ドリーム小説
雨が降っていた。
糸のような小雨を見上げながら、はポツリと呟く。
「傘忘れた…」
そう言えば、天気予報では夕方から雨だったような。
こんなことなら、うっかり図書室など寄らねば良かったと思うが、時はすでに遅い。
「ちょっと待てば止むかなぁ? それとも、もっと降り出すのかなあ」
呆然と立ち尽くすに掛かる影。
見上げると、見慣れぬ傘がに掛かっていて、それを持っているのはクラスメイトの一期一振だった。
「傘をお忘れですかな?」
「あ、うん」
「良かったら送りましょう」
「え、でも、悪いよ」
「構いません」
空色の髪を揺らして笑う一期一振は、どの角度から見ても好青年。雨だと言うのに、爽やかな風が駆け抜けていく。
うっかり見惚れている事に気付いたは肩を揺らすと、慌てて頭を下げた。
「お言葉に甘えて」

ぬかるんだ地面を並んで歩く。足を取られぬように歩くが、ローファーはもうぐちゃぐちゃだ。
狭い傘はどうしても肩を寄せないと濡れてしまって、とは言えあまり話した事ない男子を相手に近づく勇気もないが、
左肩を犠牲にして歩いていると、一期一振は傘を傾けた。
すっぽりと入ったに反して、一期一振がおおよそ濡れている。
「そんな。一期くんの傘なのに!」
「いえ。わたしのこの傘も借り物ですから」
「え? そうなの?」
「はい。とても大事な人から、お借りしたものです」
「そうなんだ。なんだか、入れて貰って悪い気が…」
「構いません。貴方ですから」
「へ? なんか、良く分からないけれど。じゃあラッキーだったのかな?」
「ははは。そうかもしれませんな」

声を上げて笑う一期一振。
数回程しか話した事も無い彼だが、穏やかで優等生な彼。
声をあげて笑う姿など初めて見たは、少し驚いて目を見張った。
「…どうかされましたか?」
「ううん。なんか、一期くんはあんまりそう言う…声をあげて笑うような所想像付かなかったから、ちょっと目の保養でラッキーかな、的な」
「…笑顔とは、似て来るものだそうですからな」
「……じゃあ、その一期くんの…大切な人に、きっと似てるんだろうね」
言うと、一期一振は嬉しそうに微笑んだ。
きっと彼の言う大切な人は、とても大切に想われているに違いない。
こんな絵本から抜け出て来たような王子様みたいな人に大切にされるなんて、どんな人か見てみたいな、と頭の隅で考えていると、
ふと、一期一振が背後へ首を巡らせた。
釣られて振り返ると、いつの間にやら男が立って居る。
まったく気付かなかったは驚いたが、今まさに声をかけようとしていたらしい男も、一期一振が振り向いた事に驚いた様子だった。
雨に濡れた帽子のつばを押し上げると、眉間に皺を寄せる。
「む? すまない。声を掛けようと思っていたのだが」
「えっと、あの…?」
「驚かせたな。立海大の真田と言う。テニス部の部室を探しているのだが…」
「テニス部、ですか?」
それならこっちですが、と指差しかけたは、再び真田に顔を戻した。
「あ、でも雨だから。たぶん室内のテニスコートかと」
「そうか」
真田と名乗った男は傘をさしていない。
どうやらと同じ、突然の雨に翻弄されている一人のようで、
濡れている彼を他人事と思えないは、一期一振に首を巡らせた。
「あの、一期くん。時間ある? 良かったら、テニス部まで案内したいんだけれど」
「構いません。向かいましょうか」
「良かった。こっちです」
が指差した方向に、三人そろって歩き出す。
しばらく歩くと、は真田を仰ぎ見た。

「立海大の、真田弦一郎くん、ですよね? 練習試合か何かですか?」
「ああ。再来週にな。君は…」
「跡部くんと、中学高校とクラスがほとんど同じだったんです。今は生徒会も一緒で。その関係で何度か応援にも行ったんですよ。その時、真田君の事も拝見したんです」
「そうだったのか、跡部の」
「いやあ、応援に行ったと言うよりは、行かされたと言う感じで。実はその時までテニスのルールなんてほとんど知らなかったんですけれど。
見ているうちに、とても楽しくなってしまって。帰ってルールだけでもと思って、勉強しちゃいました」
「ラケットは振ってみないのか?」
「残念ながら、運動音痴なので」
「やる前から決めつけるなど、たるんどる。テニス程面白い競技は他にない」
「跡部くんも、良くそう言ってますよ。とても楽しいって、顔に書いてありますもんね」
「そうか? あの顔のどこにそう書いてあるのか分からんが…」
言いかけた真田は、口元を緩めるようにして少し笑った。

