ドリーム小説
「もぉおおおお―――!」
怒りの声をあげたが勢いよく書簡を引っ張ると、枕にしていた甘寧の頭は転がり落ちた。ゴン、と鈍い音がする。
「んだ? …か」
「か、じゃないですよ、甘寧様! いつになったら呼ばれるんですかわたしは!! 昼には終わるって言ってませんでした!?」
「昼だろうが」
「もう夕方ですよ、夕方!」
陽はすでに橙色が混じり始めている。
窓の外を見上げた甘寧はようやく事の次第の大きさに気付いた様子で、「ゲ」と言うと、寝跡のついた頬を拭った。
「早く起こせよ、」
「無茶言わないで下さいよ! わたしにだって仕事があるんですから! と、言うかですね、そもそも甘寧様のお手伝いがわたしの業務には入ってないんですよ! どうしてもって言うからしょうがなく手伝ってるんです!」
「あーもう分かってるって、その話は耳にタコだ。っつーかやべぇぞ、、陸遜にまた文句言われちまう」
「文句を言われるのはわたしです。そして文句を言われる事をしているのは甘寧様です」
ぴしゃりと言ったは下唇を突き出した。
甘興覇付きの女官になったら最後。処務を溜めに溜める甘寧のしりぬぐいに付き合わされて、コキ使われた挙句精根尽き果て郷に帰ることになると言う。
二年前から甘寧に付きの女官に配属されたも例には漏れず、この一本道をひたむきに歩いている最中なのだが、どうやら悲しいことに今までの女官よりちょっとばかり気持ちと身体が丈夫らしい。
せっせと働いているうちにたった二年で女官頭。他の将付きの女官では考えられない出世スピードである。まあしか居ないだから、女官頭と言っても名前だけなのだが。
「いつも悪ぃな、」
「そう思うなら面倒かけないで下さい」
ホラ、早く。
机を叩きながら急かすと、甘寧はやっとこさ書類に目を通し始める。
目を上下に動かしながら思い出したように口を動かした。
「なあ、」
「何ですか」
「お前よ。陸遜から引き抜きの話上がってンの、知ってたか?」
「……いえ、知りませんけれど」
寝耳に水だ。
ギョッと目を見開いたを見た甘寧は、やっぱりなと言いながら印をついた。内緒話をするように声を潜める。
「妙な話だと思ってたんだ。…お前、陸遜に何かしたか?」
「え!? 何かって何ですか!? 怖い言い方止めて下さいよ!」
まるで死活問題のような口ぶりだ。
女官の間では甘寧よりもよほど評判の良い陸遜だが、不運な事に甘寧付きの女官であるは陸遜に対して良いイメージが無い。
えー、陸遜様に目をかけて頂いているんですかぁ、嬉しい!
なんて言う浮ついた反応も出来ない。
死活問題の方がよほど現実味があると言うもので、は血の気が引いて青っ白くなった。
「甘寧様、まさかわたしの事を見捨てる気じゃ…っ」
言い終らないうちから、恨みますからね、とは被せるように付け加える。
「見捨てたら、恨みますからね甘寧様!」
「わぁーってるよ。俺としても、お前に抜けられるのは困んだよ。足腰丈夫だしな、お前」
「……」
女官の大半は貴族で、みたく田舎から上がる娘の方が珍しい。
礼儀作法に関しては勝てないとはいえ、足腰を褒められるとまるで馬か何かのようで、褒められても全然嬉しくない。
そもそも口に出して褒める所はそこじゃないだろう。
褒められたとは思えないほど死んだ目をしている。そんな彼女に気付きもせずに、甘寧は稀にみる難しい顔をして顎を支えた。
「だが相手は陸遜だしなぁ。………よし、。お前、書簡持ってくんだ。ついでにその気が無い事伝えて来いよ」
お前敵陣行くんだろ? ちょっとついでに首取って来いよ。
と脳内変換されたは目玉をひん剥いた。
「はぁ!? い、嫌ですよ、ムリですよ! 一端の女官がいきなりそんな…! お断りしますなんて、どの面下げて言うって言うんですか!」
「相手は陸遜とはいえ人間だ。話せば分かる」
「話して分かるなら甘寧様が言って下さいよ!」
「俺が断っても断っても食い下がってくるんだよなあ、アイツ」
「それ話しが通じてないって言うんですよ!」
「お前がきっぱり断った方が早いだろ。な!」
何が「な!」だ。絶対今思いついただろ、それ!
