ドリーム小説
執務室の扉が開く。
が視線を持ち上げると、ボロ雑巾のようになった徐庶がゆらりと現れ、煙をあげながら床に倒れ込んだ。
どこを連れ回されたのか土埃やら傷やらで全身薄汚れている。こりゃぁまたたっぷり絞られたね徐庶、という言葉をは三文字で表した。
「あれま」
開いた口を塞がないのは決してにやつく頬を隠す為ではない。
徐庶の後ろからのそりと現れた夏候惇は倒れている徐庶に見向きもせずにを見ると、無愛想な声をあげた。
、戻ったぞ」
「おかえりなさい。惇師匠」
夏候惇は口端を緩めるようにして微笑む。
泣き腫らした目元はしっかり冷やして跡が残っていない事は確認済みだし、はいつもの調子を繕うと、親指と人差し指で丸を作りむふふと笑った。
「頂いたお酒も美味しく頂きました! ありがとうございます、惇師匠」
「そうか。今朝方またいい酒が届いてな、屋敷に持っては行かせたが…あまり呑み過ぎるなよ」
「えー、いいんですかぁ! 惇師匠が届けてくれるお酒って良いお酒ばっかりで、すっかり舌が肥えちゃいました。安酒生活に戻るのも苦労しそうー」
夏侯淵のように猫可愛がりする性質ではないにしても、夏候惇は夏候惇。司馬昭が言う所の、馬鹿親のひとりである。馬鹿親。親馬鹿。後に付こうと前に付こうとやっている事に変わりはない。
同じ敷地内に居を構えていると徐庶の仲を疑っている夏候惇は、土産を手にことあるごと屋敷を訪ねて来る。
真意がそこにある事を知っているは徐庶にそんな甲斐性はないのだと、
さりげなく徐庶の意気地なしな話を並べ聞かせ鍛えて貰う流れに持って行った訳なのだが、ちょっと効果がありすぎたような気がしなくもない。
夏候惇は伏せたまま動かない徐庶を跨ぐようにして入って来ると、勝手知ったる顔で徐庶の椅子を引っ張った。憮然とした態で口を開く。
「それで? 使えそうか、この男は」
「惇師匠こそ。徐庶は使えそうですか?」
問い返すと、夏候惇は鼻に皺を寄せた。
「筋は悪くないんだがな。踏ん張りが足らん」
「うわお、さすが師匠、超的確」
もとい、剣筋にまで人間性が出るとは、さすが徐庶とも言うべきか。
が感嘆の声をあげると、夏候惇は流れるような視線を向けた。
「それでもお前は使えると踏んでいるんだろう。助けに出て来る価値があったとまでは、俺には思えんがな」
「惇師匠…こだわりますねぇ、そこ」
恋仲なぞと言うなよ。
暗黙で訴えかける片目がギラリと光って、は笑うと毎度変わり映えの無い言葉を並べた。
「徐庶は好みな友人ですよ。わたしは磨けば光ると思ってるんですけどねぇ、性分がこれなんで道のりが遠くて」
夏候惇のおかげで武はだいぶ鍛えられているように思う。
この間なんて、ちょっとふざけて後ろから物を投げてみたら、気配を察知した徐庶がものすごい俊敏さで避けた。
こんな機敏に動く徐庶を見たのは初めてかもしれない――と思いきや連日の鍛錬で拵えた筋肉痛に身悶えた徐庶を追って思い出したは、吹きだすようにして笑った。

荊州で同じ書物を読んでいた頃は知らなかった事だ。
それだけでも追って来て良かったかしらと思う気持ちに蓋をして、は口先だけを動かす。

「いやぁ、せっかく腕に見合わない副官なんてしてるんですもん。徐庶には軍師として戦績をあげて貰わないと」
期待を込めて言うと、夏候惇は何かが引っかかったような顔をした。仏頂面の割に丹精な眉間に皺が寄って、声に呆れを滲ませる。
「…孟徳は相変わらず気付かんのか。今のお前を見たら、結婚させる以外にも使い道はあるだろう」
「気付かないですねぇ。あ、でもこの間新野での剣筋を褒められましたよ。わたしとしては今の方がお言葉を頂くのはずっと楽なので、これはこれで…」
言いかけたは瞬く。
自分が嬉しそうな顔をしている事に遅れて気付いたからだ。
驚いて頬を抑えると、表情を引き締める。こほんと咳払いをひとつ落として改まった。