「まあ、書いてあるのだろうな。あいつも、俺も」

「ですね」
今まさにそう言う顔してますよ、とは言えず、はにんまりと微笑んだ。
ふと顔をあげると、そんなを見ている一期一振と目が合う。瞬くと、彼はゆるりと笑った。
「いえ、良く見ていらっしゃるのだなと」
「そうかな」
「ええ」
「嬉しいな。ありがとう、一期くん」
にっこりと微笑みが返って来る。
あまりの王子感に感服しながら、は室内コートの扉を開いた。
氷帝テニス部は人数も多い為、ここを使えるのは準レギュラーとレギュラーのみだと聞いた覚えがある。
広いテニスコートにちらほらと見える顔を見渡すと、最後に止まった姿をは指差した。
「真田くん。あそこに」
「ああ。助かった」
「いえいえ。困った時はお互い様です。ではでは」
「真田じゃねぇか。遅かったな」
タオルで汗を拭きながら歩いて来た跡部は、真田の奥に居るに目を止めると、更にその奥に居る一期一振に目元を浮かせる。
「珍しい組み合わせだな。あーん」
「図書室で本を借りてたら、雨が降り出したの。傘忘れちゃってて。たまたま通りかかった一期一振くんに送って貰ってたら、真田くんに会ったの」
「…」
跡部がついと一期一振を見る目を細める。
対して一期一振は物おじする様子もなく、笑顔を返した。
面白くなさそうな顔をした跡部は、真田に視線を戻す。
「残念だったな、真田。偵察も兼ねてたんだろーが。たった今練習は終わったぜ」
「生憎だな、跡部。偵察など姑息なマネをせずとも、立海は強い」
「…幸村は万全だろうな?」
「…ああ」
「ふん。せいぜい氷帝とぶつかるまで、負けんじゃねぇぞ。特にあのチビにはな」
「その台詞。そのまま返すぞ、跡部」
何やら険悪なムードである。
体育会系のおっかない雰囲気にたじろいだは、「じゃあわたしはこれで」と小さな声をあげた。
そのままスススーと去って行きたかったのに、跡部は斜めに見下ろすと、「」と呼び止める。
「な。何?」
「待ってろ。送っていく」
「え!? いや、いいよ! 跡部くん、車でしょ!?」
「車だからだよ。一期一振だったか? てめェもまとめて乗っけてやるよ。ちょっと待っとけ」
「い、いやでも打ち合わせとか…」
「すぐ済む。真田、面倒だがテメェも駅まで連れてってやるよ」
「えー、跡部、俺ら送ってくれるんじゃねェのかよ」
「いつ誰がンな約束したんだよ。向日。走って帰れ。持久力付けるには持って来いのトレーニングだろうが」
勝手に決めて、背中を向ける跡部。
どうしようと一期一振を見ると、彼は跡部とは真逆の、雨が降るグラウンドの方を見ていた。
遠くを見る瞳の視線を辿って行くと、小さな二つの影。
傘も差さずに立って居るその影を見た一期一振は、穏やかに笑うと、跡部に首を巡らせる。
「いえ、そう言う事なら、わたしはこれで」
「あ? 遠慮なんていらねぇぜ」
「そうやで。こいつの車、リムジンやさかいな」
「弟たちの所へ行かなくては。どうやら傘を忘れたようなので」
「え? あ、じゃあお邪魔じゃなければわたしも一緒に…」
元はと言えば、一期一振に送ってもらう約束をしていたのである。
それがうっかり車だからと乗り返る訳にもいかず、背中を追いかけようとしたに、一期一振は首を巡らせた。
「車の方が濡れませんので、どうぞそちらへ」
「でも…」
「風邪などひかれませんよう。帰ったら、温かくして下さい」
頭を下げた一期一振が、傘をさして帰って行く。
少し濡れた空色の髪は、雨の中でも美しく映えて、
呆けて見送るの頭を跡部が殴った。

「いった!」
「オラ、使ってねェタオル貸してやる。来い」
「……王子の後のギャップが辛すぎる」
「あぁん? 王様を前に、王子なんて所詮雑魚だろーが」
「王子の方がいい!」
「うるせェ、ホラ、さっさと来い!」
「うわーん、こんな横暴な王様嫌だァアアア!」


*+*+*+*+*
一期一振くん、カムバーーーック!


「あ、あの、いち兄。主様は…」
「跡部殿が送ってくれるそうだ。主が出発するまで、傘に入ってると良い」
「いち兄。…いつになったら主君とお話しが出来ますか?」
「もう少しの辛抱だよ、前田。きっとね」