嫌です嫌だと言うのに無理やり書簡を持たされたは、背中を蹴るようにして部屋を追い出された。無情にも扉が閉まる。
しばしの間棒立ちしていたも、自力で断るしかないらしいと半ば諦めて歩き出した。
「もういっそ、郷に帰るかな…」
唇を噛む。
甘寧の怠惰にめげず頑張った二年間。花を添えてくれたのは、城に咲く草花だった。
貴族のお嬢様方は花の手入れが苦手らしく、そう言った雑務は全てに回って来たのだが、これが一番楽しかった。
誰と話す必要もない。愛想笑いする必要もない。城内の人間を相手にするよりよほど精神衛生的に良いというものだ。
とは言え刈った草花をただ捨てるのも勿体なく思えて、枯れるまで花瓶に入れて飾ってみたところ、これもなかなか出来が良くて満足した。ここからのストレス発散イコール花を飾る事になったのである。
この二年、本当に良く花を飾った。
花を飾っている女官の名前がいつからかじゃない事を知って、誰にも見られないように花を飾ると言うミッションが加わったのも良くなかった。
見られてはいけないスリル感と、飾り終えた後の達成感が拍車をかけたのである。
こうしては仕事の合間にせっせと庭を手入れし、花を飾ると言う事に日々勤しんだ。
もしも。
もしもが郷に帰ったとしたならば、花が飾られなくなって――誰か一人くらい気付いてくれるだろうか。
飾っていたのはだった事を。
今まで見つからない事に精を燃やしていたというのに、気が塞ぎこんでいるからか、らしくない事を考えてしまう。
が庭に咲く花を見ていると、
「探しましたよ」
後ろ背に声が掛かって、渦中の陸伯言だと気付いたはうっかり手の中にある書簡を落としそうになった。
「わ、あ、陸遜様。すみません、あの、これ…」
「……また甘寧殿の尻拭いを貴方がしているのですか?」
「す、すいません…」
「まあ貴方に言っても仕方ありませんね。頂きます」
続けて言いながら、陸遜が手を差し出す。
「貴方はもう少し、自分のしている事に対して主張を覚えた方が良いですよ」
得物を握る男の手とは思えない手を見下ろしたは、おそるおそる書簡を乗せた。一歩、二歩と跡退さる。
「あ…あの、陸遜様…」
言わなければと思う言葉が突っかかる。
よくよく考えてみれば、そもそも話自体が胡散臭い。
落ち着いて思い返してみれば甘寧の夢物語だった可能性も十分ある訳で、ここで真面目な顔したがお断りしますなんて言ったら、一夜にして城中の笑い話になりそうだ。
つかえた言葉を飲みこんだは愛想笑いを繕った。
「いえ、何でもございません。我が主人が大変失礼いたしました。これにて失礼させて頂きます」
恭しく頭を下げる。
ここまでは真似して出来るのだが、ここから育ちの違いが出ると言うもの。
踵を返すなり足早にその場を後にしようとしたを、何の虐めか陸遜が呼び止めた。
「待ちなさい、」
震えあがる。
「は、はひ…」
「貴方の用事は終わったのでしょうが、わたしの用事はまだ終わってません」
「わ、わたくしは頂いた書簡を真っ直ぐお持ちしました…! ちょ、ちょっと庭を見ていたくらいで…」
立ち位置が危ぶまれて、は潔く甘寧を売った。遅かったのは甘寧だと暗に言ってしまったのである。
売ったのではない、事実を言ったのだとワンテンポ遅れて自分に言い聞かせるの前で、陸遜はあからさまに息を吐いた。
「それについて貴方を責めた覚えは一度もないのですが…どうしてそう怯えるんでしょうね」
どうして、と言われても。
思い返してみれば毎度、甘寧に対するチクチクとした嫌味は貰うが、自体がが怒られた事は一度もないような気がする。
とは言え甘寧に対するさまざまな仕打ちを目にしてきたのもあって、は逃げ腰のまま視線を泳がせた。
