ドリーム小説
野暮な小火
女中の好物は噂話である。
「ねぇねぇ、この間様付きの子から聞いたんだけれど」
「何々? もしかして、陸遜さまとのお話?」
「それが違うのよ!
ほら、様と言えば、甘寧様や凌統様と良く明け方までお酒を飲んでいらっしゃるじゃない?」
「ああ。よくおつまみやお酒を注文されると聞くわね」
「それがうっかり女中がおつまみの手配をするのを忘れたらしくて!」
「まあまあ」
「そしたら様、とりたててお咎めもされずに、甘寧殿と凌統殿におつまみを作って振る舞ったらしくて」
「まあ。以前は魏にいらしたと聞いたけれど、魏の武将様は料理も嗜むのかしら」
「それがまた大層美味しかったとかで、結局そのまま飲み明かして、
次の日女中が様を起こしにお伺いしたら、三人ともテーブルに座ったまま寝てらしたそうなのよ」
「――その話、詳しくお聞かせ願えませんかね?」
「り、陸遜様!」
「申し訳ありません!」
「いえいえ。まったくお気になさらなくて結構ですので、どうぞ続きを」
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「最近呑み過ぎだな」
書簡を手に一人呟くように言ったは、
まったく開く気のおきないそれを机の上に戻すと、両腕を組んだ。
「アイツら、すっかり温かいつまみの味しめやがって……毎晩のように押しかけて来るからなぁ…」
最近では、がまるで料理担当のような顔をして酒を持ち込んでくる。
その酒がまた良いお酒なものだから、うっかり断りきれずに上げてしまって、結局呑み過ぎてしまうのだ。
「ちょっと減らすか……休肝日でももうけるか…」
どちらもあの二人と酒の席になると到底無理な話。
は頭痛を抑えるようにこめかみに手を当てると、眉間に皺を寄せて考え込む。
「今日あたりは断るかなあ〜。
でもなあ〜、そう言う時に限ってタイミング図ったように殊更良い酒持って来たりするんだよなぁ〜」
結局は欲に弱い自分が悪いのだ。
重いため息を吐いた時、執務室のドアが叩かれ、
は慌てて書簡を手に取って広げると、 さも熱心に仕事をしていた素振りで返事を返した。
「どうぞ」
「おや――珍しくちゃんとお仕事をされていたんですね」
扉の向こうからにっこりと笑顔が見えて、は内心の焦りが顔に出ないよう、努めて平常心を装う。
「陸遜。ええ、まあ…たまには…」
なんかいつもサボってる風で聞こえが悪いじゃない、とは、陸遜を相手には言えない。
毎度仕事が溜まりに溜まって、そんな時に限って甘寧も凌統もアテにならずに、結局陸遜に泣きつくである。
どの口があっても言えない。
もごもごと口籠っていると、
天使のような振りした赤い悪魔は尚の事深い笑みを浮かべた。
「てっきり毎度の二日酔いに懲りない反省をしつつ、
まったくする気のない酒の量を減らす算段で頭でも抱えているのかと思ってましたが」
びくり、との肩が震える。
「…ねぇ陸遜、この部屋に盗聴器とか仕掛けてないよね…?」
「とーちょうき?」
「嫌、何でもないの。こっちの話」
は恐ろしい考えを振り払うように頭を振った。
先ほどから背筋がぞわぞわするのは、きっと気のせいではあるまい。
「で、何の用? 書類なら、見ての通りもう手一杯だから他所に回してね!」
「溜まるのが目に見えている相手に回す程余裕のある書類は、私の所には早々回って来ませんよ。
もっとも提出の期限が近づくたびに私の所に持って来る方はいらっしゃいますが」
地雷踏んだ――ッ!