ここに来て昔のように可愛がられてしまうから、つい感情が戻ってしまっていけない。
名ばかりの姫であった頃など遠い昔の事だ。

は徐庶に目を向けると、腹に力を入れて夏候惇を見上げた。
「…目先の目標は徐庶に戦績をあげて貰う事です。その為には殿に腕を認めて貰わないといけませんからね。良い事です」
このまま手堅い所を重ねていけば、初戦もそう遠くないかもしれない。
早ければ早いほど好ましい。
そして尚、相手が劉備軍だといい。
それまでに出来る布石は全部敷いておかなければ。
が張り切るように鼻から息を吐くと、夏候惇は少し笑ったのち手を伸ばした。大きな手がぐりぐりと捏ねくるように頭を撫ぜる。
暖かくて大きな手は昔を彷彿とされて、されるがまま撫ぜられるはくすぐったくなって微笑んだ。
「無理はするなよ。嫁入り前の顔や身体に傷を付ける訳にはいかんだろう」
「えー、それは難しくないですか? 顔が良くて、手伝ったら出世の見込みがありそうで、多少傷がついても気にしないような懐のひろーい男を探す方が早いような」
「……容易く居るのか? そんな奴は」
「惇師匠が言うなら、居ないかも…? え? いないんですか? 居ないの!?」
食い下がるように尋ね返したに、夏候惇はしばしの間押し黙った。以上に鬼気迫った顔をしている。ややあって夏候惇は低く声を上げた。
「…探すか」
「是非とも探しましょう、師匠」
「だが…万に一つ見つかった所で果たしてお前に釣り合うか…」
「師匠たちがそこを気にし始めたらわたしは一生結婚出来ません」
真顔で言ったは付け加える。
「最終手段は先生の押しかけ女房です」
「…郭嘉か……」
口の中で呟きながら、夏候惇は渋い顔をした。
「似合わんな」
一刀両断だ。
「もー、だからそれが駄目なんですって。面と地位に似合わず格式高すぎます。先生で見合わないなら、世の中の男全員駄目ですよ」
「お前のその、郭嘉びいきも大概だがな」
スパンと切り捨てた夏候惇には頭を抱える。
自身としては曹丕に身元がバレた今、いざとなった時の逃げ道を確保したい。手早く打てると言うならば、司馬昭の言う通りで少々癪なのだが嫁ぐのが無難だろう。
徐庶を見届けたらさっさと嫁に貰ってくれる男がいないものか…。この際あまり我がままも言ってられないような気がする。
の難しい顔に何かを察したのか、夏候惇は眉根を上げた。
「淵にも言っておく。良さそうな男を何人か見繕っておけとな」
「お願いします! あ、でも淵師匠は息子さん押しなんですよね」
「夏候覇か…」
「見どころあります?」
「…お前には見合わんな」
こりゃ駄目だとは確信した。師匠コンビは望みが薄い。
(今度先生に聞いてみよう)
ああ見えて人脈の広い郭嘉のこと、どこからか引っ張って来てくれるかもしれない。
とにかくよろしくお願いしますと頭を下げて、は夏候惇を見送った。

執務室を出て行く最中、今日は淵の家で呑むぞと御挨拶程度に付け加えた夏候惇は渋い。来たければ来いと背中で語っている。
開けっ広げに誘われるより心が揺れる。夏侯淵と夏候惇、こうして違う手段で誘って来るから、ついはひょっこりつられてしまうのだ。
(ダメダメ、誘惑に負けて行かないようにしなくちゃ)
これ以上曹丕に目を付けられないようにしなくては。

