ドリーム小説
見上げた視界いっぱいに広がる手が、優しく頭を撫ぜる。
揺れる栗色の長い髪。穏やかに弧を描く目元。
どうしようもなく熱くなった想いに駆られて伸ばした指先が触れるか触れないかの先で、どこからともなく火の手が上がった。
轟々と燃える炎が恋をした男の背中を飲み込む。
声にならない悲鳴が喉を突いて、全身を掻き毟りたいような恐怖に駆られたはたまらず炎に飛び込んで姿を探した。立ち塞がるのは燃え盛る家。
煤けた柱を飲み込む炎が瞳に映る。
「松陽先生…! やだ…ッ!」
掠れた声に喉を掻き毟って、金切るような悲鳴を上げた。
「うぁああぁぁああぁぁああああぁぁああああ!!!!!」
息を呑んで跳び起きたは、寝ていたとは思えない鼓動の速さに眩暈を覚えた。
喉が渇いてしょうがない。
「…またこの夢か…」
枯れた声でため息をついて、は力無く立ち上がる。
連日連夜、こんな夢を見る原因は一つしか無い。
「高杉が、江戸に来ている…か…」
隊士たちの話を聞きかじったあの日から、の心はまるで鉛のように重たい。
とは言っても、元々そんなに浮いた覚えもない人生だ。鉛を引き摺って歩く事にも慣れている。
だけれど。
燃え盛る家が脳裏を過って、は溜息と共に、小さく言葉を落とした。
「潮時かな」
箪笥を開けると、風呂敷一つ。
結び目を解いて着物と足袋を取り出したは、寝巻を脱ぐと、手早く着替えた。
給料も良い。むさ苦しいが、居心地だって悪くは無い。
そう思いながらも、相変わらず荷物は風呂敷一つで包める量から増えぬまま。軽く背負って足袋を履くと、奥に隠していた短刀と、手紙を取り出した。
「……退職届…漢字、間違ってないよね?」
前の職場である料亭は、退職届を出す暇も無かったから、なんだか変に緊張してしまう。
短刀を帯の中に隠して、はそろりと部屋を出た。
見回りをする隊士たちの動きは、大方把握している。
間を縫う様に進んで、は近藤の部屋の前に退職届を置くと、頭を下げた。
足音を殺して、小走りで進む。
庭の木に登って塀を越えると、わき目も振らず、駆けだした。
女々しく万事屋の前を通ったりもしない。
真っ直ぐ江戸を抜ける。
街灯を避けて走るが橋に差し掛かった時、なんだか妙な男が視界の端に映った。
全身黒で身を包み、目深に笠を被っている男。
このご時世に、刀など下げていると言う事はある程度の素性は察しがつく。
自身も短刀を隠し持っている事を棚にあげて、は辺りに目配せした。この橋を抜ける以外の道を考えるが、なるほど男も良く考えたもの。この橋を通らずして、江戸を抜ける事は出来ない。
固唾を呑んだは、走る速度を緩めると、慎重に歩を進めた。
男の動きに注意を払いながら、気付かれぬよう、懐に手を伸ばす。
緊張の糸を張ったまま、男とすれ違う一瞬。
どうか何事もないようにと言うの願いは、男の低い声で脆くも崩れ去った。
「殿とお見受けする」
「……人違いです」
「否。そんな事はございますまい。この様な夜更けに――真選組の屯所の方角から来た女は、この数日で貴方一人」
「…」
「御同行、願えますかな?」
はついと男を見る。
向き合うと、迎えによこすだけあってなかなか玄人な匂いがする。
微かに笑ったは、睨み据えた。
「どこへ、と訊くのも野暮だしね。どうして? と、訊く事にしましょうか」
「飯焚きをしたいのであれば、真選組でなくてもよいでしょう」
「攘夷浪士相手に、せっせと給仕しろと? ンな事する位なら、自分で刀を振るうわ」
「ならば」
男はしばしの間を置くと、静かに尋ねた。
「また、燃える景色を見たいと?」
「――ッ」
思わず短刀に手が伸びる。
その気配を察した男が刀に手を掛け、睨みあった末、は奥歯を噛んだ。
「あの馬鹿は、まだそんな事をしてまで…!」
「いえいえ。これは純粋に貴方への気遣いでございます」
「気遣い?」
