ドリーム小説



ちょっと家を空けるから留守番しておいてほしいと水鏡先生に頼まれたは胡坐をかいて書物に目を落としている。
留守番の居る甲斐なく、人が入って来た気配にも気づかなかったは、不意に名前を呼ばれて顔をあげると、目深く被ったフードの奥にある、陰鬱そうな瞳と目があった。
「徐庶じゃん。どうしたの」
「どうしたの、じゃなくて」
溜息一つついて、徐庶はおもむろに腰かける。
徐庶を見ながらも、読んでいた書物のページを捲ると、伸びて来た手が書物を取り上げた。机の上に置かれ、更にその上に徐庶の手が乗る。
恨みがましいの目線は無視され、徐庶は呆れた息を吐きながら口を動かした。
「君は昨日、街に出た。違うかい?」
「…」
「そして易者の真似事をした」
「……」
「名乗った名前は?」
「………」
「臥龍、だろう」
全部一人で並べた挙句、ぶっきらぼうに締めくくった徐庶は、フードの中に手を突っ込むと、癖毛の頭を掻きむしる。
「やっぱり君か。孔明のはずがないと思ったんだ」
「お見事。気付いたのは徐庶だけだよ」
「俺なんかじゃなくとも、孔明を知ってる人間なら、皆偽物だと気付くよ。第一君はその…女性、な訳だし…」
語尾を濁す徐庶に、はあっけらかんと言葉を返した。
「あら、濁しながらも一応は女性扱いしてくれるのね。さすが徐庶」
「そう言う意味で濁したんじゃないよ」
「分かってるわよ、真面目か」
端的に突っ込んで、は徐庶の手を押しのけると、書物を取り返した。
「そう心配しなくても、男の子くらいにしか思われてないって」
短く髪を切って、男の服を着れば、男にしか見られない。
このご時世、女の身で学ぼうとすると弊害の方が多いので、いっそ女である事を捨てたが他人事のように言うのを聞いて、徐庶は頭痛を抑えるようにこめかみに手を添えた。
「それはそうかも知れないが…」
「それに、わたしが臥龍を名乗った所で、諸葛亮はへらへら笑いながら見てるだけよ」
「…それはそうだろうけど」
臥龍、諸葛亮。と言うのは、諸葛亮を称して付けられた言葉ではなく、諸葛亮自身が自分に付けた言葉である。
変り者の友人諸葛亮は、臥龍と言う名がどういう風に一人歩きをしていくのかを楽しんで眺めている。それにがちょっと横槍を入れる事すら、調味料の一つくらいにしか思ってないだろう。
呑気に扇を仰いでいる友人の姿が浮かんだのか、徐庶はまた顔を顰めた。
「風の噂だけれど…劉玄徳殿が、臥龍の名を探しているらしい」
「へぇ。そりゃ諸葛亮にしてみれば、エビで鯛を釣るような話ね。ついに臥龍の名で劉玄徳を釣り上げたって事かしら」
「呑気だな君は、劉備殿が探している臥龍が君だったらどうするんだ」
「そりゃわたしだろうと、捜しているのは臥龍なんだから、諸葛亮に行きつくでしょうね」
「でしょうね、って」
「それとも、名乗るなら単福が良かったかしら?」
悪戯に訊くと、徐庶は面を食らったような顔をした。その顔に、じわりと嫌悪が浮かぶ。
「冗談よ、ごめんなさい」
気弱な男が、胸中にため込む性質だと知っているは早めに謝った。だいたいそう言う性質の男は、根に持つのである。徐庶より更に輪をかけた陰鬱男を幼馴染に持つは、良く知っていた。
「いっそ、劉備殿が臥龍諸葛亮に行きつく前に、貴方が劉備殿のお目にかかればいいのよ。単福殿。貴方だって、十分軍師としてやっていけるわ」
「俺がかい?」
「そーよ。貴方、劉玄徳に仕えたいんでしょ?」
単福と言う名で動いている徐庶が、劉備に名前が届けばいいな、と思っている事は知っている。
が言うと、徐庶は眉間に皺を寄せた。
「…それで臥龍を名乗ってるなら、君はたいした性格だよ」
「好みの男には、餌をあげない性質なのよ、わたしはね」
にんまりと笑ったは、上目使いに徐庶を見る。
「それで? 単福殿はどうなさるのかしら。貴方が諸葛亮を出し抜いて劉備の御前に行くって言うのなら、わたし、協力してもよくてよ」
「出し抜くって」
呆気に取られた徐庶は瞬き二回。緩く息を吐くと、頭を振った。
「確かに孔明は変わってるが、彼の軍師としての才は素晴らしい。劉備殿の傍に置くなら、孔明以外には考えられない」
「そーかしらねぇ。孔明なんて、奇人変人だし。しかも最近は、奥さん貰ってすっかり腑抜けて、持ち味の奇人変人すら研ぐ事を忘れてるような男よ」
彼に嫁いで来た月英は、素晴らしい。
頭は良いし、彼女の作るカラクリには度胆を抜かれる。
女で才女なだけに婚期を逃していたようだが、そんな月英を尊敬しているだけに、元から友人であるはずの諸葛亮の株は、近頃の中で下がりっ放しである。
