ドリーム小説

「よぉ、
軽く手を挙げて執務室に入って来た夏侯淵に、はうんざりとした顔を向けた。
「よぉじゃないですよ、淵師匠。ほぼ毎日顔出してるじゃないですか。新人軍師の執務室に足繁く通ったら目立ちますって」
「お? 目立ってたか?」
「この間、張コウ殿に絡まれました。思ってたよりも小汚い童ですねって言われたんですよ」
「そりゃ面白れぇ。気付かれ無かったのか!」
「いえ、その後どこかでお会いしましたか、と訊かれたので」
「おお」
「こういう顔して、無いと思いますと答えました」
美しくないとおののいた張コウは、敵兵には絶対見せないであろう背を向けて、一目さに逃げていった。
がしゃくれていると、夏侯淵は声をあげて笑う。腹を叩くと、太鼓のように鳴った。
「そりゃぁ良い! ところで、今晩暇か?」
「暇だけど、嫌です! そんなにしょっちゅう一緒に食事してたら、絶対何者だって言われます!」
「良い肉が手に入ったんだって。惇兄も酒持って来るって言うしよ、な」
「な、じゃないですって」
肩をすくめたは、ゆるゆると首を横に振る。
毎日食事の誘いに来るだけでは飽き足らず、息子のおさがりだと言いながら、明らかに新品と分かる服を持って来たりする夏侯淵。
おかげで夏候兄弟が可愛がっている新人軍師と、城内では評判になっているらしい。
だから言っただろ、と呆れた顔をした司馬昭を思い出したは、そう言う事はもっと大事そうに言って欲しいわ、と八つ当たりのように腹を立てた。

夏侯淵は処務をしているから、奥にある机へと目を向けると、今気付いたような声を上げる。
「お? あのなよっちいのはどうしたんだ?」
「なよっちぃじゃなくて、徐庶ね。徐庶なら、惇師匠に担がれて鍛錬中。なよっちぃからね」
ふふ、とは底意地の悪い笑みを浮かべた。
今頃こってり絞られているであろう徐庶が、青い顔で引き摺られていくのはなかなか見ものだった。
顔に影を落として笑うを見て、淵は感心したように頷く。
「いやぁ、いい顔して笑うようになったなあ。お前。どうだ? あんなひよっこ捨てて、俺の息子の嫁になるって言うのは」
「えー、見どころある?」
「あると思うぜ! ま、俺に比べりゃ、無いかも知れんがな!」
軽快に笑う夏侯淵に釣られて笑っていると、何かを思い出したような顔をした夏侯淵は、ああ、と声のトーンを落とした。
「でもアレだなあ。うちの息子の嫁になるとしたら、昭は泣くか。惇兄は昭にお前はもったいないって言うんだがな。あの一途さを俺は見て見ぬ振りも出来ねぇ…!」
どうしようかと本気で悩んでいるらしい。
頭を抱える夏侯淵に、は書類に印鑑を押しながら答えた。
「子上にわたしが勿体ないんじゃなくて、わたしに子上は勿体ないよ」
「何でだ?」
「内緒」
にやりと笑ったは、ポンと音を立てて印鑑をつくと、書類を持つ手を夏侯淵に伸ばす。
「淵師匠、ついでに持って行って下さいな!」
「…お前な、どこに俺を使う新人軍師が居ると思うんだ?」
「ですよね」
「まあいいよ、持ってってやる。その代り、夜は集合な」
「だから行きませんって」
「絶対来いよ」
「絶対行きません」
来いよ、行きません、と再三に渡ったやりとりをしながら執務室を出て行く夏侯淵。手を振ったは、頬杖をつくと、息を吐くように笑った。
「子上が、見た目通りならまだいいんだけれどね」
彼が辿る道は、おそらく出世云々の話では無い。もっと途方もない道、下手すりゃ天下の器だ。
あのめんどくさがりで腑抜けた面に書いてある事は、見て取るにもちょっとまだ信じられない。