「燃えるのは、料亭などと言う小さき物ではありません。もちろん、真選組の屯所などと言う小さき物でもない。すべてを飲み込む赤が、たまたま真選組もろとも飲み込む、と言うだけの事」
「…ッ、晋助は…何をするつもり?」
「後は直接聞けばよいかと」
男が笠の下、ニヤリと笑う。
「貴方にとって、あの場所は身を隠すには丁度良かっただけでしょう。大した思い入れもありますまい」
「…」
「それとも、わたしを斬って、事の次第を告げに戻りますか? 何と言うつもりです。攘夷志士でしたと腹を割る程、気ごころの知れた仲には見えませんでしたが。
そうですね、告げるとするならば、…一番隊隊長、沖田総悟にでも告げますか。貴方は多少、気を許しているようにお見受けする」
「……どこまでも、知ってる素振りね」
男は答えない。ただ笑うだけ。
その顔を見据えながら、は息を吸った。
「…ついて行く、と言ったら?」
「懐の短刀をまずはお預かりしましょう。明日の祭りを見ずにして、首を掻かれる訳には参りません。もちろん、晋助様の首を掻かせる訳にも参りません」
差し出した男の手に目を落とす。
おそるおそる胸元から出した短刀は、男の手に乗せる寸前で躊躇った。
「………本当に、晋助に合わせてくれるのね?」
「もちろん」
下唇を噛んで、目を伏せた。
震える手から短刀を手放そうとした時、怒鳴り声が割入って来た。
「置くんじゃねェ!」
びくりとは身体を揺らす。
弾けるように目を向けると、息を切らした沖田が立って居た。前髪の合間から、ギラギラと瞳が赤く光っている。
「その刀ァ置いてみな。テメェは攘夷浪士になったとみなすぜ」
「…沖田、さん」
「仕舞え」
「で、でも」
「仕舞えって言ってんだ!」
気圧されて、は短刀を懐に戻した。
ジリジリと後退さる。
沖田はの傍らに立つ男を見やると、唸るように声を上げた。
「そのどうしようもねェ馬鹿から、さっさと離れな。じゃなきゃ、テメェの首が飛ぶぜ」
戸惑うとは対照的に、男は笑う。
ひとしきり笑って刀から手を離すと、に首を巡らせた。
僅かに見える口元が、愉快気に持ち上がっている。
「殿」
「…」
「明日の花火は遠くから見る事をお勧めしますよ」
「……」
「では」
男がの横を過ぎて去って行く。
何分立ち尽くしていたのか分からない。
ようやく生きた心地が戻って来て、は糸が切れたようにその場にしゃがみこんだ。
「…び…っくりした…何で来るんですか、沖田さん」
「近藤さんから連絡があったんでェ。気配がしたから出てみれば、退職届が置いてあったってな」
「土方さんならともかく…近藤さんには、気付かれないと思っていたんですけれど。鈍りまくりですね、わたしの身体」
ははは、と渇いた笑いが零れる。
「……攘夷戦争に参加していた事、バレてたんですか」
「バレてたも何も、酔っぱらって自分で話したんじゃないですかィ。
道で泣くわ喚くわ、近所迷惑にも程がある。ありゃぁ、近所中にアンタが攘夷してた事はバレてますぜ。だーから、酒癖の悪さを自覚しろって言ったんでィ」
「返す言葉もございません」
力無く言って、はあの、と言葉を続けた。
「なんでィ」
「ご挨拶もせずに、すみませんでした。お世話になりました」
は深々と頭を下げる。
「もう会う事も無いと思うんですけ……ど! ちょ、沖田さん、何ですか!」
腕を掴まれたは、問答無用で立たされると、屯所の方へと引っ張られる。
「え!? やっぱり逮捕ですか!? 刀置かなかったら見逃してくれるって言ったのに!」
「違いますぜ。刀置いたら攘夷浪士に見なすって言ったんでェ。誰も、見逃すなんて言葉は一言も言っちゃいねェや」
「そんな…!」
「そもそも、テメェで名乗る前から、アンタは十分怪しかったんでェ」
「へ?」
「俺達が屯所を置いたその日にアンタはふらりと現れた」
「そ、それはたまたまで…」
