ドリーム小説
「跡部殿、あまり現世に長いするのは危険かと」
「ああ、分かってる」
長谷部の言葉に頷いて、跡部は扉に手を掛けた。
跡部財閥御曹司の名を振りかざし人払いした廊下には人一人とて気配はない。
ただ扉一枚隔てた中からは賑やかな声が漏れ聞こえて来ていて、長谷部の瞳に映る跡部は口端を緩めるようにして微笑んだ。
開くと、談笑していた忍足が首を巡らせる。
「なんや。ようやく跡部が来たで。呼び出した割に社長出勤とは、相変わらずやなぁ」
「それ以前の問題だろ、侑士。そもそも急に集まれって言うのが相変わらずなんだって」
「…ま、それで集まっている俺たちが言う台詞じゃねぇけどな」
口先を尖らせた向日の横で、宍戸は自嘲するように肩を持ち上げて笑った。
室内には八人の男たち。それを見渡した跡部が口を開くより先に、年甲斐もなく椅子の背もたれを前にして体重を預けていた忍足が手を伸ばした。
「ほな。貰おか。後はこっちでやっとくさかい」
「貰おうかって――」
「テニス部全員がここに集まるのは無理かなと思いまして、ファックスで流す手筈にしてるんです」
「地方に行っている連中もいますからね」
「全員連絡取りました。喜んで協力…するそうです。そう時間は掛からないと思います」
無表情の樺地が淡々と口を動かす。
その樺地を横眼で見て、慈郎は猫のようにほわっとあくびを零した。
「跡部。樺地は真っ先に頼って貰えないで寂しそうにしてたしー…俺は眠いし…ぐぅ」
「それはいつもの事やろ、ジロー。って、もう寝てるやんけ」
寝息を立てる慈郎に半笑いでツッコミを入れながら、忍足は早く寄こせと言わんばかりに手を動かす。
その最中、眼鏡の奥の瞳がちらりと長谷部を見たが、何一つ問う事なく視線は跡部へと戻った。
「時間無いんやろ。手も足りんのやろ。礼は後ででええから、はよ行きや」
「あ、ああ」
「礼は飯な、跡部。高いの頼むぜ」
にんまりと笑う向日。
宍戸は気だるそうに手を振った。
「そーいうこった。早く行け、跡部」
「……助かる」
資料を忍足の手に乗せた跡部が低く言うと、日吉は目を細めた。口端が針に釣られたようにして持ち上がる。
「…その言葉を聞けただけで、今日は来た価値ありますね」
「日吉、そう言う時はもっと嬉しそうに笑いなよ。あ、部長」
去ろうとした跡部が振り返り、長太郎は口を開いたまま、視線を泳がせた。
大きい身体の肩身を狭くする。
やや迷うような素振りを見せた長太郎は、跡部を仰ぎ見た。
「あの、今回の件ってやっぱり…さんに…先輩に関係あるんですよね?」
長太郎の問いに、跡部は黙って頷くしかない。
すると彼は小さく笑って、頭を下げた。
「そうですか。よろしくお願いします、跡部さん」
もう一度頼むと声を掛けて、跡部は扉を閉めた。歩き出す。
その少し後ろを歩きながら、長谷部はおもむろに口を開いた。
「あの――背の高い男は、主の知り合いですか」
「ああ。鳳はアイツの家の近くでな。親同士も顔見知りらしい」
「そう…ですか」
「それがどうかしたのか?」
「いえ…」
長谷部は視線を落とす。
「主の昔の話は、あまり聞いた事が無いもので」
「そうか」
跡部はしばしの間を置いて、言葉を続けた。微かに笑う。
「どちらにしろ…昔より、今の方が断然幸せそうだぜ。アイツはな」
「そう見えますか?」
「ああ」
「跡部さんは、いつから主の事を?」
訊ねられて、跡部は足を止めた。くるりと首を巡らせる。目があった長谷部は自分の言葉に少し驚いたような素振りを見せて、頭を振った。
「出過ぎた事を聞きました」
「嫌…いつから……って言われてもな。良く覚えてないが、恐らく中二だな」
「はっきりしない。そう言うものですか」
「ガキの頃の話だからな。それこそ中学卒業位までは俺も必死で…ガキながらにあの手この手を考えてみたりしたもんだぜ。だが高校に入って」
跡部は言いながら、宙を仰ぐ。
