ドリーム小説

飽きた。
積み重なった書類を束で掴んだは広げて扇のようにすると、仰いで自身に風を送り始める。
その音に顔を上げた徐庶はため息を一つ。
「…。言わなくても分かってると思うけれどそれは…」
「大事な書類、でしょ。国の重要な書類だなんだって言ってるから、国なんていつまでたっても机上の空論なのよ」
「君はすぐそう言うもっともらしい屁理屈を言うなあ」
げんなりと額を押える徐庶。
見慣れた仕草に取り立てて感情もないが手を止めずに温い風を浴びていると、執務室の扉が弾けるようにして開いた。
その先に居るのは司馬昭。
「だから迂闊に来ないでって何度も――」
唇をへの字にひん曲げる合間にもズカズカと足音を立てて入って来た司馬昭は、ドンと両手での机を叩く。
「姫さん!」
「だから姫さんって言うな」
「いや、姫様!」
「姫様言うな」
「一生の頼みがあります!!」
「…」
「……」
「………え、無理」
「そう言うと思いました」
俯いた司馬昭。丹精な顔に影が落ちる。珍しいその様子を見ていると、司馬昭はいつに無く真剣な声音で呟いた。
「頼れるのは姫さんだけなんです」
「出口はあちらになります」
開けっ放しの扉を示す。
すると徐庶が呆れた声で横槍をいれた。
「……困ってるんだろう。話くらい聞いてあげればどうだい」
「えぇ。やだよ。頼れるのがわたししか居ない時点で絶対めんどくさい話じゃん。いいこと、徐庶のそう言う所は優しい訳じゃなくて、生易しいって言うのよ」
「…………ます」
「ん?」
「父上の机から、次の戦である赤壁に関する今の所魏軍、劉備、孫権率いる連合軍に関する情報を持ち出してすべて姫さんに流します。
そうすりゃ、次の軍略会議で食い込める。下手すりゃ、出陣の可能性だって見えてきますよ」
の眉根がぴくりと動く。
そうしてついと目を細めると、司馬昭を見た。
その表情で釣れたと見た司馬昭は、駄目押しのように言葉を続ける。
「姫さんにとっても悪くない話でしょう」
「確かに悪くない話ね。でも、逆に言えばそれを持ち出してくるくらい…面倒な事、ってことでしょう? 一体わたしに何をしろって言う訳?」
「俺の恋人の振りをしてください」
「はぁ!?」
「このままじゃ俺、許嫁が出来ちまう!」
「許嫁ぇ!?」
勢いに乗って驚いては見たものの、よくよく考えればこう見えてこの男、司馬である。
司馬と言えば優秀な粒ぞろい。彼の父親である司馬懿も曹操に目を付けられて逃げられずに登城したクチで、最近では頭角を現し曹丕のお気に入りとも聞く。
その息子である司馬昭は言わば坊ちゃん。許嫁が出来た所で不思議はない。
と言う思考に辿り着いたは息を吐いた。
「…あのねぇ。わたしが言うのもなんだけれど、赤壁持ち出してくるならもうちょっとマシな頼みごとにしなさいよ」
「俺にしてみれば死活問題です」
「そりゃそうかもしれないけど…」
「頼みます! 姫さん!!」
だから聞く前に断ったのに。徐庶が横で変な同情入れるから。
恋人の振りをするくだりから入っていたらにべもなく断っていたものを、先に赤壁を持ち出した辺りが司馬昭の見事な作戦勝ちでは渋々口を動かした。
「…頼みますって言ったって、手はあるの?」
「夏候惇殿の親戚って事にしてください。姫さんなら教養もあるし、いけます」
「いけますって簡単に言うけど、わたしはあくまで姫としての振る舞いを習っただけで、教養を習った訳じゃあないのよ」
「十分です」
迷いなく頷く司馬昭。は訝しげな視線を向けた。
「わたしを引っ張りだす理由はそれでいいのね? 他意があるなら、今言っておいて」
「もちろんあります。貴族の娘の振りをさせるのは誰だって構いませんが、振りでも恋人なら姫さん以外は考えられません」
「…子上」
「頼みます。姫さんの答えがどうであれ、俺はまだ許嫁は困るんです」
無言のまま数分。この合間に一度でも目を逸らせば断ってやろうと思ったのに、司馬昭の瞳は一切揺るがない。
しばらく見据えていたもやがて観念すると肩を竦めた。
「姫さんも姫様もやめなさい。うっかり呼んだ時には、見捨てて速攻逃げるからね」
「はい」
「それで? 服はどうするの? 髪もさすがにこれじゃあね」
徐庶が整えてようやく見れるようになった短髪を指差すと、司馬昭は任せて下さいと言わんばかりに頷いた。
「夏候淵殿に頼みました」
「淵師匠に?」
「よー、!」
明るい声が割入って来る。開けっ放しの扉を見ると、目が潰れる程煌びやかな服を小脇に抱えた夏侯淵が立って居た。
「よーやく女らしい恰好する気になったって聞いてな。ちっと張り切りすぎて、時間がかかっちまったぜ!」
「淵師匠! 声が大きいです!」
「おっと」
ひょこひょこと入って来た夏侯淵は扉を閉めると、服を広げて見せる。
その瞬間、貴族の娘から、超金持ち貴族の娘へと格上げされた。
長い黒髪の被り物までご丁寧に用意してあって、はあまりの眩さに両手で目を塞いだまま口を動かす。
「じゃあ徐庶、髪と化粧よろしく」
「え、俺かい!?」
「あたり前でしょ。そもそも徐庶が話だけでも聞けとか言うからこうなったのよ」
「だけど化粧って言われても」
「口だけは出せるから、任せて」
城に居る頃は毎日嫌と言う程着飾らされていた。
自分で出来るとは思えないが、徐庶の器用さを持てば何とかなるだろう。
は夏侯淵から服を受け取ると、しばし唸りながら見下ろした。またこのような服に袖を通す事になるとは思わなかった。嫌だなぁと言う気持ちが顔を覗かせる。
すると分かった顔で司馬昭が囁いた。
「赤壁ですよ、姫さん」
「分かってるわよ! すればいいんでしょ、すれば!」