「飯と寝床の世話してくれるなら、金はいらねェなんて言いやがる」
「それは…」
羨ましかったからだ。
真選組の面々と、若き日の自分たちが重なった。
その中に身を置きたいと、一瞬でも思ってしまった。
気がつけばは、開けっ放しの門を叩いていたのだ。
沖田は掴んだの腕に、目を落とす。
「その手袋。火傷で済ませてるようだが、ホントに隠してェのは傷なんかじゃねェ。刀振って出来た蛸でさァ。俺たちが見れば、アンタが刀を使ってた事はすぐに分かるからな」
「…そこまで分かってて、何で屯所に置いてたんですか。間者だと…思ってたんでしょう、沖田さんの事だから」
「……アンタが笑うからでィ」
「笑う?」
「俺たちが刀振ってる時でさァ。普段は愛想笑いの一つも出来ねェくせに、そん時だけは笑ってると来たもんだ。
隊士たちは、アンタが自分に気があると思ってる奴が大半でェ」
「…」
まるで自覚が無かった。
目を見開いたは、視線を泳がせる。
そう言えば一時期、隊士から良く話しかけられる事があった。
対して相手にしなかったら、すぐに鎮火したから、さして気にも留めてなかったけれど。
「そうこうしている内に、たまたまアンタが飲んでる所に出くわしたんでィ。
屯所に引っ張ってたら、聞いてもないのにべらべらと。挙句、羨ましかったと泣き喚く」
「…」
耳が痛い。
塞ぐ手は沖田にふさがれていて、は穴があったら入りたい気分になった。恥ずかしさで顔から火を噴きそうだ。
「す、すいません」
萎んで行く声。
だんだんと屯所が見えて来て、は腹を括るしかないと覚悟を決める。
腹を据えたをちらりと見た沖田は、くしゃりと顔を歪めると、呆れたような声を上げた。
「アンタの目はどこに付いてんでさァ」
「は?」
「俺の目は、前ですぜィ」
「…わたしも、前ですけど…」
「なら、目ェかっぽじってでも前だけ見てりゃぁいいんでさァ。人間にゃァ、過去を見る目も、後ろを見る目も、本来ついて無いんですぜィ。なら、そんなモンは全部妄想でさァ」
「…」
沖田は一度足を止める。
そうして踵を返すと、真っ直ぐとの目を見据えた。
「テメェで作ったぬるま湯でィ。茹るまで入る覚悟があるなら、御託は脱いで入りなァ。うちはチッとばかり厳しいですぜ、手袋一つ厳禁でさァ」
「…沖田さん」
「仕方ねェから、アンタが入ってる間は、俺が目ェ開いて見張っててやらァ」
そう言って、背後に回った沖田がドンと背中を押す。
つんのめったは、半ばこけるようにして屯所の門へとなだれ込んだ。
顔をあげると、まず目に入ったのは真選組屯所の文字。
その奥に居る近藤と目が合うと、彼はニッカリと笑った。
「おかえり、ちゃん」
その言葉にざわりと胸が騒ぐ。
言いようもない感情が込み上げて来て、目元が熱くなった。
似ても似つかないのに、その姿が大好きな人と重なって、はぼろりと涙を零すと、しゃくりあげる。
「ちょ、え、総悟、何したの!? ちゃん、泣いちゃってんじゃん!」
「退職届なんて出さなきゃ良かったって、泣くんでさァ」
シレっと言う総悟を睨むと、得意気な笑みが返って来た。
ちょっと前なら苦手なその笑顔が、どうにも頼もしく見えてしまって悔しい。
が口を噤んでいると、近藤は胸元から取り出した退職届を破り捨てた。
「ちゃんが来てくれて、ようやく給料も出せるようになった。お手伝いのおばちゃんたちだって雇えるようになった。
こんなどうしようもない男所帯に雇われてくれたんだ。ちょっとは頼ってくれ」
「…近藤さん」
「それとも、頼りないかな?」
思い切り首を振ると、攣ってしまった。
痛めた首をさすりながら、は思わず笑う。
「あり…がとうございます。近藤さん、沖田さん。た…」
言いかけた言葉が出て来ない。
開いた口を閉じれないまま、しばらく半開きにしていたひおりは、ゆっくりと笑うと、息を吐きながら呟いた。
「ただいま」