「跡部を継ぐ事が現実味を帯びてくるにつれて、それなりな家柄の娘と縁組させられるだろう先が見えて来た。
なら最後に……チョコの一つでも貰っておきたいと、殊勝な事を思った訳だ。青臭ぇよな」
「それで主と約束を?」
「何とかこぎ付けたまでは良かったが、当日になって、待てど暮らせど持って来ない。
ようやく生徒会室に顔を出したかと思えば、チョコのチョも出さずに帰って行きやがった」
「それは…」
残念ですね。悲惨ですね。
出掛った言葉はどれも直球過ぎて、長谷部は言葉を飲み込んだ。
跡部はそんな長谷部の胸中など想像つくように笑う。
「まあ結局貰えず仕舞いで……俺は相も変わらず区切りをつけられねぇまま、今日に至るって訳だな。おかげで潔く貰うつもりの許嫁も、有耶無耶にしっぱなしだ」
長谷部は聞いた割に、そうですか、と何とも間の抜けた返答を返した。
それは長谷部には途方もない話のように感じたからだ。
人の一生なぞ、刀が存在する時間に比べればほんの僅かなはずなのに。
彼女と過ごす穏やかで賑やかな時間。時折ふつふつと沸いて来る人の子のような感情。
焦燥にも似たそれを思い出した長谷部は、零すようにぽつりと呟いた。
「それは…幸せなようでいて、何とも疲れそうな時間ですね」
言うと、跡部は口端を持ち上げる。是とも否とも言わず、口を開いた。
「卒業して、長太郎――さっきの男に頼んだんだが、結局住所も分からなくてな。実家には定期的に封書を送っていたが、返事もねぇ」
薬研が景気よくゴミ箱に放り投げていた封筒を思い返す。
この本丸に来て、あの光景を何度見たのか。
長谷部が脳裏で数えているのを、跡部は遮った。
「アイツ、実家には帰ってるのか?」
「催促が来てようやく」
長谷部は一度口を噤むと、眉間に縦皺を刻んだ。
「審神者になった者は…どうしても現世は縁遠くなりますから」
「だな…今こうして事情を知って見ると…その言葉で納得しちまう自分が腹立たしいが」
「跡部殿は、主をどうなさるおつもりですか」
訊ねた長谷部に、跡部は笑う。
「どうなさるって言うのは、どういう意味だ?」
「言葉通りの意味です。主を…現世に連れ戻すおつもりですか」
跡部は答えない。
二人分の足音が響いて、跡部はようやく言葉を返した。
「お前はどうしたいんだ。もしくは、どうして欲しい?」
「どう…、ですか?」
「その質問にはてめぇの意志がまるでねぇ。俺さえよければアイツを連れ戻していいのか。これじゃあ、アイツの意志が無ぇ。んな質問にどう答えろって言うんだ」
跡部は長谷部を振り返る。
切れ長の瞳。その右下にあるホクロ。恐ろしく整った顔立ちの男は、静かに長谷部を見据えた。
「俺は…」
長谷部は押し黙る。
「俺は…主の刀です。主が居ない毎日など…考える事も出来ない」
ただ、と、呟いた声は自分でも驚くほど、所在なさ気に弱弱しかった。
なるほどこの現状に弱っているのだと、ようやく気付く。
長谷部は緩く頭を振った。
「それでも。主が現世に戻れば…、このような危険に晒す心配も無くなるのかと、思わなくもありません」
跡部は眉間に皺を寄せたまま。そうだな、と頷いた。
「俺も…同じだ。
あんなに楽しそうなアイツの顔を見たのは初めてだったからな。
ただ、今回のような事を考えると、しょっ引いてでも連れ戻した方がいいかもしれねぇとも思う」
口元が弧を描く。
跡部は小さく笑って、長谷部の肩を押した。
「だがその答えは、俺でもなく、てめぇでもなく、アイツで出すべき答えだ。だろ? そしてその為に俺達が出来る事は…」
「主を、助ける事…ですか」
「ああ。俺に出来るのは後方支援。お前らはアイツの刀なんだ。死ぬ気で手を伸ばして貰わなきゃ困るぜ」
そう言って、跡部は階段の扉へ手を伸ばす。
その手がドアノブに触れるか触れないかの宙を彷徨って、ほんの僅かな声が、長谷部の耳へ届いた。
「俺の手は、随分と前に届かなくなっちまったからな」