ドリーム小説

「…」
家に帰ると、縁側で横になっている男が居た。
はたいして驚く様子もなく、
「こんにちわ榎さん」
と、声を掛ける。

榎さんこと榎木津は、資産家の息子で探偵だ。
天然探偵を名乗るだけあって変り者の男だが、その彼が言うに、彼の父親は変り者らしい。
成人するなり後は勝手にやれと放り出された榎木津は、現在彼の所有である榎木津ビルヂングで薔薇十字探偵社を営んでいる。
営んでいると言っても、収入は不動産で賄われていて、ほぼ道楽と言ってもいい。
気に入った仕事を受け、気に入らなかったら追い返す。金額はまちまち。取らない事もあるのだと、和寅は呆れていた。
そんな旧華族出で探偵と言う肩書を持った男は、どういう訳かときおり昔馴染みのの家へと現れる。
今日も今日とてたいした用事はないのだろうと、は返事のない榎木津から家の中へと視線を戻した。

「僕は殴り損ねた」

丸太が突然口を開いた。
榎木津に視線を戻したは、「はあ」と相槌を打つ。
「殴り損ねたのですか」
「殴る約束だったのに」
また唐突な。
とは言え榎木津を一瞥したは、着物の袖を捲った。台所の下から鍋を出すと、火にかける。
「カメコは殴ったのか?」
「誰をです?」
「川新だ」
「ああ」
茶葉を取り出したは、急須へと入れた。
一度沸騰したお湯を、うちわで仰いで冷ましながら答える。
「殴りましたよ。そりゃ盛大に」
「わはははは。それは良い」
大口を開けて榎木津は笑う。
川新とは、の雇い主に当たる。
昔馴染みである榎木津と木場の紹介で、は騎兵隊映画社で事務仕事をしているのだが、
先日その雇い主である川新こと川島新造がとある事件に巻き込まれて姿を消した。
おかげでは各所への対応で目が回って、忙しさで殺されるかと思ったのだ。
戻って来たら張り倒します。
そう宣言したを、榎木津は言っているのだろう。

「今回はご丁寧に、伊豆のお土産を頂きましたよ」

お茶と一緒に出しますね、とは続けた。
大男の川島は、伊豆の騒ぎに兵隊として駆り出された。
前回も今回も、しわ寄せを喰らうのは事務員のである。
機嫌取りに進呈された茶菓子を皿にのせたは、湯気立ち上る湯呑みと共にちゃぶ台の上へと置いた。
「どうぞ」
榎木津はむくりと起き上がると、を向く。

「ノロマなカメコはまだ本屋になりたいのか」
そう言って大股で歩いて来るなり、どかりと音を立てて座った。
茶菓子の紙を剥いで、豪快に口に含む。
「榎さんこそ、相変わらず男らしいですねぇ。見た目にそぐわず」
白い肌に、色素の薄い瞳。
薄茶色の髪。
整った顔立ちは、欧人形さながらである。
口と身体さえ動かさなければ多くの人を魅了するであろうこの男は、一挙一動するたびに、ため息を吐く人間が増えると言う性質を持っていた。
「僕はその京極が気持ち悪い」
茶を飲むと、榎木津は吐き捨てる。
「そう言われましてもね」
答えたに、彼は目を細めた。
「そもそも奴は今そんな顔じゃないぞ、カメコ。こんな眉間に皺を寄せて、口は一文字だ。この世の終わりみたいな顔をしている」
「まあ、わたしの思い出なんて、しょせん学生時代ですよ」
女が大学へ行く。
今は少しづつ増えて来たらしいが、あの頃はかなり色眼鏡で見られた。
それでなくても女は一人。
友人など出来ぬと決めて掛かっていたが、彼が京極と呼ぶ中禅寺秋彦と読書と言う趣味を通して友人になり、その後彼を伝って関口や先輩である榎木津、木場とも付き合いが出来た。
賑やかな学生生活だったと思う。
少なくとも、自分の人生の中で一番華やかな時だ。

「だからカメコはウスノロマなのだ」

茶を啜っていたは、榎木津へと視線を持ち上げる。
カメコ、ノロマ、ウスノロマ。
榎木津の気分によって増えて行くへの呼称は、年々増えるばかりだ。
「カメコは本屋になれないし、カメコがノロマなだけで、京極はとっくに死神だ」
ずず、と榎木津は茶を啜る。

榎木津はふらりとの家を尋ねるたび、カメコ、ノロマと野次り、
本屋になれないと何度も言う。

そんな事、が一番分かっていると言うのに。

「本屋になりたい訳じゃありませんよ。今の仕事、気に入ってますから」
やんわりと言うと、は茶菓子を齧った。
そんなこと、言われなくとも榎木津は分かっているだろう。

なりたかったのは中禅寺の妻だ。
大学を卒業して、彼は千鶴子と言う伴侶を得た。
高校の教師をしていると聞いて、辞めて本屋を始めたと言う今でも、は中禅寺に会って居ない。
会うとなれば、千鶴子の居ない時間を考えてまで訪ねて行きそうな自分が居る事も知っているし、
何より記憶の中の中禅寺ではなく、今の中禅寺と向き合う事が怖いのだ。
思い出と共に生きたいの元を訪ねて来るこの探偵は、そんなの心情に波を立てて帰って行く。


は息を吐いた。
「榎さん、見たくないなら来なければいいでしょう」
「ぼくが見たくないのはそのにやけた京極だけだ」
「榎さんには見えちゃうんだから、仕方ないじゃないですか」
榎木津には人の過去が見えるらしい。
戦争であまり目が見えなくなった榎木津は、元々ぼんやりと持っていたらしいその見え方に磨きが掛かった。
彼の瞳には、と共に、彼女が後生大事に持っている中禅寺との記憶が見えてしまうらしい。
それらを見たくないと言うのなら、来なければいいのに、とは毎度思う。

