切っても切れない


しかし今更何故郭嘉の話など持ち出して来たのか。
そう言って首を傾げたに、凌統は心底呆れた瞳を向けて来た。
「…その様子じゃ、さては全く覚えてないね」
「何を?」
「こないだ城外で酒飲んだろ。オレ達」
「うん」

いつもいつも室内では飽きると言う甘寧の言葉に、じゃあたまには野外で呑もうと、酒をぶら下げて城を出た。
二人にとってはなんてことない夜空の下でも、現代に生きてきたにしてみれば、満天の星だ。
何に遮られることもなく届く星の光に酔って、気持ちよく飲んで笑った事は記憶に新しい。


ただ呑み過ぎて、甘寧たちと分かれてからの記憶がない。
気が付いたら朝で、自室のベッドに倒れ込んでいた。
しかしまあ、何かやらかしたと言う話も聞かないし、酔っぱらっても帰るまではしっかりしていると自負している。
何の疑いもなく、ただ何事もなく帰ったのだろうと思っていたは、思わぬ話題に度胆を抜かれた。


「そん時お前、オレ達と別れたあと、陸遜に会ったんだと」
「へ?」

素っ頓狂にが瞬く。
まったくもって記憶にない。

「だって、解散したの夜中だったじゃない」
「そういう理屈は通じないでしょ。あの軍師様には」
「なるほど。夜中だろうと仕事をしてた訳だ」
「そん時に、酔っぱらったアンタが右に左に揺れながら歩いてるのを見て、声を掛けた、と」

「ふぅん」

「そしたらアンタは言ったそうだ。

『やあ、郭嘉。またこんな時間に帰って来て、持たせてた夕飯はちゃんと食べた?』 …………ってな」

肝は冷えた。


「…」
「……」
「………」
「…………マジか…」


一瞬の内にドッと嫌な汗が噴き出して、は眩暈を覚えた頭を支えるように手を置いた。
瞬きってどうするんだっけ?
小刻みに震えるを慰めるように、甘寧が肩に手を回す。ぽん、ぽんと二回叩かれ、

「やっちまったな」
慰めているつもりなのか、声音が優しい。


「陸遜の野郎、荒れてたぜ〜」
「もちろんそのしわ寄せは俺達に来たけどね」
「あれだけ酔っぱらってる女性を一人で帰らせるとは何事ですか――! ってな」
「久しぶりに甘寧の自室、ちょっと燃えたよな」
「バケツリレーの時の黄蓋、生き生きしてたよな」

「……甘寧、そこはもっと怒った方がいいよ」
決して燃やされ慣れるべきではないと思う。
燃やされ慣れた男、甘寧は、貫禄を見せつけるようにしみじみと頷く。

「まあ、オレ達にも非はあるしなあ」
「別れるまでは結構しっかりしてたんだけどね、アンタ」

最近は酔ってそのまま倒れる事が多かったから、すっかり失念していた。
途端に申し訳ない気持ちがぐるぐるととぐろを巻いて、は口元を抑えると、げんなりとした声をあげた。
「…なんか、ごめん」
「まあオレ達はいいんだけどなあ」
と、甘寧。


「でもまあ、皆まで言わずともわかんだろうけどよ」

頬をかいた甘寧の言葉を継ぐようにして、
凌統は酒に唇を濡らしながら、のんびりと口を開いた。
「郭嘉の事を危惧する原因を作ったのも、またアンタだって話だよ」








つまり、身から出た錆だった、と言う訳だ。
鍛錬終わりに槍の手入れをしながら、は昨夜の会話を思い返す。
今更郭嘉の話題を持ち出したのは――凌統甘寧でもなく、陸遜でもなく、事もあろう事に本人だったらしい。

呉に亡命してから随分と、そういう意味では気を張っていた。
魏に未練があると思われては面倒だから、なるだけ酔っても魏の話――ましてや、魏を出る原因となった郭嘉の話題だけは特に避けて来た。

それが、最近は自分でも呆れるくらいどっぷりと呉に慣れ親しんでしまったのだろう。迂闊だった。
心は冷静にそう思いながらも、思考は郭嘉と過ごした時間をさかのぼっていく。


