ドリーム小説

その日は朝から、暗雲が立ち込めていた。
雨が降りそうで降らない空には、墨を引っくり返したような暗雲が伸びている。
「…嫌な天気ですな」
呟いた一期一振の足は、馬小屋から屋敷へと戻る僅かな距離ですら、知らず知らずの間に足早となっていった。
『なんでだろうね。この空を見てると、ぞくぞくするよ』
今朝方、縁側で宙を見ていたにっかり青江の言葉が脳裏を過る。細くなった黄色い眼が何を視ているのか、一期一振を始め多くの刀は知る由がないのだが、それでもこの空が薄気味悪いのは分かった。
何となく嫌な空。
共に馬当番であった鯰尾は一足先に屋敷へと戻したが、それでも不安は拭えない。まとわりついてくるような嫌な予感に背中を押されるようにして歩いていると、屋敷の方から、切羽詰まったような声が響いて来た。
「大将!」
薬研の声だ。
驚いた一期一振は声のした方角へ駆けだすと、近道の庭を通り、茂みをかき分け、縁側に顔を出す。
「ある…!」
じどうされましたか、と言う一期一振の声は先には続かなかった。
「……蜻蛉切、すまん」
「……やはり主、お止めになってはいかがですか」
「若い子に、負けたくないんだ」
蜻蛉切の腕の中で、さめざめと泣く審神者の姿が目に飛び込んで来たからである。
呆気に取られる一期一振の視線の先で、声の主であった薬研藤四郎は、屋根から身を乗り出すようにして庭を見下ろしていた。厚の姿もある。
「いいじゃねぇか、大将。例え屋根の上なんぞ走れなくったって、大将には大将の良さがあるだろ」
「…そんな通知表に書いてあるような慰めの台詞なんていらねぇよ、薬研」
「いやぁ、さすが蜻蛉切だぜ。よっと」
くるりと一回転して庭に着地した厚は、蜻蛉切の腕に抱かれた審神者に、まるで子どもをあやすような声をかけた。
「これで懲りただろ、大将。屋根走りは諦めろよ。他の事になら、いくらでも付き合ってやるからよ」
「そうだ、大将。俺っちたちが召喚される、あの場面なんてどうだ? 鶴丸の旦那あたりに、煙でも焚いて貰ってよ」
「サンマでも焼きゃ、結構な煙が出るんじゃないか?」
「手ぇ叩くだけが寂しいんなら、この間拾った太鼓でも叩きゃ、それなりに臨場感が出るんじゃねぇか」
「いいな、それ。長谷部に叩かせよーぜ」
「その後は酒でもあれば、最高だな」
屋根の上で、猫のように薬研が笑う。
そうしてふと視線を持ち上げると、庭の茂みから顔を出している一期一振に目を止めた。淡い紫の瞳が、ぱちりと瞬く。
「…いち兄、何してンだ? そんな所で」
「……お前たちこそ」
心の底からの疑問だった。
呆気に取られている長兄の言葉に、薬研は蜻蛉切の腕の中に居る審神に目を落とす。
「大将が、屋根を走りたいって言いだしてな」
「俺たちじゃ、大将が落ちた時に心許ないからな、蜻蛉切に手伝って貰ったって訳だ」
「何で俺が落ちる前提なんだ」
「主。こう言ってはなんですが、今の姿では…あまり説得力は無いかと」
「何故だろう。蜻蛉切に言われると、すごく辛い」
おおう、と審神者が野太い泣き声をあげる。
途端に慌てた蜻蛉切に、「正論なんだ、泣かせとけよ」と薬研は笑って一蹴すると、屋根から降りた。
「腰でも痛められちゃ、いざって時に困るからな。…なんて言っても、今日は嫌な空だ」
空を見上げた薬研は、ふと笑顔を引っ込めると、瞳を揺らした。
「…あの時の空に、嫌に似てやがる」
呟くような薬研の言葉に、審神者は顔を覆っていた手を外す。
「確かにな」
「…本丸の護りは、大丈夫なんだよな、大将」
