ドリーム小説
「さま、火事です! お逃げ下さいッ!」
恋のABC
「――と、言う訳でですね。い、家を修復する間こちらに居候させて下さい…?」
何故疑問形なのかと言えば、この青年と面識がないにも関わらず、呂蒙の弟子だと言うだけでここがの居候先に選ばれたからである。
「初めましてですね。殿。陸伯言と申します」
「は…初めまして」
穏やかに笑う青年はなるほど美青年だ。女中たちが浮き足だっていたのも分かる。
聞いた所によると、とそう歳がかわらないのに、時期軍師と名高い秀才らしい。武芸にも長けているとか。
様これはチャンスですよ! と、背中を押されて出てきたは頭を下げる振りをして、眩しい笑顔から目を背けた。
(いや、チャンスって…ないでしょう。呂蒙さんの娘とは言え養女な訳だし…)
肩身が狭すぎる。
一刻も早く呂蒙の元へ帰りたいと言う気持ちがついつい言葉の端々から滲み出てしまう。
「あ、の。一週間もあれば修復が終わるそうなので…お邪魔にならないよう致します。よろしくお願いいたします」
「一週間、ですか」
零れ落ちた言葉に伺い見ると、と目が合うなり、彼は綻ぶような笑顔を浮かべた。
「一週間でも二週間でも、一生でも。貴方なら大歓迎ですよ」
「い、いえ。一週間で結構です」
案内された部屋は天蓋付きのベッドと言い、壺や絵が並ぶいかにも貴婦人にふさわしい部屋で、
のような一介の芋娘には、ちょっとした拍子に壊すのではないかと、気が休まりそうにない。
室内を見渡すなり後退さったは声をひっくり返した。
「この部屋は…わたしにはとても怖…も、勿体ないです」
「そうですか?」
首を傾げる。
ややあって考える素振りを見せた彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「ですが、慣れておいて損はないと思いますよ」
またもや笑顔を向けられるが、どこか微妙に会話が通じていない気がする。
何が噛みあっていないのか。
一生懸命会話を思い出していると、
「何かありましたら何でもおっしゃって下さいね。夕食はご一緒しましょう、殿」
と、陸遜は爽やかに部屋を後にしてしまった。
「あれから一週間、か。は今日戻るんだったか」
「うむ。手紙には楽しくやっていると書いているが…」
呂蒙の顔は浮かない。
黄蓋はカカと笑うと、輪郭をなぞるように顎に手を添えた。ニヤリと口端が持ち上がる。
「心配か?」
「あたり前だろう。相手は陸遜だぞ」
「しかしも…またすごい者に好かれたものだ」
「…そろそろ年頃かと覚悟はしていたが…陸遜とはな」
嫁に出すのも考え物だなあと黄蓋はぼやいているが、そもそも呂蒙に拒否権があるかは怪しい所だ。
呂蒙宛ての書簡をが城へ届けに来たあの日から、呂蒙も、そして当人のすら知らぬ所で事が進んでいるのではないかという気がしてならない。
一見すると人当りが良く、優秀な弟子である陸遜。
そんな彼がストレス発散と趣味を兼ねていそいそと放火に勤しんでいるのは、割と周知の事実である。
裏では甘寧、凌統に並ぶ問題児として名高い陸遜。
呂蒙はううむと唸った。
――あの、すいません。呂蒙さんの執務室はどちらでしょうか?
日頃から人見知りで、とにかく目を合わせたがらない彼女の事だ。その折声を掛けた相手が陸遜だった事に気付いているかも怪しい。
初対面と思っているのなら、突然知らぬ男の家に居候する事を決められて、さぞ困惑している事だろうと呂蒙は思う。
「…だが、これ以上被害を広げる訳にも…」
あの日。
と入れ違いに執務室へと入って来た陸遜は呂蒙の顔を見るなり、いつになく殊勝な顔で言ったのだ。
――呂蒙殿、恋と言うのは初めの一歩が大切ですよね。
初めの一歩がまさか放火だと思わなかった。
呂蒙が黄蓋宅に身を寄せる事が決まるなり、が呂蒙と同じ屋敷がいいと駄々をこねても首を縦に振る訳にはいかない。
火矢を構える弟子が過ったからである。
「……お主、弟子の教育を間違っとるんじゃないのか?」
「黄蓋殿。……いまからやり直せると思うか?」
「無理じゃな」
「無理だよなあ」
願わくば、恋の二歩三歩目は平和で済みますように。
そんな切なる願いを向けられているとは露とも知らず、
貴婦人生活を何気に満喫したは、この生活も終わる時が来たと半分ほどがっかりしていた。
「もうしばらくこちらに居てはいかがですか?」
「いえいえ、呂蒙さんが待っていますから」
控え目に断った唇を、はすぐには閉じなかった。
おずおずと続ける。
「あ…でも、その。こちらでの生活はとても楽しかったです。また何かありましたら、是非お邪魔させて下さい」
そう言うと、
驚いたような顔をした陸遜ははにかむようにして微笑んだ。
「ええ、ぜひ」
は知る由もない。
「さま! 火事です――ッ!」
その夜、呂蒙宅が燃え盛ると言う事を。