兄貴の性分
「おっと」
足を止めた凌統は、視線の先に在る華やかな一団を見て目を細めた。
処務仕事に飽いて、呂蒙相手に茶でも飲もうと自ら率先して書簡を手に出て来たのだが、
その為にここを抜けるや否や、僅かな間迷う。
つい、と流すように視線を逸らして、踵を返そうとした凌統の背中に
「凌統殿」
と、女官の輪に囲まれた陸遜が声を上げた。
目を向けると、こちらへ手を振っている。
ひょぃと肩をすくめながらも凌統が手を振りかえすと、陸遜は女官達に笑顔で頭を下げた。
「申し訳ありません。これで失礼致します」
「やだ陸遜さま」
「もう少しお相手を」
頭を下げてからの動きは実に早い。
あれよあれよと手を伸ばす女官を軽やかに躱し、陸遜は早足に凌統へと向かって来る。
「ちょうど良かった」
「何が丁度良かっただい。全く、他人をダシに使いやがって」
連れたって歩き出し、女官が見えなくなるなり胸を撫でた陸遜を、凌統は恨めし気な瞳でねめつけた。
「俺まで捕まったら、どうしてくれるんだっての」
「その時はその時です。凌統殿を差し出して、私はお暇する事にしますよ」
「……随分白状なこって」
「その様子だと、大方飽いて話相手でも探しておられたのでしょう? ちょうどいいではないですか」
にこにこと。
無駄に笑う陸遜に向けていた一瞥を、凌統は前へと向けた。
「軍師ってのは、ホント性質が悪いね」
「よく言われます」
「言われた相手に袖に振られてご機嫌斜めって所かい? 毎度毎度飽きないね」
緩く息を吐きながら言った凌統に、陸遜は目を少し開いた。感心した声を上げる。
「さすがは凌統殿」
「全然嬉しくないっての」
「甘寧殿の腕を引いて逃げられました」
「子どもみたいな気の引き方をするからだよ。まったく」
眉目秀麗。文武両党。
そんな肩書きを選びたい放題の若軍師は、凌統の友人である女に想いを寄せている。
所がこれが、恋愛に関してはまるで効力を発揮せず、あれやこれやと手を打っては、まるで空振り。
見ているこっちが気の毒になる勢いである。
おそらく今回も、女官に囲まれている所を見せて気でも引こうと思ったに違いない。
この腹真っ黒軍師は計算高く、そうでもなければ、彼女の執務室がある道すがらで女官に囲まれるようなヘマはしない。
それを甘寧に横から掠め取られてご機嫌斜めとなれば、近々起こりうる事は一つ。
(燃えるね、こりゃ)
凌統の家や執務室より、甘寧の家や執務室の方が圧倒的にコゲ付いているのは、ひとえに察しの悪さだろう。
胸中で甘寧に手を合わせながら、凌統は陸遜を横眼で見た。
「それにしても」
「何です?」
「アンタがそこまで、に固執するってのはちょっと意外でね」
「そうですか」
「最初の頃は、随分と当たりが悪かったじゃないか」
そう言うと、陸遜は少し押し黙った。
真っ直ぐと前を見据えて歩きながら、口を開く。
「そうですね。確かにあの頃は、今日のような事は想像もしてませんでした。ですがそれは、凌統殿も同じかと思いますが」
「まあ――そうだね」
凌統とて、こうも親しくなるとは思ってもみなかった。
はもちろん、甘寧と酒を呑む仲になるとは。
以前の凌統に知られれば、唾の一つは吐きつけらるかも知れない。
そっくりそのまま返って来た言葉に何とも言えない面をしていると、陸遜は笑う。
「呂蒙殿が良く話されてますよ。悪ガキ三人組は手に負えない、と。特に初めの頃など、頭痛の種でしかなかったそうで」
「ああ。戦の度に戦績競ってたからね。俺と甘寧が先陣切って突っ込んでってさ。
追いかけて来たアイツが、良い所掻っ攫って行ったりするんだよ。
そりゃぁまあ戦か喧嘩か分からなくってね」
「戦ですよ」
「分かってますって」
「………まあ、その頃を知らないのは、いささか寂しい気がしますが」
ぽつりと陸遜が呟く。
凌統は耳を疑うように瞬き、笑った。
「そう言う素直な所を見せた方が、武器になるんじゃないかい?」
「嫌ですよ。恥ずかしい」
「誰かを好きになるなんて、恥を重ねるようなモンじゃないか。そんな事イチイチ気にしてたら、いつまでたっても平行線だね。
加えて相手は、俺と甘寧が誇る鈍感娘だ。おまけに猪。隙を作らなきゃ、首輪かける間もなく突っ込んで行っちまうよ」
おどけたように言うと、陸遜は穏やかに笑った。
よくよく笑う青年だが、こういう笑顔の方がらしい事に、凌統が気付いたのはほんの少し前の事である。
「猪ですか」
「他に例えようがないね」
「なるほど。……傍に置いておくのは大変そうですね」
静かに落とす。
そんな陸遜の横顔はどこか浮かず、凌統は眉を潜めた。
「いつになく弱気だね」
「弱気…と、言いますか」
歯切れが悪い。
陸遜は言うか言わぬか少し迷う素振りを見せたあと、凌統を見上げた。
普段ならば射抜く程強い双眸は、どこか頼りなく見える。
「呂蒙殿が…」
「呂蒙さんがどうした?」
「魏と手を組み、関羽を討つ事を孫権様に進言したのです」
「……へぇ」
凌統の声が低くなる。
「殿は?」
「迷っていらっしゃるようですが」
「姫様の事もあるしね」