「万全だ。後は俺さえ明るい心持でいりゃ、心配いらんさ。…悪いな、薬研」
その重い一言をどう受けたのか。傍らの厚は、務めたように明るい声をあげた。
「そりゃ大将に、存分に楽しんで貰わなきゃだな、薬研」
「…だな。よし、いっちょ鶴丸の旦那に七輪でも用意して貰うか」
「俺は燭台切に頼んで酒だな」
「どう聞いてもお前たちの相談は、宴会のものにしか聞こえないんだがなあ」
「とりあえず大将、下ろして貰えよ」
「だってなんだか、若返ったような気がするんだもんよ」
「若返り過ぎだろ、そりゃぁ」
くつくつと薬研が笑う。
この本丸が時間遡行軍に襲われたと言う話を、以前前田や平野に聞いた話にあててみると、その際この本丸に居た兄弟は、薬研だけだったと言う事になる。
巻き込んで悪かったと言う意味なのか、思い出させて悪かったと言う意味なのか、どちらともとれる審神者の言葉を聞いていると、たたたたと軽快な足音が近づいて来た。小さな影が、前足で急ブレーキをかけるように止まる。
「審神者様!」
駆けて来たこんのすけは、蜻蛉切に抱えられた審神者に驚く間もなく、言葉を続けた。
「神域との境に、突如霧が発生! 付近の審神者がその奥に居る時間遡行軍と交戦中との事!」
「…被害は」
蜻蛉切が審神者を降ろす。
一気に走る緊張の糸。
こんのすけの双眸がピカリと光った。
縁側に映し出された映像を見るように集まると、まるでこの空を覆う雲のような霧が映し出される。
「本丸が落とされたと言う報告はありません。総出で交戦中の模様ですが、この霧の中に居る遡行軍部隊の布陣すら、未だ分からない模様です」
「…」
審神者は、おもむろに無精ひげが残る顎を撫ぜた。
目を細める。
しばしの間考え込む素振りを見せた彼は、唇を解いた。
「遠征に行ってる部隊は二つだったな」
「はい」
頷くこんのすけに、懐から紙切れを二枚取り出した審神者は、ふと息を吹きかける。ふわりと浮きあがった紙が、瞬く間に鶴へと姿を変えた。灰色の鶴が二羽、審神者を見下ろす。
「至急本丸へ戻れ。資材なぞほっぽり出して構わん。とにかく最速で本丸に戻ってくれ。頼む」
ガラス玉のような瞳で審神者を見ていた鶴たちは、頷くような素振りを見せた。
舞い上がると、一直線に空を斬るようにして飛んで行く。
「幸い神域だ。連れて行く刀に制限は無い。そうだな、こんのすけ」
「はい、審神者様」
「全振り、戦闘準備。用意が出来次第、すぐに応援へと向かう」
「主、本丸の護りはどうなさるおつもりですか…! 主一人を残すなど…っ」
「俺は刀は置いていけない」
一期一振の言葉をぴしゃりと遮った審神者は、無言の圧を纏って斜めに見上げた。
「置いてはいけないんだ。一期一振」
異を唱えるなと、全身全霊で言っている。
思わず口を噤んだ一期一振だったが、気が気でない。目まぐるしく身体内を巡る不安に飲まれていると、審神者はそんな彼を見て、微かに微笑んだ。
「それに、俺も行く。問題ない」
一期一振の心臓は止まった。
「行く、とは…! 戦場に、ですか!?」
「当然だ。部隊の編成はその場で決める」
「そんな…! 無茶な…!」
愕然とする一期一振。
そんな彼の傍らで、薬研は静かに問うた。
「勝機はあるんだな。大将」
審神者はちらりと薬研を横眼で見ると、その顔に、悪戯な笑みを浮かべる。
「屋根を走るよりは、な」
似たような笑みを浮かべた薬研は手を打った。
「屋根さえ走らなきゃ大丈夫って訳だな。そりゃ心強いってもんだ。行くぞ、蜻蛉切、厚」
「ああ。全力で責務を果たす」