だが臥龍と言う名は偽物とはいえ、荊州の街では名の知れた易者。自分の見たものを、自分が信じない訳にもいかない。
つらつらと考えていたは、あ、と机に目を落とした。
「書類もう一枚あったんだった。結局立たなくちゃじゃーん」
めんどくさいなあと言いながら腰を浮かす。
徐庶が居れば徐庶に頼むのに、こういう時に居ないのは困る。
どっちが副将だか分からない事を考えながら執務室を出たは、歩きなれた城内を、まだ慣れぬ風を装いながら足を進めて行いた。
角を曲がろうとした折、影が見えて足を止める。
退こうとした視界の端に映る男。
己に掛かった影が曹丕のものだと気付いたは、サッと色を失くすと、慌てて飛びのいた。廊下の端で、念のため顔を見られないよう、臣下を繕って恭しく頭を下げる。
「…」
「……」
視線が痛い。
足を止めた曹丕がこちらを見ているのは分かっていて、早く立ち去れよと心の中で声を上げるに、曹丕は低く声を上げた。
「何をしに戻って来た」
「っ」
心臓が跳びはねる。
あの一瞬に顔を見て、気付いたと言うのか、この男は。
どくどくと脈打って、喉が渇いた。
「何の話か、分かりかねます」
暴れる心臓を宥めすかして、白々と言う
段々と近くなってくる靴音に身が竦むのを堪えていると、曹丕はの顎を掴み持ち上げた。男にしては、嫌に綺麗な顔が眼前に突きだされる。
「――ッ」
「何をしに戻って来たかと聞いている」
離してと振り払う事も出来ない。
ギリギリと奥歯を噛みしめたは、曹丕を見据えた。
「何のお話しですか、曹丕様」
「…白を切るつもりか。そのような恰好をしてまで、何をしに戻って来た、姫」
です。姫であった事など、一度もありません」
そう、姫であった事など一度もない。
名ばかりの姫は背筋を伸ばし、曹丕の冷たい瞳を受け止める。曹丕は口端だけで笑った。
、か。聞いた覚えがある。父上と郭嘉が引っ張って来た、徐庶とやらの副将か。惇と淵が可愛がっているそうだな」
「同郷なもので、付いてまいりました。お二方には、徐庶を買って頂いているようで感謝しております」
いざと言う時のために用意していた言葉は楽に紡ぎ出せる。するりと言うを前にして、曹丕は瞳の奥に広がる闇を深めた。
「そんな世迷言を信じると?」
「事実ですので、何とも」
「…なるほど。養女の分際で城を取りに戻って来た訳ではない、か」
曹丕はようやく手を離した。
こんな城毛ほども興味ない、と言う言葉を必死で飲み込んでいると、今度は肩を掴まれる。壁に押し付けられて、はくぐもった声を上げた。
「だから何ですか!」
思わず声をあげては唸る。
睨む訳にもいかずに見上げると、曹丕は鼻を鳴らした。
「その気の強い瞳が、以前から気に入らなかった」
こっちだって、兄弟の中で一番苦手だ。
は胸の内で投げつけた。
性格で言うのなら、この男が一番曹操に似ている。欲しいものに対する感情、思考。似ているだけに苦手で、なるべく遠巻きに生活していた。
「…」
頭がきれる所も好きじゃない。
下手な事を言うと突かれそうで、押し黙っている
その時間が何分続いたのか分からない中。
「……」
「………どうされました、曹丕殿」
突然第三の声が割って入って来て、はその声の持ち主が司馬昭だと言う事が分かると、ようやく息を吐いた。首を巡らせると、憮然とした顔で司馬昭が立っている。
曹丕は突き飛ばすように手を離すと、司馬昭を睨みつけた。
「…昭か。なるほど…お前が知らぬはずはない、か」
「何の話でしょう? 何か粗相でもありましたか?」
司馬昭が尋ねると、曹丕は目を細める。
