ドリーム小説
「いやあ、なんか私、陸遜の事怒らせたのかと思ってた」
城下に降りるなり、適当な店に入ったは店主に料理を注文すると、開口一番にそう言った。
「怒らせた、ですか?」
「うん。だって全然会わないし、これってたまたまじゃあないでしょう?」
首を傾げて尋ねると、陸遜は面を食らった様子だった。
呆気に取られた後、言い淀むように言葉尻が窄んでいく。
「まあ…そうですね。たまたまではないかと」
呟くようにそう言った陸遜は、瞳を伏せる。呆れたようなため息一つ。
「どうしてそちらの、たまたまではない事には気付くのに、いつもの方は気付かないんでしょうね」
「何が?」
「いえ、こちらの話です」
緩く頭を振った陸遜。
憂鬱は変わらずらしい。
浮かない顔のまま、陸遜は眉間に皺を寄せた。
「それで、どうなさるおつもりなのですか?」
「戦の事?」
「はい」
「出るよ」
あっさりとそう言ったに、陸遜は驚いた顔をした。目を見開いたまま、言葉を返す。
「ですが、今日一日悩む、と」
「いやあ、それはまあ、何ていうの? 方便、みたいな」
呂蒙とも長い付き合いだ。
そもそもが戦に出ないと決意する等とは、思っていないのではないだろうか。
それでも孫権の温情に加え、呂蒙自身の不器用な優しさでもあったのだろう。
趙雲との事を、悩む余地を与えてくれた。
でなければ、代わりに呂蒙が戦に立つなどと。
身体も長くない事を悟る程辛いだろうに、言える台詞ではない。
「方便、ですか?」
「まあ、わたしはあんまりこういう事上手く言える性質じゃないけれど。…陸遜がそんな面してたんじゃ、成功するものも成功しないって」
「…」
店主が持って来た肉まんは熱い。
持ったり離したりを繰り返しながらようやく二つに割ると、中の餡から上がった湯気にはオオ、と間の抜けた歓声を上げた。
「美味しそう」
「緊張感が無いですね」
「緊張したって、来るものは来るし」
「そうですが」
「わたしたちが、呉のご飯美味しくなくてどうするの?」
「…」
「……」
「………貴方らしい、深いのか浅いのか分からない話ですね」
空気が抜けるように陸遜は笑う。
ゆるく手を伸ばすと、肉まんを齧った。
「確かに…美味しいですね」
「ねー。酒が欲しい」
「まだ昼ですよ」
「昼から飲むと言う贅沢感が、酒の味をまた一層に際立てるのですよ」
「そう言うの、何て言うか知ってます?」
「酒好き」
「酒汚い、ですよ」
「物は言いようだね」
「何でも良い様に言えばいいって話なら、違うと思いますよ」
釘を刺すように言われて、
「手厳しいなあ、陸遜は」
はくしゃりと顔を歪めた。
続けざまに出されたスープに手を伸ばす。
「まああれだよ。呂蒙さんの代わりをさ、陸遜が一人で全部務める必要はないんじゃない? 特に、最初の内はさ」
「…」
「凌統も居るし、甘寧も居るし――わたしも居るし。四人とか五人で、呂蒙さん一人分をすればいいんじゃない」
「それでも…」
陸遜は言いかけた後、しばし黙った。
「……それでも、不安はあります」
「まあ、そりゃね。不安だらけだわね」
特に甘寧と。
何分の一を割り振られたとして、それすら全うできるか疑問がある。
自分で言うのも妙な腹具合だと思いながら咀嚼していると、陸遜は重い息を吐いた。
「若い武将だと、仰る方がほとんどです。果たしてわたしの策にどれほど動いて下さるのか…」
陸遜の憂鬱な言葉はその点に関してはもっともで、
ううん、とは唸る。
陸遜を若い将だと揶揄する人間も――居なくはない。
「まあ、それを言うなら、ほら。それこそ、私たちが居るじゃない。言って貰えたら、ちゃんと動くし」
「そうですね。貴方たちは単純で助かります」
「…悪かったな」
歯に衣を着せる余裕もないらしい。
の悪態も右から左に、スープに手を伸ばしている。
視線は一点ととらえたまま動かない。
「それに、尚香様の気持ちを思うと…」
「まあ、辛いだろうね」
は口にくわえたまま、素直に頷いた。
食べやすい熱さになっている。
「でも、孫権様も辛いと思う」
「そう…ですね。この戦どこまでも」
「気が乗らない?」
「そうですね。気が乗りません」
陸遜はそう言うと、を見た。真っ直ぐな瞳は、どこか頼りない。
いつも勝気な彼にしては珍しく及び腰で、は物珍しそうな瞳で陸遜を見ていたが、名を呼ばれ我に返った。
「殿は?」
「ん?」
「蜀と戦う事にためらいはないのですか?」
言わずもがな、趙雲との事であろう。
はしずしずと頷くと、頬を掻いた。
「ためらいが無いと言えば、嘘になるけれど。でもまあ、自分で決めた事だし」
「決めた事?」
「うん。迷わないって」
「迷わない、ですか…」
陸遜は呟く。
「そう言う意味で言うと――今までずっと、迷って来たんだよね。わたし。
郭嘉を斬った事も、自分なりに正当性があった事なんだけれどさ。
ずっとどこかで後悔してたの。だって、手前勝手な事に変わりはないじゃない?」
あっけらかんと話始めたに、陸遜は少なからず驚いた様子だった。
思えばこの話も。
魏に未練があると思われては面倒だから、話してはいけないのではなくて、
自分の後ろめたさから話したくなかっただけなのではないかと、今なら思う。
「平たく言えば、ずっと悪い事をしたって思ってたの。
郭嘉ってさ、あの見た目で酒とか賭けとか女遊びとか大好きで。どう見ても太く短く生きる人種でさ。