「お、おう」
血の気を失くしている一期一振を見上げていた厚は、思い出したように薬研へ目を戻す。薬研の後ろ背に、蜻蛉切、厚と続いた。
こんのすけはすぅ、と息を吸い込むと、声を張り上げる。
「神域近くで、審神者と時間遡行軍が交戦中! 応援に向かいます! 全振り、戦闘準備!!」
その途端、静まりかえっていた本丸にわっと気配が溢れた。
「審神者様、ゲートが開きます」
「遠征連中を出迎えるぞ。負傷者を手入れ部屋に残す訳にはいかない。こんのすけ、札の準備を頼む」
「かしこまりました」
「一期」
呼ばれた事すら気づかなかった。 棒のように突っ立っていた一期一振は、二回名を呼ばれてようやく我に返る。
審神者は色を無くした一期一振の顔を見ると、訊ねた。
「怖いか?」
「…」
訊かれて、初めて、怖いのかも知れないと思った。
目の前のこの人を失うかもしれない恐怖。
身を絡め取られている一期一振の思いを、察しているように審神者は苦笑した。
「俺も怖い」
「…主」
「俺の大切な家族が…お前たちが……お前が、折れるかもしれないと思うと、たまらなく怖い」
「…」
「だがな、一期一振。見て見ぬ振りなんて、出来ないだろう。その瞬間、俺達の一番大事なココが折れる。ここが折れちゃ、刀は振れない」
心臓付近を叩いた審神者の瞳は、どこまでも澄んでいる。
たとえ寝癖が始終ついていようと、服はよれていようと、その瞳は常に輝きを灯している。
怖いと名のつく感情を今覚えたとしても、その瞳の力強さは、顕現した時から知っていた。
一期一振は我に返ったように目を開くと、小さく頷く。
「一期一振」
「はっ」
「お前には、本陣の…俺の、護りについて貰いたい。練度の低い刀たちと、俺だ。…出来るか?」
「かしこまりました」
ようやく呼吸を思い出したように、一期一振の顔色が戻った。
頭を下げると、踵を返して駆けて行く。
その後ろ背を見送る審神者。見上げていたこんのすけは、小さく息を吐いた。
「見て見ぬ振りをしても、いいのですよ。審神者様。……襲って来る時間遡行軍、その怖さを、貴方程知っている者はおりますまい」
「…その言葉には語弊があるぞ、こんのすけ。俺しか知らない…だ。時間遡行軍に襲われた本丸で…生き残った覚えのある審神者は、俺だけだからな」
「それでも、ですか」
「それでもだよ。俺は、俺を増やしたくはない」
「……了解致しました。こんのすけは、審神者様の意志を尊重したくも思います。不思議なものです」
やれやれと言うように、こんのすけは首をすくめる。
「そう言うのを毒されたって言うんだぜ、こんのすけ」
「その言葉にも語弊があります」
そう言って、こんのすけはちょっと笑った。
「感化された、と言うべきですよ。審神者様」


遠征から戻った部隊に事態の説明をすると、審神者はすぐさま負傷者を連れて手入れ部屋へと向かった。
万全の状態で向かう為に、多少の傷すら直しておきたいところ。
札を叩くように使って手入れを施した頃には、この本丸に棲む全ての刀剣男子の準備が出来たと、こんのすけが知らせに走って来た。
「練度の低い刀は後ろにさがっていてくれ。部隊編成はその場で決める。状況が分からない場所に出陣するのは不安だと思うが…」
審神者は声をあげて笑った。
「ま、俺も不安だ。その点は諦めてくれ」
中庭に集まった刀たちの頬が微かに緩む。
「各自、絶対に折れてくれるなよ。俺も折れない。約束する。今夜は勝利の酒だ。なあ、こんのすけ!」
「万屋に、酒と料理の注文は出来ております!」