顔色一つ変えない司馬昭。
やがてついと目を外した曹丕は、を見下ろした。
「まあいい。気に入らなかった理由も分かった事だしな」
「…」
笑った曹丕が、踵を返して去って行く。
その背を見送ったは、曹丕の姿が見えなくなると、一気に血の気が引いた。心臓が張り裂けそうになる。
「び、びっくりしたあ」
「…驚いたのはこっちですよ」
司馬昭は呆れた声でそう言って、頭を掻いた。肩を竦める。
「大丈夫ですか?」
「お、おう」
「大丈夫とは言えそうにないですね」
ぽんと頭に手を置かれて、は下唇を噛んだ。小刻みに震える身体を落ち着かせようと、鼻から息を大量に吸い込む。そんな彼女を見て、司馬昭はやれやれと口にした。
「面倒な人に会いましたね。あれは、完璧に確信した顔だ」
「先生や子上はともかくとして、兄様に気付かれるとは思わなかったわ」
曹操が気付かなかったのだ。曹丕が気付くなど思いもしなかったが目を白黒とさせていると、司馬昭は渋い顔のまま、悪戯子のような声をあげる。
「姫さんの易も、こういう件には弱いらしい」
「…何の話?」
「ガキの頃の気に入らないには、ほぼ同義の言葉があるんですよ」
司馬昭はそう言うと、の背を押した。
「とりあえずここを離れましょう。あまり長居したくない」
「同感」
げっそりとした顔で頷いたは、司馬昭に付き合って貰って書類を持って行くと、執務室へと戻って来た。ぐったりと椅子に腰かける。
「疲れた」
「これからどうするつもりで?」
「曹丕を避けて生活する」
「それで済めばいいですが」
司馬昭は笑って言うと、の顎を覗き込んだ。その瞳に、一瞬怒りがよぎるのを見逃さなかったは、逃げるように顔を逸らす。
「赤くなってる」
「そりゃね。結構な力でしたもんよ」
「これに懲りて、荊州へ戻ったらどうですか。もしくは俺の嫁になるか」
「だーかーら、嫁にはならないってば」
「少なくとも嫁にくれば、泣きそうになるくらい恐い思いをしてまで、城を歩く必要はなくなりますよ」
「…」
「……」
「………気付いてたの、嫌な男ね」
は溜息を吐くと、そっぽを向いた。
「姫さんの事は、こう見えてよぉーく分かってるつもりです。何をしたいかも、一応分かっているつもりですよ」
司馬昭の声が真剣さを帯びる。は気付かない振りをして返した。
「そりゃ頼もしい」
「冗談で済まさないでください。姫さん、そう言うのは惚れてる男に対してするもんだ。ただ顔が好みって言うだけの男には、してやりすぎなんじゃないですか?」
「何を勘違いしてるか知らないけれど、わたしは好みの男には餌をやらないタイプなの。徐庶のために何かする気は全くないわ」
「屁理屈にならなきゃいいですけどね」
司馬昭は吐き捨てるように言って、息を吐く。
「……とにかく、姫さんがしようとしている事をとやかく言うつもりはありません。が、アンタが自分を顧みないつもりなら、俺にも考えがある。それだけは分かってて下さいよ」
向けられた背中は怒っている。
に対して怒っているのか、曹丕に対して腹を立てているのか、
恐らく本人も分かっていないであろうまま、憤然とした司馬昭が去っていくのを見下ろして、は心底嫌そうな顔をした。
「姫さんって呼ぶなって言ってるでしょ」
そう言って頭を抱えると、腹の底からため息を吐く。
「…やっぱりどれを取っても、子上はわたしに勿体ないのよね」
だから、甘えるのは絶対に許されない。
は下唇を噛むと、瞳を揺らした。鼻が熱くなって、目元が潤む。ぽろりと零れて来た涙を拭って、はしゃくりあげた。
「あー、恐かった…」