その瞬間、は手のひらを返すように、猫なで声をあげた。
「ど、どのようなご用件でしょうか、陸遜さま…」
が伺うように陸遜を見上げると、彼はふと、憂いを帯びたようにしてため息を吐く。
なかなかお目にかかれない顔に、の心臓がどきりと跳ねた。
「それが、殿に聞いて頂きたい相談が」
「あ、あたしに?」
陸遜のような頭のよろしい方が、に相談したいなどと言う事案が世の中にあり得るのか。
否、何か裏があるんじゃないかなあ、とうっかり勘ぐりたくなるレベルであり得ないと思う。
この見るも美しい悪魔が時折、
とんでもない火種を持ち込んで来るのを身を持ってしっているが若干警戒した事に気付いたのか、陸遜はさらりと付け加えた。
「相談と言うより、愚痴ですかね?」
「愚痴……ねぇ」
まあ、愚痴ならを選ぶ理由も分かる気がする。
が納得いったような素振りを見せると、彼は至極嬉しそうに微笑んだ。
「つきましては、今夜一つ、酒の席でもいかがかと」
「陸遜が? 酒ぇ?」
びっくりして目玉が落ちるかと思った。
まんまると目を見開いたは、驚愕に開いた口が塞がらない。
「どうしたの。何があったの。そんなに嫌な事があったの? ついに女装でもさせられたの?」
呉の主君である孫権主催の酒盛りでも、彼は最初の一杯に付き合う程度で、あとは平然と茶を飲んでいるような男である。
てっきり酒は嫌いなのだと思っていたは大層驚いた。それでも呑みたくなるほど嫌な事があったのか。
「女装って…」
陸遜は陸遜で、が陸遜に対して浮かぶ嫌な事第一が女装だった事にショックを隠しきれていない様子。
しばらく微妙な空気が流れた後、はおっかなびっくり頷いた。
「ま、まあいいけれど…」
陸遜相手なら、そんなに量も飲まずに済むだろうし。
が了承すると、陸遜は安堵したように微笑んだ。
「では今夜、とっておきのお酒を用意させますね」
「わーい!」
「しかし、今日はわたしが気に入っている店が休みでして。
殿はどこか軽く食べ物を用意出来る店はご存じですか?」
「食べ物? んにゃあ〜、酒は詳しいけれど食べ物はなあ〜……自分が作るので間に合うからなあ」
ううん、甘寧たち辺りにでも聞いてみようか?
と、が続けようとした時、覆いかぶさるようにして陸遜が口を開いた。
「なんと、殿は自分で作られるのですか?」
「簡単な物だけれどね。そんなんで良かったら用意しようか? 口に合うかは別だけれど」
「ぜひ」
「じゃあ、うちで良い? 女中は皆夜帰してるから、接待は出来ないけれど」
「構いませんよ。愚痴なんて、あまり多くの人に聞かれても困りますし」
「それもそうだね。じゃあ、今日の夜ね」
「ええ、ではまた後程」
それだけの為にわざわざ来たのか、と納得させるほど、陸遜はあっさりとの執務室を出て行った。
もちろん、
「良い酒を持って行きますので、今日の分位は真面目に片付けて置いて下さいね」
と、念を押すのを忘れない辺りしっかりしていると言うかなんというか。
大した年下だな、と改めて舌を巻いたは、仕方なく書簡に目を落とした
――感心したからではない。これで終わらせてなかったら、何を言われるか分かったものじゃないからである。
そんなこんなで夜。
甘寧や凌統に声を掛けられたら、
今日は陸遜が来るのだと断りを入れようと思ったのに、珍しく二人とも姿すら見せなかった。
「いやあ、美味しいですよ、殿」
「口にあったなら何より。にしても陸遜、よくこんな良いお酒何本も用意して来たね…高かったでしょう?」
「たまにしか呑まないので、今日は奮発したんですよ」
机の上には、名前は聞いた事があるけれど、なかなか手に入らない銘酒がずらりと並んでいる。
うっとり見惚れていると、陸遜は笑った。
「無理に呑まないでくださいね。残れば、置いてかえりますから」
「大丈夫よ。陸遜がそんなに呑まないのに、あたしだけがぶがぶ呑んだりしないから、さすがに」
「とりあえずまあ、おかわりを」
「ありがとー。あ、手酌はダメよ。注いであげる」
「ありがとうございます」
と、愚痴が出る気配もなく。
もう少しお酒が入った方が言いやすいのかなあ、なんて思って居たは注げば注ぎ返されるを繰り返し。
「――陸遜って…もしかして、お酒、強い?」
「嫌いではないですよ」