「勝てば経費だ! それぐらい、政府に払わせる!」
「そりゃぁ勝たないかんばい!」
博多が嬉々とした声をあげるのを、日本号が笑い飛ばした。小さな頭を、捏ねくる様に撫でまわす。
「ゲートは、遡行軍に一番近い本丸に繋げます。審神者様」
「ああ。俺達がゲートをくぐったあとは、分かってるな。こんのすけ」
「もちろんです。連絡があるまで、この本丸に繋がる全てのゲートを封鎖致します」
「みんな、頼んだぞ。いざ、出陣だ!」
おー、と鬨が上がった。
練度の高い刀が審神者を囲むようにして、ゲートをくぐる。
一番後列の刀がくぐる寸前、こんのすけの声が追う様にして聞こえて来た。
「ご武運をお祈りいたします!」
ゲートの閉じる音。
途端にむせ返るような黒霧が充満する。
審神者は鼻と口を覆った。
「酷い臭気だな」
「…この本丸まで、遡行軍が来ていない事だけが救い…と言うような状況でしょうかね」
宗三の言葉に、長谷部が頷く。
「味方も敵も近い。油断するなよ」
各々が刀に手をかけた。審神者の傍に控えている一期一振も、己が分身に手を翳す。
にじり歩くように他所の本丸の門を出ると、審神者の一軍は目と鼻の先だった。若い審神者が団子のように集まっている。
それを僅か数振りの刀が護っていると言う現状に、審神者は眉を潜めた。
「遡行軍はよほど多いと見えるな。本陣は、彼らの傍に置く。五虎退」
「は、はい!」
「練度の低い刀たちを集めて、控えさせろ。今から彼らの刀たちを退かせる。怪我をしている刀は、その本丸の手入れ部屋に突っ込め。札はあるだけ持って来た。回復次第、この本丸を中心に囲ませて防波堤を作る。その部隊長を一任する。他所の刀にガタガタ言わせるな。やらなきゃ折れるぞ、そう言ってやれ」
「分かりました。が、頑張ります」
「ああ。五虎なら出来る」
嬉しそうに五虎退が笑う。
審神者はそれを見届けると、視線を前へと向けた。
「愛染! 秋田! そこの審神者たちを連れてそこの本丸に撤退! 以降、五虎退の命に従え!」
「りょーかい!」
「了解致しました!」
「今から、敵本陣に突入する部隊を編成する!部隊に組み込まれなかったものは、戦場で戦ってる、もしくは負傷している刀を全て回収し、この本丸に連れて戻れ!」
長丁場の緊張で、神経が磨り減った若い審神者たちは、男が来た事に驚く気力も無かったらしい。
交戦中の知らせは各本丸に行き届いていると思っていたが、来る方が酔狂と見えた。
「まあこの現状…。来ない奴の方が正解だな」
審神者は呟く合間に、愛染と秋田が人形のような審神者を連れて後ろへ下がる。
彼らが縮みあがっていた場所に仁王立ちした審神者は、前を見据えた。濃厚な霧は、まるで闇のように一寸先の視界すら奪っている。
「…主、どうするつもりだい?」
「青江か。お前なら、視えるだろう」
審神者はそう言って、ちょっと笑った。くすぐったそうにも見える笑みだ。
「俺は…全振り、連れて来たからな。あいつもここに居るに違いない」
青江の眉尻が僅かに持ち上がった。
それと同時に、審神者は名を呼ぶ。
「三日月!」
しゃりん、と鈴の音がした。
青江と石切丸、太郎太刀の耳に届いた鈴の音が、しゃりんしゃりんと鳴り続ける。
「相手の部隊編成が見たい。力を貸してくれ!」
その声にこたえるように、審神者の上に青い着物の袖が浮かび上がった。
靡く髪。
美しいと謳われる男の顔に、笑みが浮かぶ。
『しっかり受け取れよ、主』
風がうねりをあげた。霧を斬るようにして、一迅の風が突き進んで行く。
