兄貴の性分

「げ」
兵たちとの鍛錬が終わり、執務室へと戻る廊下を、
陸遜を囲む侍女たちが塞いでいる事に気付いたは足を止めた。
「またか…」
一度や二度ならず、良く見る光景である。
華やかな一団に気付かれぬよう、は一二歩後退さると、ため息を吐いた。

侍女とは言え、貴族の娘がほとんど。
立ち振る舞いが優雅なのはもちろんの事だが、中には名のある方とお近づきになろうと言う魂胆があからさまなものも多い。
そう言う侍女には近づかないのが一番で、
踵を返そうとしたは「何してんだ」と言う甘寧の声に跳び上がると、慌てて振り返り、彼の口を塞いだ。
「静かに」
首を巡らせたの剣幕に押されて、甘寧が頷く。
彼の口から手を離したは、かの一団がこちらに気付いていない事に胸を撫でると、甘寧の腕を引いた。
「鈴、鳴らさないように」
「はぁ? 無理言うなよ」
二人してそろりとその場から離れると、ある程度歩いた甘寧は、眉間に皺を寄せる。
「わざわざ道を変える程でもねぇだろ」
「まあ、甘寧だけなら、突っ切る事も可能だっただろうね」
「捕まるとアイツら話長ぇからな。道を変えるのが一番っちゃぁ、一番だな。ニコニコ聞いてる陸遜の気がしれねぇぜ」
「あの愛嬌を少しでも向けてくれたら、わたしの胃も平和なのに」
ぽそりと呟いたの言葉に、甘寧は口端を持ち上げる。
「あんな愛想笑い、貰っても嬉しかねぇだろ」
「まぁね」
「それにしても、お前、随分と逃げるの上手いじゃねぇか」
「まぁね。処世術として心得てるから」
緩いため息と共に言った
甘寧はそんな彼女の言葉に瞬きを返すと、ああ、と相槌を打った。

「魏の郭嘉か」
「甘寧って、以外と察しが良いよね」
「お前ぇが分かりやすいんだろ」
「まあ確かに、わたしの人付き合いなんてたかが知れてるか。そうなんだよ。郭嘉の女癖の悪さには何度痛い目を見た事か…」
「へぇ」
「書庫に閉じ込められた事が何度かあったな」
あれほど携帯電話が無い世を恨んだ時は無かった。
遠い過去を思い出すの瞳は、どんどんと細くなっていく。
「水を掛けられた事は数知れず」
「…」
「多くは、郭嘉に預けられた書簡を持っている時で、見計らったかのように水が降って来た。色水の日もあれば、雑巾を絞った水の時もあった」
「……」
「郭嘉が留守の時は必ず執務室と屋敷の前に馬糞があったし、侍女から分けて貰った食べ物はなるだけ口にしなかった。なんか怖くて」
「そりゃすげぇな」
「まあ、今となってはなかなか良い思い出だよね」
「良い思い出かよ」
「うん。何でかそう言う時に必ず居合わせたのが司馬懿でさ」
「司馬懿って、あの司馬懿か?」
「そうそう」
思えば、こんな風に魏で過ごしていた日々を口にするのは久し振りだ。
気付いた罪悪感に口を噤むと、そんな彼女を横眼で見た甘寧は笑った。
「今更そんな気を使う程の話でもねぇだろ」
「確かに」
「ま、お前が話したくないなら別だけれどな」
皆が兄貴と慕う理由は、こういう所にあるのだと思う。
能天気に宙を仰いでいる甘寧を見て、は小さく笑った。
気を取り直したように口を開く。
「運悪く居合わせて巻き込まれたくせに、勝手に怒って真っ赤になって。侍女の嫌がらせより司馬懿の小言と嫌味の方が面倒な位だったんだけれど。
その頃まだ司馬懿はまだ入城したてで、今みたいな地位にも居なかったんだ。だから結構対等に話も出来てて。
割と城の中で一番話をしてたんじゃないかなあ。……まあ、ほとんどが巻き込まれる事に対する文句だったんだけれど。

