷ついたような顔をした。
痛みに耐えるように寄せた眉間の皺の下で、ギュッと目を瞑る。
「……分かってる」
弱弱しい声は、今にも消えそうな程細くなった。
「分かってるんだ。一期」
審神者の声が遠くなって、一期一振は瞼を重く感じた。ゆっくりと開くと、眠っている審神者の顔が見える。
跳び起きると、首が痛んだ。
「すまなかったね、一期一振。下手に加減をして途中で起きられても困るから、思い切り落とさせて貰ったよ」
次いで見えたのは、悪びれもなく笑うにっかり青江。
その奥に座る博多の膝の上に乗せられている太刀を見た一期一振は、その刀が牢の中で見た自身と重なって目を見開いた。
「博多。それは――!」
「そげん心配せんでも、大丈夫ばい、いち兄。次郎太刀について行って貰ったけんね。青江に視える話を聞きよったら、やっぱり…どうしても、あの場に置いておく気にならんかったと」
「だが…」
「君たちが、彼を昇らせた後に触れさせたからね。博多が邪気を受ける事は無いよ」
「そう――ですか」
「んぅ…?」
安堵した一期一振の耳に、寝ぼけた審神者の声が届く。
見ると、身じろぎした審神者の目が薄らと開き、天井を映した。
「おはよう、青江」
「おはよう、主。君が随分とお寝坊だったせいで、皆カンカンだよ」
「しまった。口止めを忘れてた」
間の抜けた事を言って、のっそりと起き上がった審神者は、稀に見る二日酔いのように額を抑える。そうして博多を見、その膝に置かれた太刀を見ると、目を細めた。
「取りに戻ったのか、博多」
「こんのすけに頼んだと」
「そうか」
「主人、俺は怒っとるけんね」
「…」
「やけん、このいち兄。俺に連結ばしてくれん?」
審神者は苦笑する。
「お前の練度は一番上なんだが…まあ、そう言う話でもないんだろ」
「うん。そげん話やない。遡行軍の太刀…じゃなくて、いち兄に見えたのは、きっと、連結ばせって事やと思うけん」
「分かった」
「待ってくれ、博多」
割り込んだ一期一振は博多から審神者へと目を移した。
「主、この一期一振は…わたしに連結をして頂きたい」
「いち兄」
「博多。この一期一振はね。弟たちを護ろうとして…闇に捕らわれたんだ。ならば、わたしと共に、これからは弟を見守りたいはずだ」
「…」
博多が一期一振を見る。
一期一振が博多を見る。
その間は数分。ややあって、一期一振は付け加えた。
「博多。夕食のおかず、一つで手を打つと言うのはどうだろう?」
にっこりと笑う一期一振に、博多は虚を突かれたような顔をする。子どもらしく噴き出すようにして笑うと、手を叩いた。
「しょうがなかね。ばってん、二つは貰うたい」
「ああ」
「なら、主人は全部はくれなやね」
思いもかけないお鉢が回ってきて、審神者は目を剥く。布団を持つ手があからさまに震えた。
「ぜ…ん、ぶ…だと!?」
「あたり前たい。ものすごく心配した、相応の対価は貰わな!」
「なるほど、じゃあ僕は、明日のおかずを貰おうかな」
のんびりと青江が笑う。
その姿に、審神者は噛みつくように叫んだ。
「鬼か! 青江ッ」
「一期一振は明後日と明々後日を貰うといいよ。君はとても良く働いたからね。ああ、薬研が湿布を用意しているそうだよ」
「ありがとうございます」
「ありがとうって…! 一期、おかずじゃないよな!? おかずの話じゃないよな!?」
オロオロと一期一振を見る審神者。先ほどの話はまるで夢物語のように広がるいつもの日常で、ついには一期一振も破顔し、声をあげて笑った。
「おかずの話ですな」
そんな一期一振を見る審神者の目は、どことなく優しく見える。
二人の会話を垣間聞いていた青江が笑った顔のまま、さあこの話は誰にしようかと、下世話なことで胸を弾ませていた事など、二人は知る由もなかったのであった。