無双の世界にトリップして、右も左もわからなかったを偶然拾ってくれたのが、郭嘉だった。
その時が理解していたのは、
どうやら自分は、今しがたプレイしていた武将エディッターになっているらしいと言う事と、
ここが魏である事。

その証拠と言うべきだったのが、茫然とするの目の前に立っていた郭嘉で、彼はまだ魏に組する前、各地を転々と放浪していた最中の事であった。

――あなた、面白い瞳をしているね。

先見の才を持つと言われていた郭嘉の、その言葉の真意も分からないまま、あれよあれよとは郭嘉に拾われた。

根無し草同然の郭嘉はあの見た目で、ちょろっと聞いた史実通り、酒賭け女が超大好きな、超超不摂生男で、
成り行き上世話係のようになったは、郭嘉が入城する折の条件として曹操に提示し、一緒に魏へと入った。

副将となってからも、あれやこれやと世話を焼いていたから、
が陸遜に言ったと言うそのセリフも、何度も口にした覚えがある。
覚えがあるだけに、罪悪感が半端じゃない。何をどこまで言ったのだろうか、と、記憶を引っ張りだそうとしても、覚えてない事は何も出て来ない。

ただ、と、の思考はまた過去に遡る。


――仕事でも女でも酒でも、ちゃんとご飯を食べてからにしてからにしてくださいね!

――やれやれ。本当にあなたは細かい人だねぇ…。

――それぐらいが貴方にはちょうどいいんです!!!!


自分の命が短いと知ってか知らずか、
とにかく自分の欲を優先する人だったから、は気が気じゃなかった。
いつか来るその時に、彼の命を繋ぎ止める為の最善を尽くす事――それがに出来る恩返しだと思って居たから、とにかく自分が口うるさいと言う自覚もあった。

「……郭嘉…」

自身も色々調べてはいるけれど、郭嘉が病に伏した後の話は聞こえては来ない。
いざと言う時の為に、良医も探した。
願わくば、発病しても、死なない事。
郭嘉自身はどう見ても太く短く生きるタイプだったから、
きっとがした事は恩義の名前を借りた自己満足だったのだろうけれど、それでもどうしても死んでほしくなかった。


生きているのか、死んでいるのか…。
にはそれすら分からない。


郭嘉を遠征に行かせないためには――斬るしかなかった。


その結果、が魏にいられなくなったとしても。
郭嘉がくれた居場所を捨てる道を選ぶ事になったとしても。彼のその後を見届ける事が出来ないとしても、
後ろ髪を引かれるように散々と迷ったが、
結局他に方法は思い浮かばなかった。
生きていてくれたら――それだけを願って、はその折、声を掛けられていた呂蒙をすがって呉に落ちのびてから、もう何年の月日が過ぎたか…。



未だに郭嘉の話は聞かない。
どうしているのだろうか、と、一度思うと、それに心を捕らわれる。





殿?」

後ろから声を掛けられ、は驚いて身体を揺らした。
するりと手から滑り落ちた槍が地面を転がって、慌てて拾うと、首を巡らせる。

「あ、り、陸遜」
「どうかなさったのですか? 珍しく考え込まれていたようですが」

珍しく、って…。
いつもなら軽口の一つでも返すのだが、今日にいたっては、どこかやましい気持ちがあっていけない。
はオドオドと視線を泳がせると、首を振った。
「大した事じゃないよ」
「そうですか、ならいいのですが。鍛錬ですか?」