「そうなんだあ。あ、どうぞ」
「どうも」
「――ハッ!」
気が付いたら、朝だった。
いつの間にやらベッドに潜り込んだらしいが、服は着替える元気はなかったらしい。
ままある事なので、とりあえず起きて着替えるか、と上半身を起こしたは、そこで固まった。
「!!!!!!!!!!????????????、陸遜!!??」
何故となりで寝ている陸遜。
びっくりしたがベッドから転がり落ちると、陸遜は目を開いた。
「おはようございます、殿」
寝ていたとは思えない爽やかさである。
とりあえず何から聞いていいのか分からないがあたふたしていると、陸遜は身を起こした。
「寝そうだったので、ベッドまでお連れしてお暇しようと思ったのですが、掴んだまま離して頂けなくて」
「そ、それは失礼致しまして…で、えーっと…」
着衣の乱れは双方ない。身体も二日酔いな位で異常はみられない。
と言う事はあえて聞く必要はないのか…。
「ありましたよ」
「えッ!!!?????」
「冗談ですよ」
「びっくりしたァァアアァァァアアア!!」
うわーん、とが泣く。
するとドタドタと走って来る音が聞こえて、はしまったと身体を揺らした。
「様、いかがなさいました!?」
「あ、待って! 開けちゃ…!」
無情にも開く扉。
女中は床に転がっているを見て、ベッドに居る陸遜を見ると、サッと頬を朱に染めた。
「失礼しました!!」
「ちょっと待って、勘違いだから! 勘違いなのぉ!」
「ではわたしはそろそろお暇を」
「帰りにちゃんとあの子に説明してね! 呑んで寝ちゃっただけだって説明してね!!」
「もちろん」
胡散臭いまでの笑顔。
あっさりと部屋を出て行こうとする陸遜にそれ以上は詰め寄れず、はお願いしますと、半ば土下座して言い続けるしかない。
すると、何かを思い出したように陸遜が足を止めて振り返った。
「あ、殿」
「何!?」
「愚痴を聞いて頂き、ありがとうございました」
「……う、うん?」
いつ寝たかもどうして陸遜と寝てたのかも覚えてないが、聞いた愚痴など覚えているはずもない。
「結局愚痴ってなんだったっけ?」とも聞けずに、はものすごくゆっくり頷いた。
「どういたしまして!」
笑顔のまま出て行く陸遜に、引き攣ったままの。
怒涛のような一日ののち、は更に頭痛の種を持つ事になった。
甘寧と凌統が宅に来ては朝まで呑み明かしている事は、すっかり呉の城中に広まっていて、
それに加えて陸遜とがベッドで一夜を共にしていたと言う話も、なぜかすっかり広まっていたのである。
女中は私じゃありませんと必死に言っていたので、となるとどこから話しが漏れたのか、は皆目見当がつかない。
ただ。
「ついに辿りついたそうではないか!」
「……孫権様、だから何もなかったんですって。辿り着くってなんですか。どこにですか」
「ベッドでどこに行かない訳ないだろう」
「ない時もあるんです!」
「――ないってのは、逆にどうなんだ?」
「それ周泰さんに言われると地味に傷つきます!!何ででしょう!?」
「。そろそろ帰るわ」
「何、いいけど……どうしたの甘寧。いつもならそのまま寝ちゃうのに」
「あ――、ほら、あれだろ、お前…」
「陸遜とどうのって話? だから何もなかったんだって!」
「お前とは何もなくてもオレ達があるんだっつーの!」
「え!? 陸遜と甘寧が!? それとも陸遜と凌統が!?」
「そういう意味じゃねぇ! 鈍臭いのいい加減気付け!」
「……まあ、これじゃあ愚痴も言いたくなるよね」
「何? どういう意味、凌統? ってか、結局愚痴ってなんだったんだろう」
きょとんと瞬いていると、甘寧がしびれを切らしたように、と頭を叩いた。
酒が零れてムッとなっただが、甘寧の言葉に目を剥いて、それどころではなくなった。
「だから、お前とオレ達がお前ン家で呑み明かすのが気に喰わねぇって話だろうがよッ!」
「……へ?」
「そういう野暮な事言わすよなぁ、お前って」
しみじみと凌統は最後の一口を喉に流して立ち上がる。
なんだこの完全なるアウェー感。
こと陸遜が絡むと、完全なる二対一の図式が出来上がる気がして、は間抜け面のまま、呟いた。
「野暮?」
「さ、また小火があがらないうちに帰るかね」
++
家を燃やすだけが小火じゃない