「ええ。ですが、呉は今や真っ二つに割れております。蜀を討てと声を大にしている重鎮も多い。決断なさるのは、時間の問題かと」
「荊州か」
「はい」
荊州返還を約束していた劉備。
これを、荊州を預かっている関羽が独断で突っぱねた。
以来、呉と蜀には決定的な亀裂が入っている。
親戚関係で体裁を保つのも時間の問題。
戦略を預からぬ凌統とて、その位の事は分かっている。
「気が乗らないかい?」
呂蒙の元で、戦略を練る中心に居る陸遜。
彼の気持ちは凌統に推し量れない。
尋ねると、陸遜は精悍な顔を歪めた。
「ええ。――そうですね、姫様の事を思うと…それに…」
「こんな事になるのなら、趙雲殿の人柄なんて、知らない方が幸せだったかも知れないね」
凌統が言うと、陸遜は瞳を伏せた。
ええ、と、頷く。
「呂蒙さんは何て?」
「気の毒な事をした、と。殿が望まれるのであれば、蜀との戦は控えさせた方が良いであろうと仰ってました」
「ふぅん。でもまあ、実際問題、あれの戦力が無いのは痛いね」
「ええ。かなり」
「そうなると、だ」
「出来る事なら、出陣して頂きたいのです」
「趙雲殿と刃を交えるってかい」
「そうなる可能性もあります」
陸遜は真摯な顔で凌統を見上げた。
長いまつげに縁どられた茶色の瞳は、伺うように揺れている。
その瞳に映る凌統は、そっかい、と言いながら後ろ頭に手を組んだ。
「大丈夫だよ、アレは」
「凌統殿は、そう思われますか? 呂蒙殿も、ならば大丈夫であろうと言いますが」
「そうか、それこそ陸遜が入城する前だからね」
「何かあったのですか?」
「が斬った親の子が、敵軍に居た」
「…」
「俺と甘寧も立場は大きく違えど、似たような境遇だからね。そりゃぁまあ、様子は伺ってたんだよ。武将って言っても、女だしね。危なげな所もあったし。つっても、あの頃甘寧とは口も利かなかったっけ」
「それで殿は?」
「斬ったよ。躊躇いなく、その子をね。戦が終わるまでは気丈だった。だが――ま、酒盛り中にふらりと居なくなったんだ。
口裏を合わせた訳じゃないが、何となく捜しているうちに甘寧と同時に見つけちまってね。
まあ、こりゃ盛大に泣き腫らしててさ。
たいした面構えでもないって言うのに、目なんか饅頭みたいなんだよ。鼻頭は真っ赤で。
…それがまあ、思う所があったりなかったりしたんだね。お互い。
甘寧の馬鹿とを囲んで酒飲んだのが、最初だね」
「そんな事が」
「だからま、大丈夫なんじゃないかと思うけどね。アレは、俺達が思ってるより強い」
「そうですね」
凌統の眼は、宙に逸れた。
ややあって、呟く。
「強いから、心配でもあるんだけれどね」
「…」
「そんな時こそ、アンタの出番なんじゃないかい? 陸遜。意地でも傍に連れ置いて、慰めてやんな」
凌統の言葉に、陸遜はぎこちなく笑みを浮かべた。薄く笑って、視線を落とす。
「みすみす殿を戦に出す私に、そのような資格はありますか?」
「誰も、望んで戦に出てる人間なんて居ないよ」
戦など無いに越したことはないと、誰もが皆思っているはずだ。もちろん、呂蒙も。
それでも戦は訪れる。
戦乱の世に未だ夜明けが見えぬ以上、仕方のない事。
割り切る他は無い。
凌統の言いたいことは、皆まで言わずとも伝わったのか、陸遜はそうですね、と面を上げた。
先ほどよりは随分と顔色が良い。
瞳に力もある。
僅かながらでも、吹っ切る糸口が掴めたのかもしれない。
そう思った凌統は、陸遜の肩を叩いた。
「ま、そん時は女中を侍らせて待つのは止めた方がいいだろうね」
陸遜が虚を突かれたように瞬く。
じんわりと熱を帯びた頬を隠すように下を向いた陸遜に、凌統は軽快に笑った。
「アレは鈍感な癖に、他人の感情には敏感だからね。矢面に立たされるってわかったら、しっぽ巻いて逃げるよ」
「甘寧殿を連れて、ですか?」
いつもの調子が戻って来たのだろう。
不服気な声を上げる陸遜に、凌統はニヤリと口端を持ち上げる。
「そん時は、俺かも知れないね」
「凌統殿ですか。甘寧殿のようには――いかなそうですね」
裏で手を回すのはお手の物。
今まで何度も彼女に見えぬ所で甘寧に釘をさしたり、火をつけたりして来た男は思慮深く顎に手を添える。
「でしたら、その手は止めておきます」
「それがいいね。ま、今日はいい天気ですね、から始めれば間違いないんじゃないかい?」
「廊下でですか」
「廊下でね」
彼女が真顔で「どうしたの陸遜」から始まれば、少しは話しやすくもなるだろう。
凌統はゆるりと笑うと、陸遜の頭に手を乗せた。
「ま、ウチの大事な妹分、弟分だからね。頑張んな、陸遜」
*+*+*+*+*
「水が足りないぞォォォォオオオォ!」
「ホンット、馬鹿だね。甘寧」
「あぁ!? 何がだよ!」
「ウチの軍師は、一度燃えたら熱いんだからさ」
「今燃えてんのは俺の家だっつーの!」
「なるほど、上手い事言うね。バ甘寧の癖して」
「そのまんまだ! 喧嘩売ってんのかてめぇ!」
「だいたいいつも売ってるつもりだけれどね」
「ちょ、も、喧嘩は良いから手を動かして!!」