「編成いくぞ! 一軍、部隊長加州清光! 長谷部、宗三、堀川、鯰尾、青江が続け。空間が歪んでる。どっかの城に繋がってそうだ。あんまり大きく振り回すな。一撃で行け!」
「了解!」
呼ばれた刀が、すぐさま駆け出す。
「続いて二軍! 部隊長、大倶利伽羅! 太郎、安定、鶴丸、膝丸、髭切続け! こっちは明るい。思い切り振り回せ!」
「…」
「加羅ちゃん、部隊長がまず突き進んじゃ駄目だってば!」
何も言わずに駆けだした大倶利伽羅を、後の面々が追い始めた。
審神者はどこかを見るように視線を動かしながら、口を開く。
「続いて三軍! 部隊長、薬研藤四郎! 厚、乱、今剣、小夜、博多、頼んだぞ。敵に苦無が居る。引っ掻き回して討って来い」
「任せな、大将。行くぜ!」
「最後に四軍! 部隊長、鳴狐! 次郎、日本号、小狐丸、小烏丸、蛍丸続け! 槍が居る、日本号、頼んだぞ」
「あいよ」
「お任せ下さい、主様!」
「……待ってて」
どんどんと、飲み込まれるように霧の中へ入って行く刀剣男子。
「残りの刀は、戦闘は部隊に任せて回収に回れ! 万が一、部隊が退く事になった時は全力で支援をし、撤退する事。もしも不都合が起きた時は――三日月の名を呼べ。俺が視える。援軍を手配する」
「はい!」
鉄砲玉のように刀たちが駆けて行く。
その後ろ姿を見送るしかない一期一振は、刀を持つ手に力を込めた。
「一期」
「はっ」
「しばらくは俺の目の代わりはお前だ。目に見える全ての範囲、何か変わりがあれば声を掛けてくれ」
一期一振は、その時はじめて、前しか見ていなかった瞳を審神者に向けた。
顔を隠す布の奥。
いつもは黒曜石のように輝く瞳が、青く染まっている。その瞳の中心には、黄色い三日月。
息を呑んだ一期一振は逃げるように目を逸らした。
心臓が早鐘のように鳴り響くのを、呼吸で宥める。
「……かしこまりました」
「頼んだぞ、一期」
それからは、息を吐く暇もなかった。
黒い闇の中から、他本丸の男子たちを連れて戻って来る刀たち。
それを本丸に送り届け、再び闇に戻る最中、審神者に報告が飛んでくる。
「五虎退の指示で、各本丸の審神者に、自身の刀剣男子達を確認させた。八割は回収したようだ」
「御手杵負傷! 今、蜻蛉切と共に下がってます!」
「了解。一期、戻って来たら、すぐ本丸に下がらせろ」
「分かりました」
話す合間も、審神者の目はしきりに動いた。
時折、何かを話すように呟く。
「石切丸と合流しろ。その男子の居場所、伝えて欲しい」
そのまま何十分、何時間経ったのか。
やがて闇がゆっくりと退き始めた。
段々と明るくなってくる景色の中に、男子達の姿が見え始める。
一軍、二軍、三軍、四軍とくたびれた刀剣男子たちが肩を叩きながら戻って来、そこに弟たちの姿を見止めた一期一振はようやく生きた心地が戻って来た。自分が出ない戦場の、なんとも心もとないことか。怖い、と言う言葉を今日にいたってこんなに噛みしめる事になろうとは。
「主、全軍…戻って参りました」
一期一振の言葉から安堵を読み取った審神者は、息を吐くように笑った。
そうして後ろ頭に手を伸ばすと、布を解く。
露わになった目を宙に向けて、審神者は口を開いた。
「久しぶりだな、三日月。夢以外でお前を見るのは……もう随分久し振りな気がするよ」
その眼には今、天下五剣の一振りである、三日月宗近が映っているのか。
一期一振の目には、彼の目をした審神者が一人、喋っているようにしか見えない。
「お前のおかげで、皆折れずに済んだよ」
