ドリーム小説
「はい」
後ろから冷たいものが頬に触れて、は思わず掴んでしまった。見ると、無糖のミルクティー。
そのままにっこり笑顔の夏油と目があって、思わず「ひょぇぇ」と謎の呼吸を使ってしまう。不意打ち夏油は心臓に良くない。
「飲みたいって言ってただろう」
「あ、ありがとう」
(言ったけど)
(言ったけれども)
あんな苦し紛れに零した話題の一つを覚えてくれていた事に、戸惑いの方が勝ってしまう。
わたわた財布を探すよりもさきに、夏油は「おごりだよ」とひらひら手を振りながら席についてしまった。
「傑ー、俺のは?」
「悟はこの間、にたかってたじゃないか」
「たかってたは人聞きが悪いだろ。奢って貰ったんだって」
「あれは奢って貰う人間の態度じゃないよ」
以前の夏油だって、にとっては優しかった。けれどその優しさは、どんなにポンコツでも、クラスメイトとして対等に接してくれていただけだ。同じ歳の少年だとは思えない大人な態度に、の恋は始まったと言ってもいい。
思わず硝子を見ると、彼女もまた、自分の目を疑っている様子だった。
(だよねだよね、わたしの記憶違いじゃないよね!?)
女同士、無言のアイコンタクトをしていると「なあ、傑」とあくび交じりな五条の声が割り入ってくる。
「お前のそれってさ、今までどうでも良かった奴に興味なくされて、ムカつく〜〜〜って感じなの?」
びっくりして見ると、絶句している夏油と目が合う。
(さすが五条くん…ここにわたしが居ても全くためらわないのね)
夏油が優しいというと、灰原以外の人間は首を横に振るが、
の中で夏油が優しい人だという位置づけになったのは、ひとえに五条悟と言う存在が大きい。
一般家庭出身のには知る由もなかったのだが、呪術界の御三家のひとつ五条家出身で、六眼の持ち主である五条はすごい人――らしいのだが、から見れば、どちらかというと「お坊ちゃんなんだなあ」という認識の方が強い。
あまり周囲にあわせる必要がなかったらしい彼は思った事が口に直結しているので、若い頃のははちょっぴり苦手だった。
「硝子も、そこで納得したような声を上げないでくれ」
いつの間にか硝子がニヤニヤ笑っている。フォローしてくれる気はないらしい。
話題の渦中にあるが口を挟むのはとんでもなく恥ずかしいのだが、夏油の名誉の為、はやんわりたしなめる。
「夏油くんは気を使ってくれてるだけだよ」
(もしかしたら、わたしが高専を出ていない事に気付いてるのかもしれないし)
硝子も危険な任務につく事がないが、は任務ところか買い物にすら出掛けていない。
大体の事はネット通販を使えば事足りるし、煙草を買いに行くときに硝子が一声かけてくれる。
だから生活に支障もないのだが、彼女はに任務が回って来ない事も、高専から出ない事についても尋ねて来た事がない。
夏油もよく人を見ているから、もしかするとが高専から出ない事に気付いていて、あえて尋ねて来ないだけなのかもしれないな、と改めて夏油の優しさを感じながらミルクティのボトルを開けた。
(わたしがいうのもなんだけど、みんな大人過ぎるんだよなあ)
だから、油断していた。
きっかけは、五条家のお坊ちゃんからかかってきた一本の電話だ。
「資料忘れたんだよねぇ」
呪霊を払うのにどうしても必要な資料らしい。夏油も硝子も出払っている事を伝えると、「じゃあお前が持ってくればいいじゃん」と軽く言われた。
それは困る。非常に困る。
持って行けないと伝えても、持ってこいの一点張りで、ほとほと困り果てたは夜蛾に助けを求めに走ったが、不在だった。その場にいた窓の人に電話を代わって貰ったけれど、年齢よりも家柄の方が勝ったらしい。
おそるおそる高専を出て、
街についたら、怯えていた事なんてすっかり忘れて興奮してしまって、
「………っ!!」
現在は湧き出る呪霊に追いかけられている。
「〜〜〜〜〜〜、久しぶりに見たら、めっちゃ、気持ち悪い!!!!!」
ぐぎゃぎゃとかぐぎょぎょ、とか言いながら追いかけてくる呪霊は、気付いたら一体、また一体と増えている。全速力で駆け抜けていくはすれ違う人たちから不審人物を見るような視線を向けられるが、なりふり構っている暇はない。