そんな破天荒な人に、ずっとベッドに括りつけられて生活する事を強いたんだもの。すごく酷い事をした気がするじゃない。
でも…あの時」
はそこで一度口を噤んだ。
突如目の前に現れた郭嘉。
変わらぬのらりくらりとした態で、もうずいぶん長い事会って無かったと言うのに、それを感じさせぬ程穏やかに微笑みかけた人を脳裏に思い返した。
「恨まれた方が、貴方は楽だっただろうねって言われたの」
「郭嘉殿に…ですか?」
「うん。その時は、突然郭嘉が現れた事とか、生きてた事とか――色々あって、驚いていたから、考える余地もなかったけれど。
でもあとで一人になって考えてみた時にね。ああ、本当にその言葉通りだなって思ったの」
「恨まれた方が、楽…ですか」
「うん。恨まれた方が楽だったのは、わたしだったんだって」
「ですがその」
「した事に変わりはないけれど。もちろん、恨まれてもしょうがない事をしたって思う。
でもその答えを出すべきは郭嘉で、
わたしが恨まれていると思っていた事に、思えば郭嘉の気持ちなんて一ミリも関係なかった。
わたしはわたしの目線で見て、自分に都合の良い答えを出しただけ」
なるほど、と陸遜は言った。
話は随分と逸れているような気がする。
だが、先ほどよりも少し顔つきの良い陸遜を見るに、案外脱線も悪くないのかもとは言葉を続けた。
「ここは、わたしが生きている世界でしょう?」
そう言ってくれた趙雲と、次は刃を交える事となる。
改めて思うと、心臓は冷える。
それを宥めるように胸へと手を当てて、は陸遜を見た。
「郭嘉の時と同じ轍は踏みたくない。
そう思って、迷って見ぬ振りをしてきた事たくさんある。だけど、そんな自分もまた嫌でさ」
今までだって、手を伸ばせば助けられる命はあった。
だけどは出来なかった。
怖かったからだ。
そうして呉の土となっていく人を、罪悪感のまま見送って来た。
どちらにしても後悔したまま。
「でも、それじゃあダメだって思ったの。生きてるんだもの、気持ちよく生きなきゃ。
どっちにしろ後悔するのが性分なら、もう迷わない。
迷うのは止めた。
どうせ背負うなら、自分が気持ちいい事を選んで背負ってく。以上」
「以上って」
呆気に取られた陸遜は、目尻を下げるようにして笑った。
「本当に貴方は単純ですね」
「なにおー。こう見えて、結構悩んで考えたんだからね」
「そうですね。貴方はそうやっていつも、正しい道を選ぼうと必死ですよね」
瞳を伏せた陸遜が唇に弧を描く。
「そうでした。そんな貴方だからこそ…」
静かにそう言った陸遜は、目を開いた。
いつもの瞳だ。
真っ直ぐで、力強い瞳。
どちらかというと苦手なその双眼が目の前にある事に、どこか落ち着く自分が居る。
そう、やはりこの男はこうでなければならない。
「そんな貴方だからこそ、認めているんです、わたしは」
それは知らなかった。
そう言う大事な事はもう少し分かりやすくしてくれてもいいはずだが。
がそう冷静にツッコミを入れているとは知る由もない陸遜は、続けざまに頷いた。
「認める以上――わたしも、そう在らねばなりません」
はっきりとそう口にした陸遜は、腑に落ちたような態だ。
長い事患っていたモヤモヤに区切りがついたらしい。
黙々と一人呟く。
「確かに。戦など、納得があってするものではありませんね。かと言って、納得いかぬまま戦う訳にもいきません。
わたしの策について来てくれるか等と言うのは所詮戯言ですね。ついて来ぬ算段で策を練るなど、愚の骨頂。
ならば、納得いく策を練るまで…それが、わたしの在り方と言うなら、わたし自身がそれを守らねば始まりません」
はと言えば、単なる自身の身の上話から、こうも真っ当に解釈して自身に置き換える陸遜の頭の良さに内心舌を巻くばかりである。
良く要領を得ないまま、うん、と頷いた。
陸遜は豪快に肉まんを頬張ると、店主に手を挙げた。
「これ、城に届けて頂けますか」
「誰に?」
「呂蒙殿です。栄養をつけていただかねば」
やはり勘付いていたのか。
は知らぬ素振りで、ふぅん、と相槌を打った。
「じゃあわたしも、甘寧と凌統に」
「――戦の前なのですから、ほどほどに」
「そんな事、酒飲みですから弁えてますー」
「それはそれは、説得力がありますね」
「……思ってもない事、どうもありがとう」
完全にいつもの調子だ。
は冷めた肉まんを食べてしまうと、スープを飲み干した。
ごちそうさまです、と手を合わせる。
「そう言えば」
「どうしました?」
「嫌、結局なんでわたしだけ器用に避けられてたのかな、と思って」
凌統や甘寧には普通だったようだし、
最後の最後、もののついでに聞いておこうと思ったの前で、陸遜は不意を突かれたような顔をした。徐々に顰め面になる。
「それは…その…」
「何よ」
「あまり煮え切らない所を見られるのは…」
「へー。何で? 前に愚痴聞くって約束したじゃん」
まあ、その時は聞いた愚痴すら覚えて無かったが。
それに加えてあんまりいい思い出でもないが。
それでも、一度約束した事は事実。
なんてことはなしに言ったに、陸遜は喜ぶ所か、史上最悪なテスト結果を前にしたような顔をした。
「…………たまたま察しが良いと言うのも、返ってすごく腹立たしいものですね」
「え?」
「貴方は鈍い位が丁度いいと言う事です」
「えぇぇぇええぇ…」