するりと歩いて行ってくれればいいのに、追って尋ねられて、は小さく頷く。

「そう」

「そうですか」
また会話は終わった。
だけど陸遜は一向に立ち去る素振りをみせない。

赤い服に身を纏い、立ち姿も顔も、相も変わらず美しい。
真っ直ぐ見つめられるとどうにも弱くて、は自分から立ち去ろうと、口を開きかけた。

「じゃあ、あたしはこれで…」
「凌統殿と、甘寧殿に何か聞かれたのではないですか?」

「うぇ!?」
「…本当に、つくづく分かりやすい人ですね、あなたは」


呆れられた。
ここ、呉に来てから、幾度となく陸遜のこの顔を見て来た。
そして苦手だ。ギュッと肩身が狭くなるのは、もはや条件反射と言っても過言じゃない。

「まったく。あのお二方は口が軽いですね」
「…えっと…」
「まあ私も、あらかた貴方まで話が行くだろうと思って話したので、悪く言えるクチではないのですが」

突然、さらりと言った。
底知れないい腹黒青年は、ため息と共に堂々と言ってのけた。

は呆れるやら驚くやらで、感情よりも先に、感嘆のため息が出て来る。

「…そうだったの?」
「多少は申し訳ないと思って頂けるかと思いまして」

対して呉が誇る腹黒軍師は、わざとらしいまでに爽やかに微笑んだ。

「そりゃあ、まあ、思うでしょうよ」
「すっかり忘れてた貴方が言いますか? それ」

追い打ちをかけるように尋ねられる。めちゃくちゃ怖い。
こういう顔をする時は、だいたい機嫌が良い時か悪い時――どちらにしろ、に良い事があった試がない。

は一歩後退さる。

「しょうがないと思う。酔ってたんだもの」
陸遜が一歩詰め寄る。
が逃げるように後退さる。
「ご、ごめんってば!」
謝罪を求められていると踏んだは、いち早く謝る事にした。後に続くと分が悪いのは、今までで経験済みだ。

「人に謝る時はどう言うんでしょう?」
「も、申し訳ありません」

の方が先輩なのに。歳も上なのに。
すっかり出来上がってしまった上下関係は、今日日簡単に揺るぎようもない。
甘寧や凌統はもうちょっと立てているのに、何故だけ…。
ちょっと自分が情けなくなってきたは、至極丁寧に頭を下げた。

陸遜はちゃんと謝罪がもらえた事に満足したのか、恐い笑みを引っ込める。その代り、眉間に皺を寄せた。
「これからは、真夜中に酔ってふらふら歩くのはよして下さい」
「はい…、仕事している人の前ですみませんでした…」
「………どうしてそう取りますかねぇ」

また、ため息。
何が気に喰わないかさっぱりわからないが肩を落としていると、陸遜は付け足すように言った。

「女性なんですから、貴方は」
「…ぇ…?」
「なんですか? わたしの心配は余計ですか?」
再びにっこり笑われて、は激しく首を振る。
「滅相もございません。感極まる」
動揺が言葉に隠せてない。

「それから、後二つ」
「二つもあるの!?」
「今貴方の目の前にいるのは?」
「陸 伯言様でいらっしゃいます」
「…」

「陸遜です」
「よろしい」

ここは尊敬語じゃなかったのか…。
まったく心臓に悪い。

はひっそりと深呼吸をする。

「では、最後にもう一つ」


ずいっと詰め寄られて、は突然目前に来た美しい顔にびっくりして尻もちをついた。
すると、陸遜はわざわざしゃがみこんでに顔を寄せて来る。

(近い近い近い近い近い近い近い!!)

茶色の瞳に、引き攣っているが映っていた。

「貴方は呉の人間です。離れる事は、この私が許しません」

その姿に、あの日の夜の彼女が重なる。


 ――郭嘉、ごめんね。こんな助け方しか出来なくて。

そう言って陸遜に頭を下げた彼女は、今にも泣きそうな顔をして、唇を噛んだ。

 ――本当に、ごめんなさい。

何度もそう言って、すがるように、陸遜を見た。郭嘉と呼んだ彼女は、まぶたを震わせる。

 ――お願い。元気になってね。



酔っていたことより、
間違えたことより、
もっと気に喰わなかった思いが胸を駆け巡って来て、
陸遜は「は、はい」と間抜けに返事をするを前に、蓋をする。

貴方は笑っていればいいんですよ。

悔しいから、絶対に言ってやりませんけれどね、
と、陸遜は彼女が絶対に恐がるであろう、満面の笑みを唇に浮かべた。

+++
切っても切れないものばかり