静かになった部屋ではようやく徐庶に手を伸ばすと、重たい身体を表に向け声をかけた。

「もう! 徐庶、いつまで伸びてるつもり!」
ぺしぺしと頬を叩くと、徐庶の眉間に皺が寄る。
うんと唸って目を開いた徐庶はを見るなりぼんやりと口を開いた。
「…俺は?」
「惇師匠と戻って来てすぐ倒れたのよ」
「ああ。そうだったのか…あまり覚えてない」
身を起こして頭を抑える。
若干の罪悪感を覚えなくもないはすぐさま自身をフォローするように言葉を並べた。
(嫌々こうでもしないと惇師匠に手ほどきして貰うなんてありえない訳だし、徐庶には頑張って貰わないと)
恋仲を疑われて釣った夏候惇だ。多少のスパルタは仕方ない。
我が子を崖に付き落とすライオンとはこんな気持ちなのかしら。
考えていたら、徐庶は不意に顔を顰めた。

「何? どっか痛いの?」
「目が赤くないか?」
思わぬ指摘には固まる。
あれだけ顔を突き合わせていた夏候惇が気付きもしなかったのに、一瞬で見破られるとは思ってもみなかった。
誤魔化す言葉を巡らせていると、徐庶は目を逸らす。しどろもどろとなった瞳が左右に泳いで伏せられた。
「ごめん」
「…はぁ!?」
「あ、いやその…怒らないで聞いて欲しいんだ。ええっと…。泣いていた…のかなと、思っただけで…」
「――ッ!」

(何で分かった!?)

目も冷やした。
笑顔を貼りつけるのなんて得意中の得意だ。今までそうやって生きて来たのだから。
見破られるとは思ってなかったは息を呑む。
徐庶は癖毛を掻くと言葉を濁した。
「その…指摘された君の反応で気付いたというか…。君の性格からして、気付かない方が良かったのかもしれないとおも――」
言い訳がましく口を動かす徐庶を咄嗟に押えにかかった。は燃えるように頬を赤くする。
「それ以上は止めて! わたしの沽券に係わるから!」
これ以上情けない事はない。
司馬昭だって上手く神経を逆なでして執務室から追い出したと言うのに、父親代わりの一人である夏候惇だって気付かなかったと言うのに、この期に及んで徐庶に突かれるとは。
羞恥に襲われて言葉が出なくなる。犬のように低く唸っているを見た徐庶は、影のある瞳を下におろした。
「…君を巻き込んだ俺が言える事じゃないけれど…」
「…」
「何かあった時は話してくれないか。その――俺は、上手く慰めたりは出来ないけれど」
ためらいがちに動いた瞳がを映す。
またすぐ逸らされると踏んだのに意外にも長い事見据えられて、耐え切れなくなったは逃げるように顔を背けた。
「君の話しなら…いくらでも聞くよ」
「…言いたくない」
「……それでも聞きたい」
「…」
「………の、一言が大事なんだろう?」
苦笑しながら付け足された言葉に、は徐庶を横眼で見た。追い込まれているせいかキツイ視線になっている事は自覚している。
いつもの徐庶ならすぐ及び腰になるのに、今日は困った顔のままとはいえを見据えていて、は憮然とした声をあげた。
「んもう! 分かったわよ!」
八つ当たりのように叫ぶと徐庶に突撃する。
「ちょ、
「ついでで良いから覚えておくといいわ。…そう言う時は抱きしめる一つでもするものよ」
「これは抱きしめると言うより、受け止めたに近いんじゃ…」
痛かったらしい。
全力でぶつかって来られた徐庶はくぐもった声をあげたのち、小さく笑った。
「まあ君には、受け止めると言う言葉の方が似合うような気がするよ」
「徐庶の癖に生意気な。それくらい言うなら、もっと身体鍛えた方がいいわよ」
「…夏候惇殿のおかげで少しは力が付いたような気がするけど」
「まだまだね」
「まだまだか」
ははは、と徐庶が声をあげて笑う。
意外と近くで聞こえる声に心臓がギュッと痛くなって、は動揺しているのを悟られまいと平然を取り繕った。
徐庶の胸の内でふんぞり返ってみせる。
「…ホント、困ったものね」
偉そうな態とは裏腹。
思わず落とすように呟いた言葉は徐庶には聞こえなかったようで、
「何か言ったかい?」
「なーんにも」
と軽く言って笑いながら、は徐庶の耳に届かなかった事をそっと胸中で安堵した。