「それは…その」
「貴方にどう見えているかは知りませんが、わたしとしては貴方を買っているつもりですよ。それどころか、貴方をわたし付きの女官として引き抜きたいと考えているのですが、いかがです?」
「え!?」
茶色の双眸がついとを見据える。
柔らかな髪が風に靡いて、陸遜は淡々と口を動かした。
「甘寧殿には前々からお話ししているのですが、なかなか色よい返事がもらえなかったので、いっそ貴方に直接お伺いしようかと思って探していたのですが」
「そ、それは…! その、えっと…」
若手天才軍師と謳われる陸遜が、たかが女官を引き抜きたい、と。他の人でも驚く話だのに、ましてやそれがと来たものだ。想像しがたいだけに、甘寧の夢説でまとまりかけていたはぐるぐると目を回した。
断る理由がないのもどうかと思うので、必死に考える。
「陸遜様の女官は、その…! どの方も素晴らしく…! わたしのような田舎娘には少々敷居が高く思えます…っ」
事実、将来有望な陸遜についている女官はどの娘も育ちから気品まで一級品ばかり。
方や芋娘のはこう言っちゃあ何だが甘寧付きくらいが丁度いい。
分相応だ。
咄嗟に考え付いた割には筋が通った断り文句に自分自身を褒めていると、陸遜はそうですか、と声を落とした。
「でしたら、女官の面子を変えましょう」
「は!?」
「それでいかがです?」
いかがです、と訊かれても。
が固まっていると、陸遜は首を傾いだ。
「他に何かあるようでしたら早めに言って頂けると助かります。何事にも準備する時間は必要ですので」
「いや、…ちょ」
「ご心配されずとも、貴方に角が立つような事はしませんよ。今よりも良い場所を与えれば、皆喜んで向かうでしょう」
「ま…ってください陸遜様。さすがにその待遇は身に余ると言うか…」
思ったよりも事がデカい。
はしどろもどろとなりながら言葉を探す。
よくこれを書簡持って行く片手間で断れと言ったな、と、我が主人ながら色々な意味で尊敬した。
「今わたしに付いている女官は三人。たいして甘寧殿についている貴方は一人ですが、貴方の方がよほど良く見かける事ですし、貴方が居るのであれば女官は一人でも構いませんよ、わたしは」
「わ…わたくしはその…体力派といいますか、添える花には欠けますので、必然的にそう言う仕事が増えるといいますか…陸遜様の女官となれば華やかな方の方が良いのではないかと思います…!」
これからまだまだ出世するであろう陸遜は、
のような小間使いが得意な女官より接待に華を持たせるタイプの女官の方が使い勝手がいいはずだ。
やっぱりどう考えても身に余る。
「ですのでお断りを――」
させて頂きます、と言おうとした言葉をは思わず飲みこんだ。
「確かにわたしには艶やかな花が似合うと言う方も多いですが…」
花が一輪差し出される。
それが庭に咲いている花だと言う事に気付いたは顔を上げた。
「貴方にはこちらの方が似合いますね」
花か陸遜か。ふわりと甘い匂いがする。
思ったよりも近い距離に腰が引けたに、わざわざ目線を合わせた陸遜は笑った。
「わたしとしてはこういった花の方が好みなのです」
男にしてはあまりに綺麗な顔が、近すぎやしないか。
心臓が高鳴る。
の目には鮮やかに笑う陸遜と、手元の花だけが鮮烈に映った。
「は花を生けるのがとてもお好きなようですし、貴方に訊いてみる事にします。
、貴方はわたしにどちらの花が似合うと思います?」
その訊き方は狡い。
匂いと綺麗さに眩んではするりと言葉が滑り出た。
*+*+*+*
「甘寧様、サーッセン!」
「ちょ、おま…! 何で荷物まとめてんだよ! オイ!」
色じがけが出来る陸遜が書きたかった。…けど…。