ドリーム小説

「徐庶が来ない」
姿を見せなくなって一週間か。
は腕を組んだまま、天井の染みを数えるような顔で宙を仰いでいる。
二三日に一回は水鏡先生の家で会うなり、ふらりと家に来るなりして顔を見ていた徐庶。さすがにここまで顔を合わせないとなると、はポツリと呟いた。
「見捨てられたか、何かあったか…」
言ったあとで、吹き出すように唇を抑える。
「いやいや、見捨てるような気概があるなら苦労してないか」
そうなると消去法で何かあった、と言う事になる訳で、は唸ると、俯いた。
「どう考えても…先生たち…だろうなあ」
この時点で徐庶に何かあると言うのなら、間違いなくが絡んでいる。
友人が来たと言う情報だけで、わざわざの様子を見に来たくらいだ。新野の件で、徐庶なりに何かは勘付いたはず。
もう動き出している可能性がある、と言った司馬昭の顔を思い出したは首を捻った。
「この間帰る時、徐庶なんて言ってたっけ? 普通に帰って行ったから、さして気にも留めてなかったけれど…」
確か、戸締りはちゃんとしておいた方がいい。だったか。司馬昭がヤンチャをした後だったから、はいはいと頷いて手を振ったのを思い出す。
他に何か思う所もなく。
「あっさりと姿を消した所を見ると…まあ、それなりの事が起こって……、追って来るな、と言う事かしらね」
意志の弱い徐庶は、必ずどこかで迷いを見せる。
新野に劉備を助けに行く時ですら、の顔を見に来た。
となると今回は、それなりに強い意志で姿を消したと言う事になる。さてはて。
「まあ先生たちが絡んでるとなれば、そろそろ接触があっても良い頃だけど…」
言いかけたの耳に、玄関扉を叩く音が聞こえた。ピリッと緊張の糸を張る。
武器を持つか否やで悩んでいると、二度三度と叩かれる玄関の奥から、能天気な声が聞こえて来た。
ー、さーん」
司馬昭だ。
肩の力が抜ける声に脱力していると、声はついで聞こえて来る。
ー、さーん、ひめ」
瞬時に立ち上がったは、弾くように玄関扉を開いた。
「ッ」
「だからそれ止めろって言ってんだろ!」
思い切り顔を強打した司馬昭が蹲るのを見下ろして、は仁王立ちのまま「で?」と尋ねた。
「徐庶に何したの?」
「徐庶?」
ところが、顔を上げた司馬昭は怪訝な顔をする。眉間に皺を寄せた司馬昭は、予想外に驚いている様子だった。
「…もしかして、何かあったんですか」
「徐庶が姿を見せない」
「ちょっと出掛けてるんじゃ?」
「一週間も顔を見なかった事はかつてない」
「へぇ。随分と仲がよろしい事で」
「本気で知らない?」
「いや、何も」
立ち上がった司馬昭は、赤い額を擦りながら馬に首を巡らせた。
「俺は夏候惇殿に頼まれて、食糧を持って来たくらいですが…まさか」
司馬昭が呆気に取られた顔をする。
は溜息をつくと、顎で家の中を示した。
「…そのまさかでしょうね。荷物入れて」
「入っていいんですか?」
「アンタは人質」
「俺に人質の価値があるとは思えませんが」
「同感」
頷いたが家に入ると、軽々と荷物を背負った司馬昭が入って来る。机の上に袋を置いた司馬昭は、おもむろに開くと中を見た。
「それにしても、夏候惇殿もお人が悪い。言ってくれりゃ、ちゃんと協力したって言うのに」
「子上が浅はかな計画立ててたの、バレたんじゃないの?」
「……ですかね?」
「嫌、わたしに訊かれても知らないけど」
真顔で訊かれて、は思わず首を横に振る。
「まあ、何やかんやと言いながら、子上が一番わたしに甘いからねぇ。下手に巻き込めばそこから陥落するのは目に見えてるし」