服を着る前に髪と化粧をしてもらう。
指示通りにする徐庶の器用さはさすがのもので、こういうのを器用貧乏って言うのかしらなんて思った事は内緒だけれど、
は男三人を追い出すと服に袖を通した。薄い生地がふわりと広がり、髪留めについた鈴がしゃらんと鳴る。
「いいわよ、入って」
不機嫌さをありありと出したまま声を掛けると、まず入って来た夏侯淵はを見るなり跳び上がった。
「こうしちゃいられねぇ。惇兄を呼んで来るからな、そこで待ってろよ、!」
脱兎のごとく駆けて行った夏侯淵に続いて入って来たのは、司馬昭。
彼はを見るなり目を見開いた。首を傾ぐ。
「…何よ」
「嫌…。こうやってみると、あんまり面影はないもんですね」
「あたり前よ。何年前の話だと思ってるの」
司馬昭の事だって見て分からなかったと言うのに、がそのまま変わってませんね、では割にあわない。
久し振りの長い髪を前に梳いて、は流れるように視線を向けた。
髪なんて適当に流せばいいのに、つい癖で所作をしてしまって嫌になる。
視線を向けた先には徐庶はまるで幽霊でも前にしたような顔で立っていた。その顔が饒舌なまでに色々語ってくれていて、は拍子抜けするように笑う。
「……どうしたの、徐庶」
「あ、いや…えっと、君のそう言う姿を初めて見たものだから…」
「出来れば一生見せたくなかったわ」
嘆息して向き直るだけなのに、頭の上の鈴がうるさい。
は早くも嫌気がさした。
「どうしてこうしゃらしゃら鳴る飾りばっかりなのかしら」
「そりゃぁ目を引くのが仕事の一つですからね」
「チッ」
「舌打ちしないで下さいよ、姫さん」
「鬱陶しいわね。早く終わらせて脱ぐわよ」
息を吸い込む。

城に居る頃、息苦しくて辛くて。今にも窒息しそうな時。
そんな時はいつもお姫様を演じたものだ。
そこら辺を歩くお姫様や美しい娘じゃない。
自分の中で一番素敵で、カッコいいと思うお姫様。


目を開く。
しゃらんと鈴が鳴った。
はゆっくりと袖で口元を隠すと、紅に彩られた唇を動かす。
「さあ、行くわよ。子上」