「薬研!!! 薬研!!! やげ――ん!!」
ためらわずに腹から叫んでやった。
『……大将、これは一体どういう状況だ?』
「ごめ、高専、出た…!」
『ほう、理由は?』
「五条くんに頼まれた事もあるけど……。結界の外が、皆が言うほど危険なのか、確かめてみようかと思って!!! 案外そうでもなかったら、お出かけとか出来るんじゃないかと思って、ごめんっ!! 思ってたより、ヤバい…!!!」
今や目視で数えられるレベルじゃない。振り返った景色は墨をまいたように黒々と蠢いている。あれだけ輝いて見えた街の変貌に、は震えあがった。
「とにかく誰かに電話して助けて貰おうと思うの…!! 硝子…は、ダメだよね、夏油くんか、灰原くんか」
助けてくれそうな人を無意識に羅列していると、バチンと静電気が走った。振り返ると、呪霊が近い。
「ギャァアアアアア!!」
『数が多すぎる! 一端散らすぞ、大将!』
「了解!」
人気のなさそうな路地に、半ばつんのめるようにして転がり込んだ。
太ももから薬研藤四郎を抜くと、桜の香が漂って来る。
今のには、刀剣を男子に保つ力がほとんどない。
今や多くの刀たちが夢うつつで本丸の奥に並んでいる。老衰で死ぬから看取ってね、と言ったの約束を待っている。
だけど、たった一振りだけ。
『誰が主さんの懐刀になるか選手権』でめでたく優勝した薬研藤四郎は、
「見た所柄はなさそうだが、通させて貰うぜ!!」
地面を蹴って弾丸のように飛び出すと、呪霊の腹を突き抜けた。
壁から壁を蹴って、薬研が呪霊を散らす間にはポケットから取り出した石を並べていく。昔から、呪霊を払う力は二流も良い所だが、結界を張る力だけは褒められていた。
(薬研もそう長くは顕現出来ない。とにかく結界を張って、助けを呼ぶ)
「薬研、結界が張れた!! 戻って!!」
「おう!!」
呪霊の一体を蹴って散らして、薬研が駆けてくる。結界の中に滑り込んだ彼を追いかけるようにして突撃してくる呪霊の口は、まるで結界ごと飲み込めるんじゃないかと思うくらい大きかった。
「大将」
「大丈夫、結界には自信がある」
万が一飲み込まれても、消化される事はない。
頭では分かっているけれど、襲い掛かってくる口が物凄くゆっくり見えて、
固唾を飲んだ時、
呪霊が顔から弾けとんだ。
「これが、お前が高専を出たくなかった原因ってやつ?」
「五条くん」
(気付いてたのか)
なぜだか、五条だけは絶対気付いていない自信があったのに。
呪霊の後ろに立っていた五条は、長い脚でツカツカ歩きながらサングラスを外した。初めて見た、青空みたいに澄んだ目だ。そんなガラス玉みたいな目で薬研を覗き込む。
「何だこれ、初めて見るな。術式? っていうかお前、そんなに弱かったっけ?」
首を傾げた五条の後ろに、湧き出た呪霊。
あ、とが声を上げるより先に五条が手を翳すと、呪霊は霧散してかき消えた。
「大将」
「大丈夫、薬研。同級生なの――だからもう平気。無理をさせてごめんね」
「了解」
薬研が刀に戻るのを見て、五条は「へぇ」と珍しく楽しそうな声を上げた。そんな合間にも呪霊の数はどんどん減っていく。三十分も立たないうちに、路地裏は五条とへたり込むの二人になった。
「五条くん、わたしが高専を出れないって分かっててやった事なら、マジで性格悪いと思う」
「ここまでとは思ってなかったんだよ。で、何がどうなってんの?」
「とっても説明したくない気分」
「へぇ」
持て余すくらい長い五条の足が入って来たかと思うと、並べた石を蹴り飛ばした。途端に結界が消えて、は「あ――!!」と悲鳴を上げる。
「最低!! サイッテイ!!!」
「俺に守られながら説明するのと、説明しないまま置き去りにされるのと、どっちがいい?」
「お」
「お?」
「鬼ィイイイイイイイイイ!!!!!!」
殺意というものを初めて覚えた。
は用をなさなくなった石を掴んで、力任せに投げつける。なんてことなしに避けた五条は、まるで夏油や硝子に向けるような笑い声を上げながら、の腕を掴んだ。
「ははっ! 鬼か、それは初めて言われた!」