「あー。なんか、そっちの方が近い気がします、俺。ところで姫…じゃなかった、
「何?」
「勘、当たってるみたいですよ。食糧って聞かされてたが、どうりで軽いはずだ。
この間、酒が好きらしいって話をしたんですよね、それでこの酒が出て来るんだから、さすがと言うかなんというか」
司馬昭が取り出したのは、青で染められた服。どうみても大きさはのものだ。そして高級酒が三本、一本に紙が括りつけられている。
司馬昭から受け取った紙を開いたは、ザッと目を通すなり、脱力したような声をあげた。
「あー」
「徐庶をかどわかした、とかですか?」
「んにゃ、徐庶の経歴の写し」
「何でそんなものが魏に」
「前科者なのよ、徐庶」
「はぁ!?」
「ま、わたしも本人に聞いた訳じゃないから、言葉の端々からそうかなぁと思ってた程度だけど。
あの性格だし、自分のために斬ったと言うよりは…どうせ他人の仇討かなんかに手を貸したんじゃないかしら」
さらりと言って、は付け足した。
「この経歴によると、徐庶の母は魏の領内にいるわね」
「…と、言う事は」
「これを抑えたんでしょうね。徐庶の事だし、母親を見捨てて逃げたりなんて絶対にしないわ」
「なるほど。それで姫さんには助けに来たくば、この服を着て来いって事ですか。さしずめ俺は迎えの係りだ」
「場に慣れるのが速すぎない? 子上」
「末っ子って言うのは、適応力が求められるんですよ」
「まあ、子元が出来過ぎるからね」
「おっと。必要のない所で、もしかして傷つけられてます? 俺」
軽口で言って、司馬昭はに届けられた服を広げる。ははぁん、と得意気な声を上げた。
「男物だ。だから言ったでしょう。姫として連れ戻せないなら、軍師として入れる気だ」
「なるほど。それは悪くない提案ね」
頷いたに、司馬昭は呆れた顔をする。
「正気ですか、いつ露見するか分かったものじゃないですよ。それでも戻るってンですか?」
「何で子上が不満気なのよ。一応教えて置いてあげるけれど、そう言う所をわたしはつけ込んでるのよ」
「それで陥落させられるって訳ですか」
「そう言う事よ」
ちょっと笑って、はこめかみに手を添えた。
「そうねぇ…。まあでも、徐庶は追って来て欲しくなさそうなのよね」
「ちょっとでも見る目があるなら、今回の裏も読んでるでしょうからね」
「でもわたしが行かなきゃ、徐庶は絶対小役人だわ」
はギラリと目を剣呑に光らせる。奥歯を噛んだ。
「わざわざ新野で助けてあげたって言うのに、小役人で納まりがいいなんて、すごく悔しい。まあ徐庶が本気を出す伏線になるってなら、やぶさかでもないけれど」
ごにょごにょと言葉尻を濁したは、最後をため息で締めくくった。
黙り込むを、司馬昭は見る。
何とも言えない顔をした彼は、低い声を上げた。
「一つ聞きますがね。そんなにしてやるまでの男なんですか? その、徐庶って奴は。小役人なら小役人でいいじゃないですか。人一人、与えられた場所って言うのがある」
「子上が言うと、嫌味所かいっそ清々しいわね」
笑ったは、ぽつりと落とすように呟く。珍しくよりどころがないような声をあげた。
「似てるのよ」
「え?」
「わたしに」
思い返せば幼少期、曹操の面白半分で連れて来られたが、求められている才が自分にあるのかが不安だった。
結果とすればたいして求められてもいなかった訳だが、あの頃のは途方に暮れたものである。
段々と必要とされてない事が分かりだすと、持ち前の負けず嫌いが顔を出して、は郭嘉や夏候惇、夏侯淵に教えを乞うた。我武者羅に自分を探究して、姫でいる事が煩わしくなったのが五年前。