ある時、侍女が食べ物をくれてね。

その侍女が嫌がらせに噛んでる事は知ってたし、かと言って貰わないのも角が立つし、
いっそ貰って捨てようかしらとか思ってたら、目の前でその食べ物が吹っ飛んでさ。

驚いて振り返ったら、いつの間にか司馬懿が立ってて、
貰うな馬鹿めが! って、扇で叩かれたんだ。
その頃から司馬懿が出世し始めて、司馬懿の出世と共に、嫌がらせは減って行ったんだよね。
まあ、それ位いつも盛大に司馬懿は巻き込まれてたんだよ。あれはもう、根っからの体質だね」


思い出して耐え切れなくなったように、は口元を覆う。


甘寧はそんな彼女を妙なものを見るような目つきで見ると、言葉を返した。
「まさかとは思うが、お前司馬懿と…」
「んな訳ないじゃん。司馬懿、入城した時から奥さん居るし」
「ああ、お前二番手ダメなんだよな」
「半笑いで見ながら言うな馬鹿めが」
「はは。まあ、その話を聞くに、今はケッコー上手くやってんだな」
「立場もあるんじゃない? あの時は副将だったし。ほら、貴族の娘は肩書きに弱い生き物が多いから」
「まあな」
「それから、あと――誤解されないと言うのも大事だよね。郭嘉とは一緒に住んでたから、まあもう、嫌がらせもしょうがないとある意味思えたもんなあ」
甘寧からの相槌が無い。
目を向けると、まんまると瞳を開いている甘寧と目が合う。
「…何?」
「お前、一緒に暮らしてたのか?」
「郭嘉と? そうだけれど? だって、拾って貰って…」
「いや、それもそうだけどよ。入城してからはお前ぇ、別に住めただろ」
「そう言う話が出なかったんだよね。
一度、連れ込みにくいだろうから屋敷を出て近くに住もうと思って切り出した話も、なあなあとかわされたし、
まあ、一緒に住んでた方が、身の回りの世話をするのには楽だったからね」

「楽だったからね、って…」
甘寧が言い淀む。
「お前、本当になンも無かったんだよなあ?」
「ないよ」
「女好きの家に居てか?」
「え? 何甘寧、喧嘩売ってるの?」
真顔で問うと、真顔で首を横に振られた。
どうやら冗談ではなく、本気で疑問に思っているらしい。
そう悟ったは、頷いた。
「なーんにも。好みじゃなかったんじゃない?」
「好みじゃなかった…ねぇ」
どうも甘寧の声は煮え切らない。
呟くようにそう言った甘寧は、の頭に手を乗せた。その重さに、顔から前のめりになる。
「甘寧、重い」
「まあ、とにかく。その話、陸遜にはするなよ」
「しないよ、こんな話。しても甘寧と凌統にだけだよ」
「そうしとけ」

「ってか、甘寧ってさぁ、お兄ちゃんだよね」
「あぁ?」
「甘寧に付いて来た兵たちだけじゃなくてさ、わたしにも、陸遜にも、平等なお兄ちゃんだよね。
偏らないって言うかさ、そう言うの、すごいと思う」
「偏らないか?」
「少なくとも、わたしはいつも右に左にグラグラ」
「確かにな」
ははは、と甘寧が声をあげて笑う。

「それでも前を向いてるってのが、お前ぇの数少ない良い所だからな」

甘寧の言葉に瞬いたは、くしゃりと笑った。
「まぁね」
「今晩、飲むか」
「飲むか。凌統誘おう」
「また三人かよ」
「何言ってンの。三人ってのがいいんじゃない。誤解は少ない方がいいんだからさ」
下唇を突き出すと、甘寧は僅かに眉を潜めた。
そうして、破顔するように笑うと、の頭を力任せに抑える。
「ちょ、甘寧、マジで重い…!」
「なあ、
「何?!」
「いつか、誤解されても良いって位好きな奴出来たら、まず俺に教えろよ」
「何でよ」
「ンなもん、からかう為に決まってンじゃねぇか」
「何じゃそりゃ」
「約束します、は?」
「ちょ、重い! する、するから!」
「なら良し」
ようやく重みから解放されて、顔をあげたの眼には、満面の笑みの甘寧。
ぐ、と突き出された拳に拳をぶつけると、甘寧は景気よくの背中を叩いた。


「たまには手合せしようぜ」
「嫌だよ。今鍛錬終わったばっかりだもん」
「おら、行くぞ」
「ちょ、待って、甘寧力強い…!」



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二人で立ち去った辺りを見ていた陸遜が、 ちょっとしたストレスのはけ口に甘寧の部屋に火をつけたのは別の話。