「どうせ会いに行くなら、中禅寺の妹さんとかにしたらいかがですか?」
「敦っちゃんか!」
「可愛い可愛いとおっしゃるじゃないですか」
「可愛いものを可愛いと言わずに何と言うんだ、カメコ。好きなことを好きと告げない位愚かな事だぞ」
「はいはい」
愚かで悪かったですね、とは内心で呟いた。
友達かそうではないか。
その微妙な位置関係のまま踏み出せなかったのは、中禅寺が用心深いからか、が臆病だからか。
ならばどうやって千鶴子との一歩は踏み出せたのかと、は聞きたい。
どうしても聞きたいから、会えないのだ。

「とにかく、どうせ見るなら可愛い敦っちゃんを見たらいかがです? 気持ちの悪い中禅寺より、よっぽど目の保養でしょう」
「カメコ、餅は餅屋だ」
「は?」
「ノロマなカメコはもちを焼く資格などハナから持ってない。分かったか? はははは」
「ヤキモチって」
どこをどうとればそうなるのか。
ただの嫌味だ。
は後味を濁すように茶を飲むと、まあヤキモチには違いないか、と胸に落とした。


一度関口の家で、中禅寺の妹である敦子をお目にかかった。
利発さが見える、可愛い娘であった。
どうも関口の話を聞いている身で勝手に推察するに、彼女に好感を持つ男は多そうだ。
知らぬは花のみ。罪な話である。

若い敦子に自分を重ねるのは無謀な話だが、女としては憧れる話でもある。
も敦子ぐらい可愛げがあれば、中禅寺との思い出も手放せていただろうか。
二つ目の茶菓子に手を伸ばすを、半眼の榎木津が見据えた。

「ずっとその気色悪い京極と生きていくつもりか、カメコは」
「榎さんこそ、ずっと探偵続けるつもりですか。黙ってれば見てくれがいいんですから、もっと生かす職業あるでしょうに」
「だから馬鹿はカメコなんだ。ぼくは生まれながらに探偵だ。世の中で探偵と言えばぼくだ。探偵を生かす職業なんて、探偵しかないだろう」
「はあ。まあ、良く分かりませんけれど。少なくともわたしも、今のままで構わないと思ってますよ」
「過去ばかり見てるから、視野が狭いんだ。だからウスノロマなんだカメコは。前を見て歩けば、もう少し早くなるだろうに」
「適切な意見をどうも」
お茶が欲しい。
再びお湯に火をかけようとしたの腕を、榎木津が掴んだ。
首を巡らせたは「珈琲がいいんですか? 榎さん」と尋ねる。

榎木津は答えない。

真っ直ぐとを見据える面は、さしずめ蝋人形のよう。
無言の覇気にたじろいだは、なんですか、と尋ねた。
「ぼくは昔から言っている。京極とカメコが連れ添う事はない」

そう。
木場修はもっての他だが、あの他人の瞳に過敏な関口でさえ、の想いに気付いて居ないと言うのに、
どういう訳かこの榎木津だけは、学生時代からと中禅寺の微妙な関係に気付いていた。
それでいて、ずっとそう言い続けているのである。
はため息を吐くと、榎木津の手を外しにかかった。
「榎さんが見えるのは未来じゃなくて、過去でしょう。――まあ、仰る通りになりましたが」

男にしては華奢な腕をしているくせに、案外力が強い。
そう言えばの雇い主である川島とも、飲み屋の喧嘩で知り合ったと言っていた。腕っぷしは強いのだろう。
びくともしない腕を外すのを諦めたは、その場に腰かけた。
「カメコの前に居るのは誰だ」
「はあ。まあ、探偵さんですかね」
茶化して言うと、睨まれた。は続ける。
「榎さんですね」
「ぼくは好きを言わない愚か者になる気はないんだ。さっさと歩けノロマなカメコ。ここまで来い」
「……榎さん」
「そうしたらカメコからに昇格だ。人間になれるぞ、カメコ。わはははは」


が中禅寺を思っている長い時間と、
榎木津がこうしてに茶々を入れる時間は同等である。

ずっとこうして生きて来た。

長く続けている事をやめると言うのは、本当に怖い事である。その瞬間、日常は日常ではなくなる。
戸惑うの視線を受ける榎木津の瞳は、どこまでも真っ直ぐで強い。
こんな男だからこそ、馬鹿みたいに真っ直ぐ生きて、秘密を暴く探偵なんていう愚かな職業が出来るのだろうと思う。
愚かだ。愚かしい職業だ。
蓋を開けなければいいと、押し込めたの思い出を引っ掻き回して、前を向けなんていうのは、探偵くらいにしか出来ない。

ぼくは生まれながらに探偵だ。

皮肉な話である。
の秘密は榎木津に暴かれる存在したのではないかとすら、思えた。


「榎さんは、わたしが辿り着くまで待っててくれるんですか」
訊ねると、榎木津は得意気に笑った。腕まで組んで、ふんぞり返る。
「得意な事は星の数より多いが、昼寝は得意中の得意だ」
「じゃあ、わたしはいずれ榎さんを追い越す事になりますね」
言って、はゆるりと笑った。

「まだまだ時間は掛かるかもしれませんけれどね」


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「じゃなきゃ、ノロマなカメコに餌を上げに来たりしないぞ、ぼくは!」
「そう言う事は何か持って来てから言って下さい。手ぶらな人間の台詞じゃありません」