そう言った審神者は、宙へ手を伸ばした。
振れても無いのに、くすぐったいような声をあげる。
「助かった。三日月」
柔らかい風が吹いた。髪を撫ぜるような風の中、審神者は少し寂しそうに微笑む。そうしてゆっくりと顔をあげた時には、いつもと同じ、黒い瞳を称えていた。
「一期」
「…は、い」
「最後の頼みだ。悪いが、本丸まで連れて――」
言葉が途切れる。 ぐらりと傾いだ身体に咄嗟に手が伸びて、寸での所で抱き留めた。
顔色が悪い。
「力を極限まで使ったんだろうね」
歩み寄って来た石切丸は、その顔を覗き込んで、苦笑した。
「本当に――色んな意味で、わたしはとんでもない本丸に来てしまったようだ」
「僕も、天女を見た気分だよ。男なのが残念だ」
青江が肩をすくめる。
その後ろから、す、と背筋を伸ばした太郎が歩いて来た。相変わらず仕草は美しいが、全身が傷と埃で汚れている。
太郎太刀は一期一振の手の内で眠る審神者を覗き込むと、頬を緩めた。
「どうやら…三日月が力の調整までしたようですね。その程度の消費でしたら、本丸に戻ればすぐに目覚めます」
ぐぅ、と審神者が寝息を立てる。
「おやまあ。随分色気の無い眠りかただねぇ」
からりと笑った次郎太刀を、太郎は横眼で見た。
「酔ったお前よりマシですよ」
「やっぱり?」
冗談めいて肩をすくめる次郎太刀は、化粧こそ崩れていないものの、髪も随分と乱れていた。髪留めを取った次郎太刀は、長い髪を降ろす。
「なんだい、一期一振。アンタの方が、今にも倒れそうな顔をしてんじゃないか」
「いえ、その…」
待機組の一期一振がこれでは世話が無い。
それでも表情をどう取り繕えばいいのか忘れたように、表情筋が強張っている。
そんな一期一振を見下ろしている太郎太刀は、抑揚もなく口を動かした。
「抱える気はありますか、一期一振。主がその身を貴方に預けた意味、よもや分からなくもありますまい」
「ひょいっと抱えちゃいなよ。幽霊なんて、大した重さがある訳じゃないんだからさ。ようは、主の二百年を、アンタが抱えれたらいい話なんだろう? 人の二百年なんて、アタシりゃに比べたら、軽いかるーい」
あっけらかんと言う次郎太刀。
彼は軽い一歩で足を踏み出すと、審神者の身体を抱えた。一期一振の手を添えてから離れると、笑う。
「ホラ、簡単じゃないのさ」
確かに軽いと、どこか頭の端で一期一振は思った。
酒を呑む度食が進むとは思えない軽さだ。
二百年この身一つで生きて来たとは思えない、軽さだ。
何だか無性に気が急いで、一期一振は審神者を抱え込む。唇を噛むと、血の味がした。
「いち兄」
声に気付いて、瞳を開けると、薬研が立って居た。
ボロボロだけれど、顔は至って元気そうで、薬研は目を細める。
「俺達は、三日月の旦那には感謝してんだ。今大将が…俺っち達がここに在れるのは、旦那の血と肉を引換にしたおかげだからな」
薬研は一度、言葉を区切った。
「だけど大将には、二百年の時は流すぎんだろうな、きっと」
なあ、いち兄、と薬研は言う。
石切丸、青江、太郎に次郎。そうして一期一振へと目を戻した薬研は、最後に切なそうに瞳を揺らし、審神者へと視線を落とした。
「今回の布陣。大将に手が届く位置に選ばれたのは、いち兄だ。抱える気が無いなら、下ろしてくれて構わない。他にも、手を伸ばしたい刀はたくさんいるんだ」
それが誰とは言わず。
薬研はちょっと笑った。
糸が切れたように眠る審神者を見つめる目を、眩しそうに細める。
「それでも抱えるってンなら、いつでも手を貸すぜ。いち兄」