良き才女の嫁を得たのだ。せっせと才を磨いて生かさんかい。
「宝の持ち腐れよ」
け、と唾を吐くような顔で言ったに、徐庶は困ったような顔をした。
「君は本当に孔明に厳しいと言うか…、孔明にぞんざいに出れるのは君くらいなものだよ」
「才能の有り方が、お父様に似てて嫌いなの」
「へぇ、君のお父さんか…。あまり聞かなかった話だな」
「父親って言っても、義理のね。わたし、養女だから。才があるなんて面白半分で手元に置いたくせに、結局は政治道具で嫁に出そうとするような父親だもの。大っ嫌い」
「前から思ってはいたけど…、やっぱり君は良い所の娘なんだな」
「育ちはね。何よ、何か言いたい事でも?」
「つくづく、こんな所で男の成りをして学んでいるのが不思議だよ。それに君の事だから言わなくても分かってるだろうけれど、娘が政治道具って言うのはとうぜん…」
右ストレート。
の真っ直ぐな拳は、徐庶のみぞおちに突き刺さった。
「…いた、いんだけどな。
「徐庶ってそう言う所ある。頭良い癖に自分に自信がないからって、無自覚に人の痛い所を突くのよ」
「今俺の痛い所を突いている君が言うかな」
「……まあ百歩譲って、政治道具って言うのは我慢したとするわ」
「聞いてないな」
「だけど、顔はぜんっぜん好みじゃないし、頭わっるいし、中途半端に権力あるし、あんな男に嫁ぐなんて絶対嫌だったのよ、わたし」
ふん、と鼻から息を吐いたは、腕を組んだ。
「どうせ嫁ぐなら、顔は好みの男がいいわ」
「一番我がままじゃないのか? それって」
「ええー。徐庶の顔は好みよ? わたし」
笑ったが、徐庶のフードに手を伸ばす。外すと、影が濃かった男の顔に光が差した。以外と整った顔立ちをしている男は、僅かに頬を朱に染めている。
「からかわないでくれ」
「からかってないけど。それと、あとそうね。中途半端な権力って言うのが気に喰わないわ。残念ながら女に生まれちゃったんだもの、己が力でのし上がるのは我慢するにしても、嫁ぐ男が出世する手伝いをしたいのよ。
その点で言うなら、野心家な男は嫌いじゃないの。あーあ、徐庶があと野心家であってくれれば、押し倒してでも既成事実を作ったのに」
「…」
「ちなみにその顔はどういう顔?」
「どう返していいか分からない顔だよ」
「つまんないの」
は机に倒れると、下顎を突き出した。
「どーしてわたしの周りは、こうもやる気のない男ばっかりなんだか」
「じゃあつまり、君は臥龍として劉備殿に引き抜かれたい訳じゃなく…」
「ただの諸葛亮への嫌がらせ。あの引き籠りの尻を突いてくれるなら、何でもいいの。劉玄徳だろうと、曹操だろうと」
「君は…その頭の良さを別に生かせたらいいんだろうけどな」
「わたしの才よ。使いたい所に使うわ。ついでに貴方の尻にも火がついて、劉備殿に士官でもしてくれればいいと思ってたんだけど」
「俺なんかじゃ駄目だよ」
「でた、俺なんか。そんなもん犬にでも食わせてみろよ。吐いて捨てるぜ」
「…口が悪いのは、誰譲りだい?」
「幼馴染」
は机に突っ伏したまま、徐庶を見上げた。
「ねぇ、徐庶」
「何だい」
「どーしても、劉備殿に士官しないの? 貴方が思っている以上に、劉備殿の軍師は似合っていると思うわよ」
「する気はない」
「ふぅん。ちまちま名前売るより、よほど健全だと思うけど」
「そう言う君こそ、臥龍なんて名前を使わないで、自分の名前を付けたらどうだい? 臥龍と思って孔明を引き抜いたあとの劉備殿が思いやられるよ」
「大丈夫よ。諸葛亮の事だもの。わたしが臥龍の名で何をやってたかも全部知ってて、似たような事を挟んで見せるから」
嫌味なあの男は、きっと以上の事をすんなりして見せるのだろうけれど、とは癪に触って言えない。
似たような事を思っているであろう徐庶は、頬杖をつくと、顎を乗せた。
「それでも、君の持つ才に似合う名前を付けるべきだと俺は思うよ」
「えー、じゃあ徐庶、何か付けて」
「俺なんかが付けたって、泊がつかないだろう。水鏡先生に付けてもらったらどうだい」
「泊なんていらないよ。どうせわたしが使うだけの名前でしょう」
袖を引っ張ってせっつくと、徐庶は顔を渋めて、無精ひげの生える顎を撫ぜる。ううん、と唸って首を傾げた徐庶は、しばらくの間を置いて呟いた。
「龍姫、とか?」
「なにそれ、臥龍にめっちゃ影響受けてんじゃん」
「付けてくれって言うから付けたのに」
不服そうな徐庶。
それよりも不満気な顔をしたは、それに、と落とした。
暮れゆく空が、橙色に染まっていく。
その空を見ながら、は目を細めた。
「姫なんて言葉、大嫌いなの」