徐庶の、自分を映す陰鬱な瞳は、あの頃の自分にそっくりだ。
勝手に自分の枠を決めて、そこからはみ出さないように努力する自分。


出掛った言葉を皆まで言わず、は寸前で言葉をすり替えた。
「単純に、徐庶の顔が好みなのよ、わたし。顔だけで言うならすごく好きなの」
理由はそれでいいのかも知れない。
特にあの城に戻るのであれば。

投げやりに言ったは、棚を開いた。先日貰った服の山を机に置く。
「ついて来て、子上。これ売りに行くから。その金でいるもの揃えるわ。馬もいるわね」
「言っておきますが姫さん、味方は郭嘉殿たちだけかも知れない。残りは全員敵だと思う位が丁度いい」
そう言って、司馬昭は拳を握った。
「俺だって、どこまで力になれるか…」
「だとしても、子上は気にする事はないわ。嫌になったら、さっさと逃げ出せば済む事だし」
あっけらかんとは言って、煌びやかな服を抱え込む。そうして司馬昭を見上げると、悪戯に笑った。
「それにね子上。思うように生きるのは、楽じゃないけど楽しい位が丁度いいのよ」





「徐庶殿」
机に向かっていた徐庶は、名前を呼ばれて顔を上げた。
開け放たれた扉の外に立っている郭嘉は、涼しげな顔で徐庶を見ている。
一見すると優男だが、おそらく今回の一件で糸を引いていたのだろうと踏んでいる徐庶は、なるべく関わりたくないと言う声を出した。
「何ですか、郭嘉殿。見ての通り俺は今手一杯で…」
「そうだと思って、人員を手配したんだ」
「人員を、手配?」
徐庶は訝しげな声を出す。剣呑な声を上げた。
「まさかじゃ……、には手を出さないと、そう言う約束だったのでは?」
「と、言う約束だったんだけどね。
「何が約束だった、ですか。先生」
憮然とした態で入って来たは、郭嘉に下唇を突き出す。
「何も知らない子上を寄こしたから約束守ってるって言うんなら、それは屁理屈ですよ!」
「おや。わたしは貴方に教えたはずだけどね? 屁理屈も立派な理屈だと」
「それを通せるのも、軍師としての業の一つ、でしょ。ちゃんと覚えてます」
もう、と言ったは怒りの視線を徐庶へと移した。
「で? 先生の屁理屈をまんまと通された徐庶は、わたしに何か言う事無い訳?」
「なんで君がここに」
「それはこっちの台詞よ。ここは元々、わたしの家なんだから」
家と呼ぶわりに忌々しい顔で見回したに、郭嘉はうやうやしく頭を下げる。
「相変わらず我が姫は愛らしいね。その短い髪も良く似合ってる」
「子上には戦々恐々とされたわ」
「おや。あれは愛しい人を褒める技も持っていないのか。今度教えてあげなければね」
「そうしてあげて」
冗談を返すように言って、は郭嘉を見る瞳を強くした。
「先生」
「ああ、分かっているよ。貴方は才ある故に引き抜かれた軍師だ。幸い、曹操殿の前で大立ち回りをしてくれたからね。手を伸ばしやすくて助かったよ」
「一番警戒しなければいけないのは、お父様じゃなく先生だったと言う訳ね。子上の言う、味方かどうかも怪しいものだわ」
「寂しいね。昔は結婚したいと言ってくれてたものだけれど」
「嫁になれるものなら今でもなりたい」
「嬉しいね」
郭嘉が笑う。こうしてのらりくらりとかわされるのはいつもの事なので、は溜息を返して部屋へと入った。
「机、用意して」
「ああ」
「言っとくけど、普通の机だからね! 目に痛い机なんていらないって、師匠たちに言っておいてね!」
下手したら金銀装飾で煌びやかな机が来かねない。が慌てて付け足すと、郭嘉は頷いた。
「きっと用意しているだろうから、止めておこう」
「そうしてね。絶対よ、先生」
「ああ。すぐに用意させるよ」
郭嘉が出て行って、は徐庶を見た。相変わらず機嫌が悪そうな瞳に見据えられて、徐庶は腰を退く。
「ええと、
「それで、お母さんは大丈夫だったの?」
「ああ……、うん。手紙自体は偽装だったんだけれど…、母は気丈な人だからね。自分が囮に使われたとしったなら…」
徐庶が口を噤む。
はそう、と言うと、俯いた。
しばしの間黙り込むと、面を上げる。
「先に言っておくわ、徐庶。ここに戻って来た以上、わたしは二度と徐庶の後は追えないわ。だからもし次に進む時はためらわないでわたしを置いて行って。振り返らないで、絶対に」
「そんな、俺にもう行く所なんて…」
「あった時の話よ。いい? 一度しか言わないから」
は息を吸うと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「貴方は貴方を通していいのよ。徐庶」
「…」
「それをしない言い訳に、ここに居るわたしを使ったら、絶対に許さないから」
強く射抜かれた徐庶は瞬き二回。ぎこちなく笑うと、眉間に皺を寄せる。
「どうして君は、俺にそこまで…」
徐庶の問いに、は胸を張って高らかと答えた。
「とーぜん、顔が好みだからよ!」